第157話 美緒は「急がなくていいよ」を送らなかった
水曜の朝、美緒は予定より少し早く目が覚めた。
目覚ましが鳴る前だった。
部屋はまだ薄暗い。
カーテンの隙間から入る光も弱く、時計の数字だけが妙にはっきり見えた。
水曜。
今日は、水曜だ。
紗季が「水曜なら」と返してくれた日。
美緒はベッドの上でスマホを手に取った。
紗季とのやり取りを開く。
『来週の水曜か木曜、少しだけどう?』
『水曜なら』
『うん。じゃあ水曜に』
そこから先は、何もない。
何もないことが、今日はやけに大きかった。
紗季は来るだろうか。
分からない。
来てほしい。
でも、来られなくても、責めたくない。
そう思っているのに、胸の奥には小さな焦りがあった。
美緒は返信欄を開いた。
『急がなくていいよ』
打つ。
すぐには消さなかった。
いい言葉のように見えた。
急がなくていい。
走らなくていい。
無理しなくていい。
もし迷っているなら、自分のペースで来ていい。
そう伝えたい。
けれど、美緒の指は送信ボタンには向かわなかった。
急がなくていいよ。
それは、紗季に「今、自分は急がされているのかもしれない」と思わせないだろうか。
美緒が待っていることを、必要以上に意識させないだろうか。
美緒はその文字を消した。
次に打った。
『無理なら別の日でも』
これも優しい言葉のはずだった。
でも、画面の中では少し違って見えた。
無理なら。
その言葉は、紗季に「無理かどうか」を今すぐ判断させる。
別の日でも、と言われたら、今日がだめなのかを答えなければならない気がする。
美緒は、また消した。
三度目。
『今日、大丈夫?』
打って、すぐに止まった。
大丈夫。
その言葉は、もう美緒の中でも軽く使えなくなっていた。
紗季が何度も隠れてきた言葉。
紗季が、ようやく簡単には使えなくなってきた言葉。
それを、こちらから差し出していいのだろうか。
美緒は、画面を見つめた。
今日、大丈夫?
それは、心配だ。
でも同時に、紗季に「大丈夫です」と言わせる形にも見えた。
消す。
返信欄は空になった。
美緒はスマホを胸の上に置き、天井を見た。
「……送らない」
小さく呟いた。
何もしないのではない。
逃げるのでもない。
紗季の足を止めないために、送らない。
美緒は起き上がった。
今日は水曜だ。
紗季が来るかどうかは分からない。
でも、美緒は待ち合わせ場所へ行く。
それだけは、自分で決めていた。
◇
撮影前、高瀬菜央はスマホを握ったまま、控室の隅に座っていた。
白瀬アカリが入ってくると、高瀬は顔を上げる。
「白瀬さん」
「はい」
「今日の美緒、けっこう苦しいです」
「送らない場面ですよね」
「はい」
高瀬は台本を開いて、該当ページを指で軽く押さえた。
「急がなくていいよ、無理なら別の日でも、今日大丈夫? 全部、優しい言葉のはずなんです」
「はい」
「でも、全部紗季の足を止めそうで」
しらいさんは頷いた。
「分かります」
「送れば、美緒は安心できるんです」
「はい」
「でも、紗季は確認される」
「はい」
「今日来られるか。無理か。大丈夫か」
「はい」
「それを、待ち合わせ前に考えさせるのは、ちょっと違う気がして」
しらいさんは、静かに息を吐いた。
「美緒さん、待つのがうまくなってきましたね」
高瀬は苦笑した。
「うまくなってるんですかね」
「少なくとも、送らないことを逃げにしていないです」
「それ、今日すごく大事です」
「はい」
「前は、送らないことで踏み込みすぎないようにしていた」
「はい」
「今日は、紗季さんの足を止めないために送らない」
高瀬は、しばらくその言葉を見つめるように黙った。
それから、小さく頷く。
「それで行きます」
「はい」
「紗季の足を止めないために、送らない」
しらいさんは少しだけ笑った。
「今日の一文候補ですね」
「また採用されます?」
「かなり」
「やった」
高瀬は軽く笑った。
けれど、その笑いの奥には緊張が残っていた。
◇
美緒の部屋セット。
朝。
ベッドの上で、美緒はスマホを見ている。
紗季とのやり取り。
『水曜なら』
『うん。じゃあ水曜に』
その下に、返信欄。
監督が高瀬へ説明する。
「美緒は、今日は送らないことを選びます」
「はい」
「ただし、前回の送らないとは違う」
「はい」
「今回は、紗季を確認しないために送らない」
「はい」
「優しさを相手に渡すのではなく、相手の足元に置かない」
高瀬が頷く。
「分かりました」
「大事なのは、美緒が冷たくならないこと」
「はい」
「送らないけれど、待つことはやめていない」
「はい」
一度目の本番。
美緒はスマホを見る。
返信欄を開く。
『急がなくていいよ』
打つ。
消す。
『無理なら別の日でも』
打つ。
消す。
『今日、大丈夫?』
打つ。
消す。
高瀬の美緒は、そこで少し悲しそうな顔をした。
カット。
監督が首を少し傾げる。
「今のは、美緒が自分の優しさを諦めたように見えます」
「はい」
「送らないことを悲劇にしないでください」
「分かりました」
「美緒は、送れなかったのではなく、送らないと決める」
「はい」
二度目。
今度は、決める感じが強すぎた。
美緒が少し立派な人に見えてしまう。
カット。
監督が言う。
「今度は、少し強いですね」
「はい」
「美緒は完璧に待てる人になったわけではありません」
「はい」
「送りたい。心配。けれど、今は送らない。その揺れは残してください」
「はい」
三度目。
朝の部屋。
美緒はスマホを見る。
紗季とのやり取りを読む。
返信欄を開く。
『急がなくていいよ』
打つ。
少し見る。
違う。
消す。
『無理なら別の日でも』
打つ。
指が止まる。
これも、紗季に判断を迫る。
消す。
『今日、大丈夫?』
打つ。
大丈夫、という文字を見て、美緒の目がほんの少しだけ曇る。
消す。
返信欄は空になる。
美緒はスマホを伏せない。
でも、もう何も打たない。
起き上がる。
部屋のカーテンを少し開ける。
朝の光が入る。
美緒はスマホをテーブルに置く。
画面は上。
送らない。
でも、待ち合わせ場所へ行く。
カット。
現場が静かになる。
監督がモニターを見て、やがて頷いた。
「今のでいきましょう」
高瀬菜央は、小さく息を吐いた。
白瀬アカリも、離れたところでその息に合わせるように息を吐いた。
美緒さんは、今日も送らなかった。
でも、逃げなかった。
◇
昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。
三崎は唐揚げ弁当を開けているのに、なぜかスマホのメッセージアプリをじっと見ている。
「今日は何をしてるんだ」
「送るか送らないかを考えてる」
「白瀬アカリか」
「だいたいそう」
「だいたいじゃなくて全部だろ」
三崎は唐揚げを一つ食べてから言った。
「待ち合わせ前の“急がなくていいよ”ってさ」
「うん」
「優しいけど、相手によっては足止まるよな」
春日は、もう驚かずに箸を置いた。
「続けて」
「お、今日は早い」
「外側の番人だろ」
「まあな」
三崎は少し得意そうに言った。
「急がなくていいよって送られたら、あ、急がせてると思われてるのかなってなることある」
「うん」
「無理なら別の日でもって言われたら、今すぐ無理かどうか決めなきゃってなる」
「うん」
「今日大丈夫?って言われたら、大丈夫ですって返しそうになる」
「うん」
「だから、送らないほうが優しい日もある」
春日は頷いた。
今日の美緒に、きっとそのまま重なる。
「三崎」
「何個?」
「十八個」
「増えた」
「今日かなりいい」
「現物は?」
「今日はなし」
「昨日もなし」
「一昨日が奇跡だった」
「もう二度とないやつか」
三崎は文句を言いながらも、少し笑った。
そして、唐揚げをもう一つ食べた。
「でもさ」
「うん」
「送らないって、見えないから損だよな」
「損?」
「だって、相手には分からないじゃん。こっちが送らずに踏ん張ったこと」
「うん」
「でも、視聴者は知ってる」
「うん」
「だから強い」
春日は、その言葉を覚えておく。
美緒の待ち。
紗季には見えない。
でも、読者には見える。
これが、物語を前へ引っ張る。
◇
撮影後、高瀬菜央は控室で少しぐったりしていた。
「白瀬さん」
「はい」
「送らない芝居、地味に疲れます」
「分かります」
「何もしてないように見えるのに」
「何もしてないわけじゃないですから」
「ですよね」
高瀬は、紙コップの水を飲んだ。
「美緒、待ち合わせ場所には行くんです」
「はい」
「でも、紗季に確認しない」
「はい」
「これ、怖いです」
「怖いですね」
「来るか分からない人を、確認せずに待つ」
「はい」
「でも、確認したら止めちゃうかもしれない」
しらいさんは、頷いた。
「美緒さん、かなり強いです」
「強いですか」
「強いというか、待つ力がついてきた気がします」
「待つ力」
「はい」
高瀬は、少しだけ嬉しそうに笑った。
「美緒に伝えたいです」
「伝わると思います」
「視聴者には?」
「たぶん、かなり」
高瀬は笑った。
「それ、アクセス狙い的にも?」
「強いと思います」
「白瀬さんまで編集者みたいになってきましたね」
「春日くんの影響です」
二人で笑った。
◇
青灰色のノートを開く。
今日の一文は、朝に高瀬と話した言葉から決まっていた。
『美緒さんは、優しい確認を送らなかった。紗季さんの足を止めたくなかったから。』
書いたあと、少しだけ胸が温かくなった。
美緒の待ちは、見えにくい。
けれど確かにそこにある。
写真を撮って、春日くんへ送る。
すぐ既読。
『読みました』
『美緒さん、かなり待てるようになっていますね』
しらいさんは返す。
『うん』
『三崎がかなり近いことを言っていました』
既読。
『外側の番人?』
『はい』
『急がなくていいよ、無理なら別の日でも、今日大丈夫? 全部優しいけれど、相手の足を止めることがある』
『だから、送らないほうが優しい日もある、と』
しらいさんは、小さく頷いた。
『三崎さん』
『今日はメッセージアプリ?』
春日くんの返信はすぐだった。
『もう怖いと言うのも飽きてきました』
『当たり?』
『はい』
『唐揚げ十八個?』
『当たりです』
『現物は?』
『今日は心の中です』
『安定』
少し笑えた。
その笑いで、美緒の朝から戻ってこられた気がした。
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
今日は美緒の待ちが、少しだけ自分にも刺さっていた。
玄関が開く。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
部屋に入る。
迎賓館ではない、いつもの部屋。
ローテーブルには、白いマグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜。
少し離れたスプーン。
春日くんがミルクティーを作る。
蜂蜜は普通。
カップを置く。
ことん。
今日は、送らない確認の音だった。
「美緒さん、送らなかった」
「はい」
「急がなくていいよ」
「はい」
「無理なら別の日でも」
「はい」
「今日大丈夫?」
「はい」
「全部消した」
「はい」
「でも、待ち合わせ場所には行く」
「はい」
春日くんは、静かに聞いていた。
「それ、すごく強いですね」
「出た」
「出ます」
「今日は本当にそう」
「はい」
「確認しないで待つって、怖い」
「はい」
「来るか分からない」
「はい」
「でも、確認したら足を止めるかもしれない」
「はい」
「春日くんも、そういうことある?」
春日くんは、少しだけ目を伏せた。
「あります」
「私に?」
「はい」
「今日大丈夫ですか、って聞きたい日?」
「あります」
「でも聞かない?」
「聞かない日もあります」
「どうして?」
「しらいさんが“大丈夫”と返してしまいそうな気がするので」
しらいさんは、カップを持ったまま黙った。
それは、正しい。
かなり正しい。
「私、返しそう」
「はい」
「大丈夫じゃなくても」
「はい」
「だから、聞かない?」
「聞かない日もあります」
「春日くん」
「はい」
「それ、かなり助かってるかも」
「よかったです」
「出た」
「出ます」
しらいさんは、少し笑った。
でも、胸の奥には柔らかいものが残った。
◇
青灰色のノートを開く。
今日の一文を見せる。
『美緒さんは、優しい確認を送らなかった。紗季さんの足を止めたくなかったから。』
春日くんは、ゆっくり読んだ。
「いい一文です」
「うん」
「送らないことが、かなり能動的になっていますね」
「能動的」
「はい。前にも三崎が言っていました。待つのは何もしないことではない、と」
「うん」
「今日の美緒さんは、かなり待っています」
「はい」
「でも、紗季さんには見えない」
「はい」
「読者には見える」
「アクセス狙いとして強い?」
「強いです」
春日くんは真面目に頷いた。
「見えない優しさを読者だけが知っていると、読者は美緒さんを応援したくなると思います」
「うん」
「そして、紗季さんにも早く届いてほしくなる」
「続きが気になる」
「はい」
しらいさんはノートを閉じた。
「今日、春日くんかなり編集者」
「すみません」
「謝らないで。今日は助かる」
◇
少しして、しらいさんは言った。
「春日くん」
「はい」
「金曜、私に今日大丈夫?って聞かないで」
「分かりました」
「でも、心配してないふりもしないで」
「難しいですね」
「かなり」
「では、どうしましょう」
「うーん」
しらいさんは考えた。
「待ってる、だけでいい」
「はい」
「急がなくていい、も言わなくていい」
「はい」
「来られなくてもいい、も言わなくていい」
「はい」
「ただ、待ってる」
「分かりました」
「でも、重く待たない」
「難易度が高いですね」
「かなり」
春日くんは少し笑った。
「普通に待ちます」
「また普通」
「普通が一番難しいので」
「うん」
「でも、練習中です」
「私も」
二人は少しだけ笑った。
それだけで、水曜と金曜の怖さが少し薄くなった。
◇
帰る時間になった。
しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。
水の音。
カップを拭く音。
棚に置く音。
ことん。
今日最後の音。
「何割ですか」
春日くんが聞く。
「九割八分」
「高いですね」
「春日くんに、今日大丈夫?って聞かれないことが決まったから」
「聞きません」
「でも、待ってて」
「待っています」
「普通に」
「普通に」
「難しいね」
「難しいです」
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「優しい確認も、足を止めることがある」
「はい」
「でも、何も言われないと不安な日もある」
「はい」
「そのへん、毎回面倒くさいけど」
「はい」
「一緒に迷って」
春日くんは、静かに頷いた。
「一緒に迷います」
「よし」
しらいさんは笑った。
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「金曜なら」
「普通に待っています」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
春日悠真は、ローテーブルの青灰色のコースターを見た。
優しい確認を送らない。
それは、思ったより難しい。
相手を心配する言葉。
相手に逃げ道を渡す言葉。
相手を安心させたい言葉。
それが、相手の足を止めることもある。
送る優しさ。
送らない優しさ。
どちらが正解かは、その日によって違う。
だから、迷うしかない。
春日はスマホを見た。
金曜は近づいている。
今日大丈夫ですか、とは聞かない。
急がなくていいです、も送らない。
ただ、待つ。
普通に。
それが今の春日にできる、いちばん難しい準備だった。




