第156話 紗季さんは、着ていく服を選べなかった
岸谷紗季は、クローゼットの前で止まっていた。
水曜は、まだ来ていない。
けれど、近づいている。
カレンダーを見なくても分かる。
スマホを開かなくても分かる。
美緒からのメッセージを読み返さなくても分かる。
水曜は、もう部屋の中にいた。
白いカーテン。
小さなテーブル。
グレーのマグカップ。
一人分の椅子。
テーブルの上に伏せずに置かれたスマホ。
そして、クローゼットの中に並ぶ服。
仕事帰りに会うのなら、そのままの服でいい。
そう思おうとした。
けれど、ただの仕事帰りではない。
美緒と会うかもしれない日だ。
食事に行くかもしれない日だ。
けれど、気合いを入れた服を選ぶと、自分がその日を楽しみにしているみたいに見える気がした。
楽しみにしている。
その言葉が、まだ紗季には大きすぎた。
では、いつも通りでいいのか。
それも違う気がした。
美緒は、ちゃんと日付を入れて誘ってくれた。
自分は「水曜なら」と返した。
その約束に、あまりに普段通りで行くのは、雑に扱っているように見えないだろうか。
紗季は、白いブラウスに手を伸ばした。
やめた。
きちんとしすぎている。
薄いベージュのカーディガンを見た。
やめた。
柔らかすぎて、自分が会いたがっているように見える。
黒いジャケット。
やめた。
仕事の延長みたいになる。
紗季は、クローゼットの前に立ったまま、何も選べなかった。
服を選んでいるだけのはずだった。
でも本当は、美緒との距離を選んでいた。
近づきすぎない服。
遠ざけすぎない服。
気合いを入れすぎない服。
でも、どうでもいいと思っているようには見えない服。
そんなものは、どこにも見つからなかった。
紗季はクローゼットの扉に手をかけた。
閉じることもできず、開けたまま立ち尽くした。
◇
控室でその台本を読んだしらいさんは、思わず小さく呻いた。
「服……」
自分でも笑ってしまうくらい、現実的な難しさだった。
誰かに会う服が選べない。
それは、派手な事件ではない。
けれど、かなり痛い。
何を着るかは、ただの衣装ではない。
どういう距離で行くか。
どれくらい期待しているように見せるか。
どれくらい何でもないふりをするか。
服は、言葉より先に相手へ届いてしまうことがある。
だから怖い。
そこへ理沙さんが入ってきた。
「喉は?」
「九割一分です」
「私の評価では八割九分」
「低いですね」
「今日は喉じゃなくて、クローゼットに負けている顔をしているから」
しらいさんは、台本から顔を上げた。
「クローゼットに負ける日、ありますね」
「あるわね」
理沙さんは椅子に座り、タブレットを閉じた。
「今日の場面は、服選びではないわ」
「はい」
「美緒との距離選びよ」
「分かります」
「分かりすぎる顔をしている」
「はい」
理沙さんは少しだけ笑った。
「気合いを入れれば入れるほど、紗季が“行きたい人”に見える」
「はい」
「普段通りすぎると、“どうでもいい人”に見える」
「はい」
「どちらも違う」
「はい」
「今日の目標は?」
しらいさんは少し考えた。
「選べないことを、大げさにしない」
「続けて」
「紗季さんは、服を選べない理由を言葉にはできていない」
「ええ」
「でも、体は分かっている」
「そう」
「これは、美緒さんとの距離を選ぶことなんだって」
理沙さんは、静かに頷いた。
「その距離で行きなさい」
「はい」
「あと、可愛く迷いすぎないこと」
しらいさんは少し目を瞬いた。
「可愛く?」
「ええ。デート前に服を迷う女の子、にすると違う」
「ああ……」
「紗季は、浮かれて迷っているのではない」
「はい」
「でも、完全に嫌がっているわけでもない」
「はい」
「その間」
また、間。
けれど、この物語はずっとその間を歩いている。
◇
撮影前、高瀬菜央が衣装ラックの横に立っていた。
今日は美緒側の出番はほとんどない。
けれど、紗季が水曜へ向けて服を選べない回だと知って、気になっているらしい。
「白瀬さん」
「はい」
「紗季、服選べないんですよね」
「はい」
「美緒としては、何着て来てもいいんですけどね」
「そう言われると、余計に選べないかもしれません」
「ですよね」
高瀬は苦笑した。
「何でもいいよ、って優しい言葉なのに、受け取る側は困ることありますよね」
「あります」
「何でもいいわけないじゃん、ってなる」
「はい」
しらいさんは、衣装ラックに並ぶ服を見た。
白いブラウス。
ベージュのカーディガン。
黒いジャケット。
紺のワンピース。
グレーのニット。
どれも悪くない。
だからこそ、難しい。
「美緒さんは、どんな紗季さんで来てほしいですか」
しらいさんが聞くと、高瀬は少し考えた。
「来てくれるなら、何でも」
「それ、美緒さんです」
「でも本音です」
「はい」
「ただ……無理して整えて来たら、少し心配になるかもしれない」
「はい」
「でも、雑に来られても悲しいかもしれない」
「かなり難しい」
「美緒も面倒くさいですね」
「紗季さんもです」
二人で笑った。
笑いながらも、高瀬は少し真面目な顔に戻る。
「白瀬さん」
「はい」
「今日、服を選べない紗季を見たら、美緒はたぶん泣きます」
「美緒さんは知らないですけどね」
「そうなんです。美緒は知らない」
「でも視聴者は見る」
「はい」
「また、見ている人だけが知るやつですね」
「強いやつです」
高瀬は少しだけ笑った。
「私、最近それ好きになってきました」
「私もです」
◇
撮影は岸谷紗季の部屋セットで行われた。
夜。
水曜の前の夜、という設定。
クローゼットの扉が開いている。
紗季は、その前に立っている。
監督が説明する。
「白瀬さん、今日は服を選ぶ場面ですが、服そのものに迷いすぎないでください」
「はい」
「服の正解を探しているのではなく、美緒との距離の正解を探している」
「はい」
「でも、紗季はそのことに気づいていません」
「はい」
「ただ、どれも違う、と思っている」
しらいさんは頷いた。
どれも違う。
けれど、何が違うのか分からない。
一度目の本番。
紗季はクローゼットを開ける。
白いブラウスを見る。
手を伸ばす。
やめる。
ベージュのカーディガンを見る。
やめる。
黒いジャケットを見る。
やめる。
しらいさんは、そこで迷いを少し分かりやすく出しすぎた。
服選びに悩む場面としては自然だったかもしれない。
でも、紗季の静かな混乱ではなかった。
「カット」
監督が言う。
「今のは、服を選べない女性の場面としては成立しています」
「はい」
「でも、紗季としては少し迷いが見えすぎています」
「はい」
「もっと、なぜ選べないのか本人にも分からない感じで」
「分かりました」
二度目。
今度は淡々としすぎた。
白いブラウスを見てやめる。
カーディガンを見てやめる。
ジャケットを見てやめる。
どれもただ合わない服を選別しているだけに見えた。
カット。
監督が少し苦笑する。
「今度は、衣装合わせになりましたね」
「はい」
「三度目、服を見るたびに美緒との距離が少しだけ近づいたり遠ざかったりする感じで」
服を見るたびに、距離が動く。
それは分かる気がした。
三度目。
紗季はクローゼットを開ける。
白いブラウス。
きちんとしている。
美緒に対して失礼ではない。
でも、少し頑張りすぎている。
手が止まる。
戻す。
ベージュのカーディガン。
柔らかい。
でも、その柔らかさが自分の気持ちを先に言ってしまいそうで怖い。
戻す。
黒いジャケット。
いつもの自分に近い。
でも、仕事の壁を持ち込むように見える。
戻す。
紗季は何も選べない。
けれど、焦っているわけではない。
泣きそうでもない。
ただ、自分と美緒の間にどれくらいの距離を置けばいいのか分からない人として、そこに立っている。
最後に、クローゼットを閉じようとする。
でも閉じない。
開けたまま、少しだけ視線を落とす。
カット。
現場が静かになった。
監督がモニターを見る。
そして頷いた。
「今のでいきましょう」
しらいさんは、そっと息を吐いた。
服は選べなかった。
でも、その選べなさは、ちゃんと紗季のものになった気がした。
◇
昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。
三崎は今日、なぜか唐揚げ弁当の横にファッション誌を置いていた。
「お前、それは何だ」
「服」
「見れば分かる」
「白瀬アカリの役、そろそろ服選べなくなると思って」
「本当にお前は何なんだ」
「外側の番人」
「服まで見るのか」
「見る」
三崎はファッション誌を適当にめくりながら言った。
「人と会う服って、距離感だよな」
春日は、箸を止めた。
「距離感」
「うん。気合い入れすぎると、楽しみにしてました感が出る」
「うん」
「普段通りすぎると、どうでもいいみたいになる」
「うん」
「その中間を探すのがしんどい」
春日は、もう驚かないことにした。
驚くと負ける気がする。
「三崎」
「何個?」
「十七個」
「昨日と同じ?」
「高評価維持」
「現物は?」
「昨日一個出ただろ」
「今日は?」
「心の中」
「一日限定かよ」
三崎は文句を言いながら唐揚げを食べた。
それから、少し真面目に続ける。
「服を選べないって、地味だけど刺さると思うんだよ」
「どうして」
「読者が経験あるから」
「うん」
「デートとかじゃなくてもさ、職場でも、友達でも、久しぶりに会う人でも、何着るかで悩むことあるだろ」
「あるな」
「その悩みって、結局その人とどういう距離で会いたいかなんだよな」
春日は頷いた。
今日もしらいさんへ伝える言葉ができた。
◇
撮影後、しらいさんは青灰色のノートを開いた。
今日の一文は、迷わなかった。
『紗季さんは服を選べなかった。美緒さんとの距離を、まだ選べなかった。』
書いてから、少しだけ胸が重くなった。
でも、嫌な重さではなかった。
写真を撮り、春日くんへ送る。
すぐ既読。
『読みました』
『服ではなく距離ですね』
しらいさんは返す。
『うん』
『三崎がほぼ同じことを言っていました』
既読。
『外側の番人?』
『今日はファッション誌を持っていました』
『何で?』
『白瀬アカリの役が服を選べなくなると思ったそうです』
『怖い』
『本当に』
少し笑ってから、春日くんの続きが来る。
『人と会う服は距離感だ、と』
『気合いを入れすぎても、普段通りすぎても違う。その中間を探すのがしんどい、と』
しらいさんは、画面を見ながら静かに頷いた。
三崎さんは、本当に外側から見ている。
しかも、読者が感じるところをちゃんと言葉にしてくれる。
『三崎さん』
『今日は唐揚げ十七個?』
『はい』
『現物は?』
『今日は心の中です』
『昨日だけ?』
『昨日だけです』
『厳しい』
しらいさんは、少し笑った。
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
今日は紗季の服選びの場面を、少しだけ自分の中から離しておきたかった。
玄関が開く。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
部屋に入ると、ローテーブルはいつも通りだった。
白いマグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜。
少し離れたスプーン。
迎賓館ではない。
しらいさんは、それを確認して少し笑った。
「普通」
「はい」
「よし」
「ありがとうございます」
春日くんがミルクティーを作る。
今日は蜂蜜普通。
カップを置く。
ことん。
今日は、服を選べない音だった。
「紗季さん、服を選べなかった」
「はい」
「白いブラウスも違う」
「はい」
「ベージュのカーディガンも違う」
「はい」
「黒いジャケットも違う」
「はい」
「全部違う」
「はい」
「でも、服が悪いんじゃない」
「はい」
「美緒さんとの距離が選べなかった」
春日くんは、静かに頷いた。
「三崎も同じようなことを言っていました」
「うん」
「人と会う服は距離感だ、と」
「今日、それすごく分かった」
「はい」
「春日くん」
「はい」
「金曜、私も服に悩むかもしれない」
「はい」
「普通のミルクティーなのに」
「はい」
「何着て行けばいいのか分からなくなるかも」
「はい」
「気合い入れすぎても変」
「はい」
「普段通りすぎても変」
「はい」
「面倒くさいね」
「かなり」
春日くんは、少しだけ笑った。
「何を着ても大丈夫です」
しらいさんは目を細めた。
「それ、一番困るやつ」
「すみません」
「謝らないで。でも困る」
「では……」
春日くんは真面目に考えた。
「しらいさんが、帰りに疲れない服で来てください」
しらいさんは、少しだけ目を丸くした。
「疲れない服」
「はい」
「かわいいとか、ちゃんとしてるとかじゃなくて?」
「それも見たい気持ちはあります」
「正直」
「はい」
「でも、普通のミルクティーの日なので」
「うん」
「帰るときに疲れていない服がいいです」
しらいさんは、目元が少し柔らかくなった。
「春日くん」
「はい」
「今日、それ、かなりいい」
「よかったです」
「出た」
「出ます」
しらいさんはミルクティーを飲んだ。
温度も甘さも、普通だった。
その普通さが、今日は嬉しかった。
◇
青灰色のノートを開く。
今日の一文を見せる。
『紗季さんは服を選べなかった。美緒さんとの距離を、まだ選べなかった。』
春日くんは、ゆっくり読んだ。
「いい一文です」
「うん」
「読者にも分かりやすい感情だと思います」
「アクセス狙いとして?」
「はい」
「服選びって、日常的ですし」
「はい」
「でも、そこに関係性の距離が出る」
「はい」
「地味だけど引っかかる回になります」
「春日くん、今日も編集者」
「すみません」
「謝らないで。助かる」
しらいさんはノートを閉じた。
「金曜、疲れない服で行く」
「はい」
「でも、少しだけかわいくしてもいい?」
言ってから、自分で少し照れた。
春日くんは一瞬だけ固まった。
それから、真面目に頷いた。
「かなり嬉しいです」
「かなり?」
「かなり」
「重い?」
「少し」
「正直」
「はい」
「じゃあ、少しだけにする」
「はい」
二人で笑った。
その笑いが、紗季のクローゼットからしらいさんを連れ戻した。
◇
帰る時間になった。
しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。
水の音。
カップを拭く音。
棚に置く音。
ことん。
今日最後の音。
「何割ですか」
春日くんが聞く。
「九割八分」
「高いですね」
「金曜の服が、少しだけ決まったから」
「疲れない服」
「うん。少しだけかわいい服」
春日くんは、少しだけ視線を落とした。
「楽しみにしています」
「見張らないで」
「はい」
「でも、待ってて」
「もちろんです」
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「服って、距離なんだね」
「はい」
「でも、疲れない距離がいいね」
「はい」
「金曜、疲れない距離で行く」
「待っています」
「普通に?」
「普通に」
「よし」
しらいさんは笑った。
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「金曜なら」
「普通のミルクティーで」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
春日悠真は、青灰色のコースターを見た。
服は距離。
気合いを入れすぎても、普段通りすぎても違う。
その中間を探す。
紗季にとっても。
美緒にとっても。
しらいさんにとっても。
そして、自分にとっても。
春日はローテーブルの上のペンを少しだけ端へ寄せた。
整えすぎない。
でも、雑にしない。
普通の金曜まで、あと少し。
普通が、少しずつ形になってきていた。




