第155話 春日、来週の金曜のミルクティーを意識しすぎる
春日悠真は、蜂蜜の棚の前で固まっていた。
スーパーの一角。
紅茶の茶葉、砂糖、ジャム、シリアルなどが並ぶ棚の端に、蜂蜜の瓶がいくつも置かれている。
いつも買っている蜂蜜は、目の前にあった。
何度も買っている。
味も分かっている。
しらいさんも、何度も飲んでいる。
だから、それでいい。
普通のミルクティーなのだから。
そう思っていたはずなのに、春日の視線は少し高い棚へ移動していた。
国産はちみつ。
百花蜜。
アカシア。
少し高い瓶。
さらに高い瓶。
金曜。
普通のミルクティー。
しらいさんが、来ると言った日。
重い撮影のあとに逃げ込むためではない。
声を返すためでもない。
ノートを見せるためでもない。
ただ、普通にミルクティーを飲む日。
その「普通」が、妙に難しかった。
「……普通なら、いつもの蜂蜜だろ」
春日は小さく呟いた。
けれど、手は少し高い瓶へ伸びかけていた。
普通だからこそ、ちゃんとしたい。
でも、ちゃんとしすぎると普通ではなくなる。
頭では分かっている。
なのに、棚の前から動けない。
結局、春日はいつもの蜂蜜を一つ取り、さらに少し高い蜂蜜も一つ籠に入れた。
そして三秒後、高い蜂蜜を棚に戻した。
さらに三秒後、もう一度手に取った。
「何をしているんだ、俺は」
自分で自分に呆れた。
近くにいた年配の女性が、少しだけこちらを見た。
春日は何事もなかったような顔で、いつもの蜂蜜だけを籠に入れた。
高い蜂蜜には、負けなかった。
たぶん。
◇
家に帰ってからも、春日の戦いは続いた。
まず、ローテーブルを拭いた。
それはいい。
普段から拭いている。
問題は、そのあとだった。
白いマグカップの位置を直す。
青灰色のコースターを置く。
少し離れたところにスプーンを置く。
蜂蜜の瓶を出してみる。
やっぱり早いと思ってしまう。
棚に戻す。
もう一度出す。
また戻す。
春日は、ローテーブルの前に座ったまま額に手を当てた。
「普通とは」
声に出してみたが、部屋は答えない。
普通のミルクティー。
そう決めたのは自分だ。
いや、二人で決めたようなものだ。
けれど、普通の日を迎える準備をすればするほど、どんどん普通から遠ざかっていく。
しらいさんが来る。
それだけで、部屋の空気がいつもと違って見える。
本棚の本の並びが気になる。
クッションの位置が気になる。
ティッシュの箱の向きまで気になる。
別に、しらいさんはそんなところを見ない。
いや、見るかもしれない。
見ても、たぶん何も言わない。
でも、何も言わないからこそ、妙に気になる。
春日はクッションを右へずらした。
違う気がした。
左へ戻した。
それも違う気がした。
中央に置いた。
妙に整いすぎた。
結局、少しだけ斜めにした。
「俺は何をしているんだ」
二度目だった。
◇
翌日の昼休み。
三崎は、春日の顔を見るなり言った。
「お前、迎賓館みたいな顔してるぞ」
「どんな顔だ」
「今作った」
「毎日作るな」
三崎は唐揚げ弁当の蓋を開けながら、じっと春日を見た。
「何かあるだろ」
「何もない」
「その“何もない”は、だいたい何かある」
「お前は面倒なところだけ鋭いな」
「外側の番人だからな」
「今日は白瀬アカリ関係ないだろ」
「あるだろ」
「何でだ」
「お前の顔が、白瀬アカリが来る前に部屋を掃除しすぎてる男の顔だから」
春日は箸を止めた。
三崎は唐揚げを一つ持ったまま、得意そうに笑う。
「当たりか」
「……来る前に、ではない」
「じゃあ来る予定があるんだな」
「誘導尋問が雑だ」
「でも引っかかった」
春日は諦めて味噌汁を飲んだ。
三崎は楽しそうだった。
「で、何をやらかした」
「やらかしてはいない」
「蜂蜜を三種類買った?」
「一種類だ」
「茶葉を調べた?」
「……少し」
「マグカップの位置を直した?」
「……」
「コースターの角度を気にした?」
「……」
三崎は唐揚げを口に入れ、噛みながら深く頷いた。
「迎賓館じゃん」
「違う」
「普通のミルクティーじゃなくて、白瀬アカリ国賓歓迎式典になってる」
「やめろ」
「赤絨毯いる?」
「いらない」
「楽団は?」
「いらない」
「宮内庁は?」
「絶対にいらない」
三崎は笑った。
春日も、少しだけ笑ってしまった。
笑うと、自分がどれだけ変なことをしていたかが見えてくる。
「普通にしたいんだよ」
春日が言うと、三崎は唐揚げをつつきながら頷いた。
「分かる」
「本当に分かってるか?」
「分かるって。何でもない日を特別にしすぎると、何でもなくなくなるんだよな」
春日は黙った。
急に核心を突いてくる。
三崎は、そういうところがある。
「重い日なら、ちゃんと迎えてもいいんだよ」
「うん」
「でも、普通の日にしようって言ってるなら、迎えすぎると相手が入りにくくなる」
「……うん」
「普通って、完璧に整えることじゃないだろ」
春日は、ゆっくり息を吐いた。
その通りだった。
普通の日を失敗したくなくて、普通を作ろうとしていた。
でも、作り込みすぎた普通は、普通ではない。
「三崎」
「何個?」
「今日は唐揚げ十七個」
「増えた」
「迎賓館を止めた功績」
「現物は?」
「出ない」
「国賓待遇なのに?」
「心の中で」
「やっぱりブラック」
三崎はそう言いながら、唐揚げを一つ春日の弁当の蓋に置いた。
春日は目を瞬いた。
「何だ」
「現物」
「いいのか」
「十七個中一個だけな」
「実物支給、初じゃないか」
「歴史的瞬間だぞ」
春日は少し笑って、その唐揚げを食べた。
いつもより少しだけうまかった。
◇
その日の夕方。
春日は、部屋へ帰ってすぐ掃除をしようとして、やめた。
もちろん汚れているわけではない。
でも、昨日の自分なら、もう一度ローテーブルを拭き、マグカップを出し、コースターの位置を確認していたはずだ。
今日はやめた。
代わりに、いつも通り鞄を置き、手を洗い、冷蔵庫から水を出して飲んだ。
部屋を見る。
少し生活感がある。
本が一冊、テーブルの端に置かれている。
ペンも一本ある。
クッションは、少し斜め。
完璧ではない。
でも、いつもの部屋だった。
しらいさんが来る場所は、迎賓館ではない。
戻る場所であり、座れる場所であり、逃げようと思えば逃げられる場所。
特別すぎない場所。
昨日、しらいさんが言っていた。
逃げやすくて、でも座れる場所。
春日は、ローテーブルの上の本を本棚へ戻そうとして、やめた。
一冊くらい置いてあっていい。
ペンもそのままにした。
ただ、マグカップだけは洗い直した。
これは普通の範囲だと思いたい。
◇
夜、しらいさんからメッセージが届いた。
『今日、撮影終わった』
春日は返信する。
『おつかれさまでした』
少し迷ってから、続けた。
『部屋を迎賓館にしない練習をしています』
既読。
少し間があった。
『何それ』
春日は、昼の三崎とのやり取りを簡単に送った。
蜂蜜を買い足しそうになったこと。
茶葉を調べたこと。
マグカップの位置を直しすぎたこと。
三崎に迎賓館だと言われたこと。
返事はすぐ来た。
『春日くん』
『はい』
『かなり春日くん』
春日は苦笑した。
『褒めていますか』
『少し』
『少しですか』
『迎賓館は困る』
『やめます』
『でも、楽しみにしてくれてるのは嬉しい』
その一文で、春日は手を止めた。
嬉しい。
けれど、迎賓館は困る。
その二つが両方ある。
実にしらいさんらしい返事だった。
『普通にします』
春日は送った。
既読。
『普通、難しいね』
『難しいです』
『でも、普通がいい』
『はい』
『金曜、普通のミルクティー』
『はい』
『蜂蜜はいつもの?』
春日は棚の蜂蜜を見た。
『いつものです』
『よし』
その「よし」が、妙に嬉しかった。
◇
翌日、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
金曜ではない。
けれど、撮影後に少し話したいことがあると言っていた。
玄関が開く。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
部屋に入るなり、しらいさんはローテーブルを見た。
白いマグカップは、棚の中。
青灰色のコースターも、いつもの場所。
蜂蜜も出ていない。
テーブルの端には本が一冊。
ペンが一本。
しらいさんは、少しだけ目を細めた。
「迎賓館じゃない」
「はい」
「生活感がある」
「少し残しました」
「意図的に?」
「意図的に残した時点で普通ではない気もします」
「かなり春日くん」
「すみません」
「でも、いいと思う」
しらいさんはローテーブルの前に座った。
春日くんがミルクティーを作る。
今日は蜂蜜普通。
いつもの蜂蜜。
カップを置く。
ことん。
今日は、普通を作りすぎない音だった。
「春日くん」
「はい」
「普通って、緊張するね」
「はい」
「重い日より、普通の日のほうが難しいかもしれない」
「俺もそう思います」
「どうして?」
春日くんは少し考えた。
「重い日は、役割があります」
「うん」
「支える、戻す、聞く、待つ」
「うん」
「普通の日は、役割が少ない」
「うん」
「だから、自分で作りすぎそうになります」
しらいさんは、ミルクティーを飲んでから頷いた。
「私も、理由を探しそうになる」
「理由?」
「今日もそうだった」
「はい」
「撮影で話したいことがあるって言ったけど」
「はい」
「本当は、普通のミルクティーの前に、部屋が迎賓館になってないか見たかった」
「……」
「半分嘘」
「半分」
「もう半分は、普通に来たかった」
春日くんは、少しだけ目元を緩めた。
「来てくれて嬉しいです」
「出た」
「出ます」
「でも、今日はその出た、嫌じゃない」
「よかったです」
しらいさんは、カップを置いた。
「普通のミルクティー、練習がいるね」
「はい」
「本番前に練習?」
「今日が練習ですか」
「たぶん」
「では、金曜は?」
「本番?」
「普通に本番というのも変ですね」
「全部変」
二人で少し笑った。
◇
しらいさんは、青灰色のノートを出した。
「今日は、私の撮影の一文じゃない」
「はい」
「春日くん側の一文かも」
「俺側?」
「うん」
しらいさんはペンを持ち、少しだけ考えた。
そして書いた。
『普通を作ろうとしすぎると、普通ではなくなる。』
書いてから、春日くんに見せる。
彼は一瞬だけ固まった。
「……俺の一文ですね」
「うん」
「かなり刺さります」
「刺した」
「刺されました」
しらいさんは少し笑った。
「でも、私にも刺さる」
「はい」
「紗季さんにも、たぶん刺さる」
「美緒さんにも」
「うん。水曜をちゃんとしようとしすぎたら、きっと水曜じゃなくなる」
「はい」
「金曜も」
「はい」
「普通にしたいから、普通を作りすぎない」
春日くんは、ゆっくり頷いた。
「覚えておきます」
「私も」
「三崎にも伝えます」
「唐揚げ何個?」
「今日は実物を一個もらいました」
「えっ」
「歴史的瞬間でした」
「三崎さん、ついに」
「はい」
「じゃあ今日は唐揚げ一個分」
「現物支給済みです」
「昇給」
二人でまた笑った。
こういう会話ができる夜は、少しだけ普通に近い気がした。
◇
帰る時間になった。
しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。
水の音。
カップを拭く音。
棚に置く音。
ことん。
今日最後の音。
「何割ですか」
春日くんが聞く。
「九割九分」
「高いですね」
「普通の練習だったから」
「本番は?」
「本番って言わない」
「すみません」
「金曜は、普通の金曜」
「はい」
「迎賓館禁止」
「はい」
「高い蜂蜜禁止」
「買っていません」
「えらい」
「一回戻しました」
「かなり春日くん」
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「普通でいいよ」
「はい」
「でも、待ってて」
「もちろんです」
「普通に」
「普通に待っています」
「それも難しそう」
「難しいです」
「じゃあ、練習」
「はい」
しらいさんは少しだけ笑った。
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「金曜なら」
「いつもの蜂蜜で」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
春日悠真は、ローテーブルを見た。
本が一冊。
ペンが一本。
少し斜めのクッション。
完璧ではない。
でも、今日の部屋は悪くなかった。
普通を作ろうとしすぎると、普通ではなくなる。
その一文は、春日にかなり刺さっていた。
金曜まで、あと少し。
普通のミルクティーの日。
春日は、棚の中のいつもの蜂蜜を見た。
買い足さない。
飾らない。
迎賓館にしない。
普通に待つ。
それがいちばん難しい。
でも、今の春日にできる、いちばん大事な準備だった。




