第154話 美緒は店を三つ調べて、全部やめた
美緒は、スマホの地図アプリを開いたまま、しばらく動けなかった。
検索欄には、駅名と「定食」「カフェ」「夜」と入っている。
水曜。
紗季が返してくれた言葉。
『水曜なら』
その五文字は、嬉しかった。
嬉しかったからこそ、美緒は困っていた。
どこへ行けばいいのだろう。
ご飯に誘ったのは自分だ。
日付を入れたのも自分だ。
紗季は、それに「水曜なら」と返してくれた。
なら、次は場所を考えなければならない。
けれど、場所を決めるだけで、こんなに怖いとは思わなかった。
一つ目に開いたのは、駅から少し歩いたところにある小さなイタリアンだった。
写真はきれいだった。
照明は温かく、テーブル席の間隔も広い。
口コミも悪くない。
パスタもおいしそうだ。
けれど、美緒はすぐにページを閉じた。
「……おしゃれすぎる」
小さく呟く。
紗季が緊張するかもしれない。
自分が「ちゃんとした食事」に誘っている感じが強くなりすぎる。
軽くご飯、と言っておきながら、店の雰囲気が軽くない。
やめた。
二つ目は、駅前のチェーン系カフェだった。
明るい。
入りやすい。
値段も高くない。
ここなら、紗季も構えずに済むかもしれない。
そう思ったのに、美緒はまた迷った。
席と席の間が近い。
周りの声が大きい。
長く話せない。
そもそも、ご飯というより軽食だ。
もし紗季が何か言葉を探してくれても、周囲の笑い声や注文の声に飲まれてしまうかもしれない。
やめた。
三つ目は、個室のある和食店だった。
落ち着いている。
人目も気にならない。
話しやすい。
けれど、美緒は画面を見た瞬間、首を横に振った。
「これは重い」
個室は逃げにくい。
向かい合って座る時間が、長すぎる。
紗季が途中で帰りたくなっても、帰りづらい。
美緒はスマホをテーブルに置いた。
かたん、と音がした。
店を三つ調べて、全部やめた。
何を選んでも、不正解に見える。
おしゃれすぎてもだめ。
軽すぎてもだめ。
落ち着きすぎてもだめ。
優しさで店を選ぼうとすると、全部が罠に見えた。
美緒は、テーブルに置いたスマホを見つめる。
「……ご飯行こうって、こんな難しかったっけ」
誰に聞くでもなく言った。
部屋は答えなかった。
でも、画面の中の水曜は、答えを待っているようにそこにあった。
◇
撮影前、高瀬菜央は本当に店の検索画面を見ていた。
もちろん、撮影用の小道具ではない。
自分のスマホだ。
白瀬アカリが控室に入ると、高瀬は顔を上げた。
「白瀬さん」
「はい」
「店選びって、こんなに苦しいんですね」
開口一番それだったので、しらいさんは思わず笑ってしまった。
「役作りですか?」
「半分役作りで、半分本気で悩みました」
「本気」
「はい。紗季を誘うならどこがいいかって調べてたら、全部だめに見えてきました」
高瀬はスマホを見せた。
駅近の飲食店がいくつも並んでいる。
「おしゃれな店は重い。カフェは軽い。個室は逃げ場がない。居酒屋は論外。ファミレスは悪くないけど、紗季が落ち着けるか分からない」
「すごく美緒さんですね」
「美緒、胃が痛いです」
高瀬は、台本を膝の上に置いた。
「優しさで店を選ぼうとすると、全部不正解に見えてくるんです」
その言葉に、しらいさんは少しだけ頷いた。
「今日の一文候補ですね」
「え、採用されます?」
「かなり」
「嬉しいような、申し訳ないような」
二人で少し笑う。
笑ってから、高瀬は少し真面目な顔になった。
「美緒は、紗季に来てほしいんです」
「はい」
「でも、来たあとに苦しくなってほしくない」
「はい」
「でも、苦しくならない場所なんて、たぶん美緒には分からない」
「はい」
「だから、店を選ぶことが、紗季との距離を選ぶことになってる気がします」
しらいさんは、その言葉を静かに受け取った。
服を選べない紗季。
店を選べない美緒。
どちらも、相手との距離を選べずにいる。
「白瀬さん」
「はい」
「紗季として、どんな店なら来やすいと思います?」
高瀬に聞かれて、しらいさんは少し考えた。
「逃げやすい場所」
「逃げやすい」
「はい。でも、ちゃんと座れる場所」
高瀬の目が少し動いた。
「それ、いいですね」
「立ち話だと、軽すぎる」
「はい」
「個室だと、重すぎる」
「はい」
「でも、ちゃんと座れる。だけど、帰ろうと思えば帰れる」
「駅近?」
「駅近」
「定食屋?」
「たぶん」
高瀬は、スマホを見直した。
いくつか候補を開いて、やがて一つの店で手を止めた。
「ここ」
画面には、駅近くの小さな定食屋が表示されていた。
派手ではない。
けれど、明るい。
カウンターとテーブル席がある。
値段も普通。
遅い時間でも開いている。
「特別すぎない」
高瀬が言う。
「はい」
「逃げやすくて、でも座れる」
「はい」
「美緒、ここにします」
その言い方があまりにも美緒らしくて、しらいさんは少し笑った。
◇
美緒の部屋セット。
夜。
テーブルの上にはスマホ。
紗季とのやり取りが表示されている。
『水曜なら』
その五文字の下に、美緒が返した言葉。
『うん。じゃあ水曜に』
今日の場面は、その続きだった。
美緒が店を探す。
候補を開く。
迷う。
閉じる。
また探す。
最後に、小さな定食屋を見つける。
監督が高瀬に説明する。
「美緒は、今日は相手のことを考えすぎます」
「はい」
「でも、考えすぎて動けなくなるだけではない」
「はい」
「最後に、特別すぎない場所を選びます」
「はい」
「大事なのは、美緒が“完璧な店”を選ぶのではないこと」
高瀬が頷く。
「紗季が逃げられる場所ですね」
「そうです」
「でも、ちゃんと座れる場所」
監督が少し笑った。
「いいですね。それで行きましょう」
一度目の本番。
美緒はスマホを開く。
一つ目の店を見る。
少し迷い、閉じる。
二つ目を見る。
また閉じる。
三つ目を見る。
画面を見つめ、ため息をつく。
そのため息が、少し分かりやすく重かった。
カット。
監督が言う。
「高瀬さん、今のは店選びが苦悩になりすぎています」
「はい」
「美緒は苦しいけれど、紗季のために悲劇的になっているわけではありません」
「はい」
「もう少し生活の中の悩みとして」
高瀬は頷いた。
「分かりました」
二度目。
今度は少し軽くしすぎた。
店を選べない友人との約束前の普通の迷いに見える。
カット。
監督が言う。
「今度は軽いですね」
「はい」
「普通の店選びの中に、紗季への距離感が入っている。そのくらいで」
「はい」
普通の店選び。
でも、距離感がある。
三度目。
美緒はスマホを見る。
一つ目。
おしゃれな店。
写真を見て、少しだけ目を細める。
悪くない。
でも、違う。
閉じる。
二つ目。
駅前のカフェ。
入りやすそう。
でも、少し騒がしい。
閉じる。
三つ目。
個室の和食店。
落ち着いている。
でも、逃げづらい。
閉じる。
美緒はスマホをテーブルに置く。
かたん。
小さな音。
考えすぎている自分に少しだけ困ったように笑う。
それから、もう一度スマホを持つ。
検索する。
駅近くの定食屋。
画面を見て、少しだけ肩の力が抜ける。
特別ではない。
でも、雑でもない。
逃げやすい。
でも、座れる。
美緒は、その店を候補として保存する。
送信はしない。
まだ、紗季には伝えない。
カット。
現場が静かになった。
監督がモニターを確認し、頷く。
「今のでいきましょう」
高瀬菜央は、ほっと息を吐いた。
しらいさんも、少し離れた場所で見ていて、胸が温かくなった。
美緒さんは、ちゃんと水曜を準備している。
でも、その準備を紗季に背負わせていない。
◇
昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。
三崎は唐揚げ弁当の横に、なぜか飲食店のクーポンアプリを開いたスマホを置いている。
「今日は何だ」
「店選び」
「白瀬アカリ関連か」
「もちろん」
「もう確認する必要もないな」
三崎は唐揚げを食べながら、真面目な顔で言った。
「人を誘うときの店選びって、怖いよな」
「そうか?」
「怖いだろ。相手が緊張しない場所、でも雑に扱ってると思われない場所、逃げやすいけどちゃんと座れる場所」
春日は、箸を止めた。
「お前、本当に何なんだ」
「外側の番人」
「出た」
「便利だからな」
三崎はスマホを見せる。
「おしゃれすぎると重い。軽すぎると雑。個室は逃げられない。騒がしいと話せない」
「今日もかなり近いな」
「当てた?」
「知らない」
「その顔は当てたやつ」
三崎は得意げに笑った。
「結局さ、特別すぎない場所がいいんだよ」
「特別すぎない場所」
「うん。駅近の定食屋とか」
春日は、もう笑うしかなかった。
「何でそこまで行くんだ」
「読者代表だから」
「外側の番人じゃなかったのか」
「兼任」
「忙しいな」
三崎は唐揚げを口に入れた。
「でも、これアクセス的にも強いと思う」
「店選びが?」
「そう。大事件じゃないのに、読者は気になるんだよ。どこ選ぶんだろうって」
「うん」
「しかも店選びって、相手への理解が出るだろ」
「出るな」
「美緒が紗季をどう見てるか、店で分かる」
春日は、その言葉を覚えておくことにした。
「今日の唐揚げは?」
三崎が自分から聞く。
「十六個」
「昨日と同じ」
「高評価維持」
「現物は?」
「出ない」
「ですよね」
◇
撮影後、高瀬菜央はまだスマホで店の画面を見ていた。
しらいさんが隣に座ると、高瀬は小さく笑う。
「美緒、この店で大丈夫ですかね」
「紗季としては、行けるかどうかはまだ分からないです」
「そこはそうですよね」
「でも、もし行けたら、たぶん助かります」
「本当ですか」
「はい。特別すぎないから」
高瀬は、ほっとしたように息を吐いた。
「よかった」
「でも、美緒さんはこれをすぐ送らないんですね」
「はい」
「そこがいいと思います」
「送ったら、紗季がまた構えますよね」
「たぶん」
「じゃあ、水曜がもう少し近づいてから」
「はい」
高瀬は、画面を閉じた。
「美緒、ちょっとずつ待てるようになってきました」
「はい」
「でも、待つのも準備するのも疲れます」
「分かります」
「紗季も疲れてるんですよね」
「はい」
二人は少しだけ黙った。
待つ側も、返す側も、誘う側も、誘われる側も。
みんな少しずつ疲れている。
でも、誰もやめようとはしていない。
それが、今のこの物語の温度だった。
◇
青灰色のノートを開く。
今日の一文は、ほとんど高瀬の言葉からもらった。
しらいさんは、少しだけ考えてから書いた。
『美緒さんは、特別すぎない場所を探した。逃げやすくて、でも座れる場所。』
書き終えて、少しだけ頷く。
これが今日の美緒だ。
写真を撮って、春日くんへ送る。
すぐ既読。
『読みました』
『店選びですね』
しらいさんは返す。
『うん』
『三崎がかなり近いことを言っていました』
既読。
『外側の番人?』
『今日は読者代表も兼任していました』
『何て?』
『店選びは相手への理解が出る』
『特別すぎない場所がいい。駅近の定食屋とか、と』
しらいさんは、控室で小さく笑った。
『三崎さん』
『今日はクーポンアプリ?』
春日くんの返信は遅れた。
『怖いです』
『当たり?』
『はい』
『唐揚げ十六個?』
『当たりです』
『現物?』
『要求しています』
『心の中で』
『安定ですね』
その軽さに救われる。
美緒の店選びで少し硬くなっていた胸が、ほぐれていく。
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
今日は美緒の回だった。
だから、紗季ほど深く沈んでいるわけではない。
けれど、相手のために場所を選ぶ怖さが、自分の中にも少し残っていた。
玄関が開く。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
部屋に入る。
ローテーブルには、白いマグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜。
少し離れたスプーン。
春日くんがミルクティーを作る。
今日は蜂蜜普通。
「理由は?」
「特別すぎない味で」
「今日、それ系?」
「はい」
「いいと思う」
カップを置く。
ことん。
今日は、店を選ぶ音だった。
「美緒さん、店を三つ調べた」
「はい」
「全部やめた」
「はい」
「おしゃれすぎる店、軽すぎる店、個室」
「はい」
「全部、紗季さんには違った」
「はい」
「最終的に、駅近の小さな定食屋」
「はい」
「特別すぎない場所」
春日くんは静かに頷いた。
「逃げやすくて、でも座れる場所」
「今日の一文」
「はい」
「三崎さんも言ってた?」
「はい。かなり近く」
「怖いね」
「怖いですね」
しらいさんはミルクティーを飲んだ。
「春日くん」
「はい」
「私たちの普通のミルクティーも、場所選びだよね」
「場所?」
「うん。春日くんの部屋」
「はい」
「逃げやすくて、でも座れる場所?」
春日くんは少し考えた。
「そうでありたいです」
「うん」
「逃げられない場所にはしたくないです」
「でも、座れる」
「はい」
「帰ってもいいけど、いてもいい」
「はい」
「それ、いいね」
しらいさんは、カップを置いた。
ことん。
「金曜、ちょっと怖い」
「はい」
「でも、春日くんの部屋が、逃げられるけど座れる場所なら、たぶん行きやすい」
「そうします」
「頑張りすぎないで」
「はい」
「部屋を迎賓館にしないで」
春日くんが少し固まった。
「……三崎にも似たことを言われそうです」
「もうやりかけてる?」
「少し」
「春日くん」
「はい」
「普通でいいよ」
「はい」
「本当に」
「はい」
「蜂蜜、買い足しすぎないでね」
「……はい」
「やっぱり買い足す気だった」
「少しだけ」
しらいさんは笑った。
今日の笑いは軽かった。
◇
青灰色のノートを開く。
今日の一文を見せる。
『美緒さんは、特別すぎない場所を探した。逃げやすくて、でも座れる場所。』
春日くんは、ゆっくり読んだ。
「いい一文です」
「うん」
「これは、物語としてかなり大事ですね」
「どうして?」
「美緒さんの理解が出るからです」
「三崎さんと同じ?」
「はい」
「店選びで?」
「はい。どんな店を選ぶかで、紗季さんをどう見ているかが分かる」
「うん」
「特別な時間にしたい。でも、特別すぎると紗季さんが苦しくなる」
「はい」
「だから、特別すぎない場所」
「はい」
「アクセス狙いとしても、読者が美緒さんを応援したくなる回だと思います」
「春日くん、今日も編集者」
「すみません」
「謝らないで。今日は必要」
しらいさんは、ノートを閉じた。
「私も、美緒さんを少し好きになった」
「はい」
「紗季さんのために、何もしないだけじゃなくて、ちゃんと準備してる」
「はい」
「でも、その準備をまだ見せない」
「はい」
「そこが好き」
「俺もそう思います」
◇
帰る時間になった。
しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。
水の音。
カップを拭く音。
棚に置く音。
ことん。
今日最後の音。
「何割ですか」
春日くんが聞く。
「九割八分」
「高いですね」
「美緒さんの店がよかったから」
「はい」
「残り二分は?」
「金曜の部屋が迎賓館にならないか心配な分」
「気をつけます」
「本当に」
「はい」
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「特別すぎない場所って、大事だね」
「はい」
「逃げやすくて、でも座れる」
「はい」
「春日くんの部屋も、それでいて」
「分かりました」
「普通でいい」
「はい」
「でも、待ってて」
「もちろんです」
しらいさんは少し笑った。
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「金曜なら」
「普通のミルクティーで」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
春日悠真は、ローテーブルの上を見た。
白いマグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜。
少し離れたスプーン。
特別すぎない場所。
逃げやすくて、でも座れる場所。
自分の部屋が、しらいさんにとってそうであればいいと思った。
歓迎したい。
けれど、逃げ道をふさぎたくない。
特別にしたい。
けれど、特別すぎて来づらい場所にはしたくない。
春日は、通販サイトで開きかけていた少し高級な蜂蜜のページを閉じた。
普通でいい。
普通が、たぶん一番難しい。




