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第153話 水曜が近づくほど、紗季さんは予定を見ないふりをした

 水曜は、まだ来ていない。


 けれど、岸谷紗季の部屋には、もう水曜があった。


 テーブルの上のスマホ。


 画面を開けば、そこにある。


 美緒からの誘い。


『来週の水曜か木曜、少しだけどう?』


 そして、その下に自分が送った言葉。


『水曜なら』


 たった五文字。


 それだけの返事だった。


 行きたいとは書いていない。

 楽しみとも書いていない。

 必ず行くとも書いていない。


 それでも、水曜と書いた。


 日付に応えた。


 それは、送った瞬間には少しだけ呼吸が楽になる言葉だった。


 けれど、朝になってみると、その言葉は別の重さを持っていた。


 水曜なら。


 つまり、水曜が来る。


 予定ができた。


 紗季はスマホを手に取った。


 カレンダーアプリのアイコンが目に入る。


 指が、そこへ近づく。


 けれど、触れる直前で止まった。


 見たくない。


 忘れたいわけではない。


 むしろ、忘れられない。


 だから、見たくなかった。


 カレンダーを開けば、水曜はただの曜日ではなくなる。

 予定として、そこに座る。

 美緒と会うかもしれない日として、画面の中に残る。


 紗季は、スマホをテーブルに戻した。


 画面は上を向いたまま。


 伏せない。


 でも、開かない。


 水曜は、そこにある。


 紗季はまだ、それを直視できなかった。


    ◇


 控室で台本を読んだしらいさんは、最初に小さく息を吐いた。


「カレンダーを見ない……」


 文字だけなら、本当に地味だ。


 紗季がスマホを手に取る。

 カレンダーを開きかける。

 やめる。


 それだけ。


 けれど、しらいさんには分かった。


 これは大きい。


 水曜なら、と返したあとの、次の怖さ。


 送る怖さではない。

 返したあと、その予定が本当に近づいてくる怖さ。


 そこへ理沙さんが入ってきた。


「喉は?」


「九割二分です」


「私の評価では九割」


「少し低いですね」


「今日は、喉より予定に疲れている顔をしているから」


 しらいさんは、台本から顔を上げた。


「予定に疲れている顔」


「ええ」


 理沙さんは椅子に座り、タブレットを閉じた。


「今日の場面、分かっているわね」


「カレンダーを開けない場面です」


「そう」


「でも、忘れたいわけじゃない」


「ええ」


「覚えているから、見られない」


 理沙さんが、わずかに頷いた。


「いい整理ね」


「はい」


「紗季は、約束をなかったことにしたいわけではない」


「はい」


「でも、予定として確認すると、逃げ場が減る」


「はい」


「今日の目標は?」


 しらいさんは少し考えた。


「怖がりすぎないこと」


「続けて」


「水曜が嫌なわけじゃない」


「ええ」


「美緒さんが嫌なわけでもない」


「そう」


「ただ、水曜が予定になったことに、まだ体が追いついていない」


 理沙さんは、口元を少しだけ緩めた。


「それで行きなさい」


「はい」


「あと、嬉しさを隠しすぎないこと」


 しらいさんは、少し驚いた。


「嬉しさ、ですか」


「あるでしょう」


「……はい」


「怖いだけなら、削除しているわ」


「はい」


「見られないほど覚えているのなら、そこには怖さだけじゃない」


 理沙さんの言葉は、静かに刺さった。


 そうだ。


 紗季は水曜を忘れたいわけではない。


 怖い。


 でも、消したくない。


 その中には、たぶんほんの少しだけ、嬉しさに近いものもある。


 本人がまだ、それを嬉しさと呼べないだけで。


    ◇


 撮影前、高瀬菜央が紙コップのコーヒーを持って近づいてきた。


 今日は美緒の出番は少ない。


 けれど、水曜へ向かうこの流れでは、彼女もどこか落ち着かないようだった。


「白瀬さん」


「はい」


「紗季、今日カレンダー見ないんですよね」


「はい」


「美緒としては、見てほしいです」


 高瀬はそう言って、少し苦笑した。


「でも、見たら紗季が怖くなるのも分かります」


「はい」


「水曜ならって返してくれたの、美緒は嬉しいんです」


「はい」


「でも、紗季にとっては、返したあとからが本番なんですよね」


「そうだと思います」


「約束って、返した瞬間より、その日が近づくほうが怖いことありますよね」


 しらいさんは頷いた。


「あります」


「私もあります。行くって言ったあと、日付が近づくほど、何で行くって言ったんだろうってなるやつ」


「すごく分かります」


「でも、行きたくないわけじゃない」


「はい」


「それが面倒くさい」


「かなり」


 二人で小さく笑った。


 こういう会話ができるようになったのは、少し前には考えられなかった気がする。


 高瀬はコーヒーを一口飲み、少し真面目な顔に戻った。


「美緒は、紗季がカレンダーを見られないことを知らない」


「はい」


「でも、視聴者は見る」


「はい」


「また、視聴者だけが知るやつですね」


「強いやつです」


「ですね」


 高瀬は、どこか楽しそうに笑った。


「こういうの、地味だけど追いたくなります」


「私も、そう思います」


    ◇


 撮影は、岸谷紗季の部屋セットで行われた。


 朝。


 白いカーテンの隙間から、薄い光が入っている。


 テーブルの上にはスマホ。


 グレーのマグカップ。


 畳まれたブランケット。


 いつもの部屋。


 でも、今日の部屋には水曜がある。


 監督が言う。


「白瀬さん、今日はカレンダーを見ない芝居です」


「はい」


「ただし、予定を忘れようとしている芝居ではありません」


「はい」


「覚えている。覚えているから、確認できない」


「はい」


「カレンダーを開いたら、水曜が本当に来る気がする」


 しらいさんは頷いた。


 水曜はもう来る。


 でも、見なければ、まだ少し曖昧なままでいられる。


 一度目の本番。


 紗季はスマホを手に取る。


 美緒とのやり取りを見る。


『水曜なら』


 自分の返事。


 それから、カレンダーアプリへ指を動かす。


 そこで、しらいさんは少し怖さを出しすぎた。


 指が止まる瞬間に、逃げるような表情になった。


「カット」


 監督の声。


 しらいさんは、小さく頭を下げた。


「今のは、少し水曜が怖すぎました」


 監督が頷く。


「そうですね。紗季にとって怖いのは確かですが、嫌なものではない」


「はい」


「見たくないけれど、消したくない。その感じで」


「はい」


 二度目。


 今度は、何気なく閉じすぎた。


 ただアプリを開くのをやめただけに見える。


 カット。


 監督が少しだけ笑う。


「今度は、予定の重さが消えましたね」


「はい」


「本当に難しいところです」


「難しいです」


「三度目、指が止まる前に、一瞬だけ見たい気持ちを入れてください」


「見たい気持ち」


「はい。確認したい。だけど、確認したくない」


 しらいさんは、その言葉を胸に置いた。


 確認したい。


 でも、確認したくない。


 三度目。


 紗季はスマホを手に取る。


 美緒とのやり取りを見る。


『水曜なら』


 その五文字を、長くは見ない。


 けれど、目が少しだけ止まる。


 カレンダーアプリへ指を動かす。


 開けば、水曜が見える。


 予定にできる。


 指が触れる直前で止まる。


 怖い。


 でも、嫌ではない。


 確認したい。


 でも、今はまだ見られない。


 紗季はスマホをテーブルに戻す。


 伏せない。


 画面は上。


 でも、カレンダーは開かない。


 カット。


 現場が静かになった。


 監督がモニターを確認する。


 数秒後、頷いた。


「今のでいきましょう」


 しらいさんは、静かに息を吐いた。


 水曜は、まだ見られなかった。


 でも、消さなかった。


    ◇


 昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。


 三崎は唐揚げ弁当の横に、なぜか小さな卓上カレンダーを置いていた。


「お前、それ昨日も似たようなもの持ってなかったか」


「昨日はカレンダーシール。今日は卓上」


「なぜ進化した」


「白瀬アカリの役が日付と戦っている気がするから」


「またすごいこと言い始めたな」


 三崎は唐揚げを一つ食べてから、カレンダーを指で軽く叩いた。


「予定ってさ、見たら現実になるよな」


 春日は箸を止めた。


「どういう意味だ」


「いや、約束したときは勢いでいけるんだよ」


「うん」


「でも、カレンダーに入れた瞬間、うわ本当にある、ってなる」


「うん」


「だから見たくないときある」


 春日は、今日も三崎が近いことに苦笑した。


「外側の番人、今日も出勤か」


「皆勤賞だぞ」


「無給だけどな」


「心の唐揚げしか出ない」


「今日は何個だと思う」


「十五」


「十六個」


「増えた」


「卓上カレンダー分」


「現物は?」


「出ない」


「ですよね」


 三崎は唐揚げを口へ運び、それから少し真面目に続けた。


「でもさ、予定を見ないって、忘れたいのとは違うんだよな」


「うん」


「覚えてるから見られない」


 春日は、胸の中でその言葉を繰り返した。


 覚えているから見られない。


 まさに今日の一文になりそうな言葉だ。


「楽しみでも、怖いことあるだろ」


 三崎は言った。


「あるな」


「楽しみって言えるほど強くないけど、嫌なわけでもない予定」


「うん」


「そういう予定、カレンダーで見るとちょっと負ける」


「予定に負けるのか」


「負ける」


 三崎は真面目な顔で頷いた。


「でも、消さなかったら勝ち」


「お前の勝敗基準、好きだな」


「分かりやすいだろ」


「分かりやすい」


 春日は笑いながらも、その言葉を持ち帰ることにした。


    ◇


 撮影後、しらいさんは青灰色のノートを開いた。


 今日の一文は、ほとんど決まっていた。


 でも、書く前に少しだけ迷った。


 怖い予定。

 見られないカレンダー。

 忘れたいわけではない。

 覚えているから、見られない。


 その中から、いちばん紗季に近いものを選ぶ。


 しらいさんは、ゆっくり書いた。


『紗季さんは水曜を忘れたいんじゃない。覚えているから、見られなかった。』


 書いたあと、少しだけ胸が軽くなった。


 写真を撮って、春日くんへ送る。


 すぐ既読。


『読みました』


『覚えているから見られない、ですか』


 しらいさんは返す。


『うん』


『三崎がほぼ同じことを言っていました』


 既読。


『外側の番人?』


『はい』


『予定を見ないのは、忘れたいのとは違う。覚えているから見られない、と』


 しらいさんは、控室で少し笑った。


『三崎さん』


『今日は卓上カレンダー?』


 春日くんの返信は少し遅れた。


『もう本当に怖いです』


『当たり?』


『はい』


『唐揚げ十六個?』


『そこも当たりです』


『本人は?』


『現物を要求しています』


『心の中で』


『安定です』


 軽いやり取りで、予定の重さが少しだけほどけた。


    ◇


 夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。


 今日も話したかった。


 水曜の予定のこと。


 そして、自分たちの金曜のこと。


 玄関が開く。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 部屋に入る。


 ローテーブルには、いつものものが並んでいる。


 白いマグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 少し離れたスプーン。


 春日くんは、ミルクティーを作りながら言った。


「今日は蜂蜜普通です」


「理由は?」


「予定に負けない普通さで」


「また三崎さん混じってる?」


「少し」


「予定に負けるって言ってた?」


「はい」


 しらいさんは笑った。


 ミルクティーが置かれる。


 カップをコースターへ。


 ことん。


 今日は、カレンダーを閉じる音だった。


「紗季さん、カレンダーを見られなかった」


「はい」


「水曜を忘れたいわけじゃない」


「はい」


「むしろ覚えてる」


「はい」


「覚えてるから、見られなかった」


 春日くんは静かに頷いた。


「分かる気がします」


「春日くんも?」


「はい」


「金曜?」


「……はい」


 正直に言われて、しらいさんは少しだけ目を細めた。


「見てる?」


「見ています」


「私は、見たり見なかったり」


「はい」


「見たら、本当に来る気がする」


「はい」


「怖い」


「はい」


「でも、消してない」


「はい」


「それで今は十分?」


 春日くんは、少しだけ考えてから言った。


「十分だと思います」


「出た」


「出ます」


「でも、今日のは必要」


 しらいさんはミルクティーを飲んだ。


「楽しみって言えたら楽なのに」


「はい」


「怖い予定でも、予定は予定です」


「春日くん、今日少し冷静」


「そうしないと、俺が金曜の予定で浮かれすぎるので」


 しらいさんは、思わず笑った。


「浮かれてるの?」


「少し」


「どれくらい?」


「部屋を掃除しすぎないように注意するくらい」


「それ、かなり」


「はい」


「春日くんも、予定に負けてる」


「負けています」


「消す?」


「消しません」


「私も、消さない」


 二人は、少しだけ黙った。


 金曜はまだ来ていない。


 水曜もまだ来ていない。


 でも、予定はもう二人の間にある。


    ◇


 しらいさんは青灰色のノートを開いた。


 今日の一文を見せる。


『紗季さんは水曜を忘れたいんじゃない。覚えているから、見られなかった。』


 春日くんは、ゆっくり読んだ。


「いい一文です」


「うん」


「これは、かなり刺さる人が多いと思います」


「アクセス狙いとして?」


「はい」


「どうして?」


「予定が怖い人は多いと思うので」


「うん」


「嫌な予定だけじゃなくて、楽しみな予定も怖いことがある」


「うん」


「そこを言葉にできているので、読者が自分のこととして受け取りやすいと思います」


「春日くん、編集者が自然になってきた」


「すみません」


「褒めてる」


「なら、よかったです」


「また、なら」


「便利なので」


「乱用注意」


「はい」


 しらいさんはノートを閉じた。


「今日は書き足さない」


「はい」


「でも、覚えておく」


「はい」


「覚えているから見られない予定もある」


「はい」


「それは、忘れたい予定とは違う」


「はい」


    ◇


 帰る時間になった。


 今日は、しらいさんがマグカップを洗った。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に戻す音。


 ことん。


 今日最後の音。


「何割ですか」


 春日くんが聞く。


「九割七分」


「戻っていますね」


「うん。水曜は見られなかったけど、消さなかった」


「はい」


「金曜も、見たり見なかったりする」


「はい」


「でも、消さない」


「ありがとうございます」


「出た」


「出ます」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「予定って、怖いね」


「はい」


「でも、あると少し嬉しいね」


「はい」


「見られない日があっても、消さないなら、たぶんまだそこにある」


「はい」


「金曜、消さないでね」


「もちろんです」


「私も消さない」


「はい」


 しらいさんは、少しだけ笑った。


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる」


「金曜なら」


「普通のミルクティーで待っています」


「知ってる」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 春日悠真は、スマホのカレンダーを開いた。


 来週の金曜。


『普通のミルクティー』


 そこにある。


 見ても、少し怖い。


 けれど、消したくはない。


 予定は、ときどき人を急かす。


 でも、ときどき人を支える。


 水曜も、金曜も、まだ来ていない。


 けれど、消えてはいない。


 春日はスマホを伏せずに置いた。


 見張らない。


 でも、隠さない。


 それは、少しだけ紗季に似ていた。

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