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第152話 春日、君の「なら」に救われる

水曜なら。


 岸谷紗季が送ったその五文字は、撮影が終わってからも、しらいさんの中に残っていた。


 行きたい、ではない。

 行きます、でもない。

 楽しみ、でもない。


 水曜なら。


 その言葉は、どこか頼りない。


 けれど、頼りないからこそ本当だった。


 今の紗季さんに出せる、精一杯の形。

 全部は渡せないけれど、何も渡さないままではいられなかった人の、小さな扉。


 しらいさんは、帰りの車の窓に映る自分の顔を見ながら、何度もその言葉を思い出していた。


 水曜なら。


 なら、という言葉は不思議だ。


 逃げ道にもなる。

 言い訳にもなる。

 保留にもなる。


 でも、今日の紗季さんにとっては、扉だった。


 全部は無理。

 でも、ゼロじゃない。


 そう言うための、細い扉。


 しらいさんはスマホを手に取った。


 春日くんに送った青灰色のノートの写真をもう一度見る。


『紗季さんは、行きたいとは書けなかった。でも、水曜なら、と書いた。』


 その一文は、今日の紗季さんのものだった。


 でも、少しだけ自分のものでもある。


 来週の金曜。


 春日くんの部屋で、普通のミルクティーを飲む約束。


 それもまた、自分にとっては「金曜なら」なのかもしれない。


 絶対に大丈夫、と言い切れるほど強くない。


 けれど、行きたくないわけではない。


 むしろ、行きたい。


 ただ、その「行きたい」が、まだ少し怖いだけだ。


    ◇


 その日の夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。


 玄関を開ける前、少しだけ足を止めた。


 今日は、何かを戻しに来たわけではない。


 声を返すためでもない。

 沈黙を置くためでもない。

 撮影で抱えた重いものを処理するためだけでもない。


 話したかった。


 「なら」という言葉について。


 そして、春日くんに言われたかった。


 それでもいい、と。


 呼び鈴を鳴らす前に、ドアが開いた。


 春日くんが立っていた。


「……開けるの早い」


「足音がしました」


「こわい」


「すみません」


「謝らないで」


 そのやり取りだけで、少し笑えた。


「おかえりなさい」


「ただいま」


 今日は、その言葉がいつもより少し柔らかく出た。


 部屋に入る。


 ローテーブルには、いつものものが並んでいる。


 白いマグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 少し離れたスプーン。


 春日くんは、何も聞かずにミルクティーを作り始めた。


 しらいさんは、その背中を見ながら言う。


「今日は、蜂蜜どれくらい?」


「普通です」


「理由は?」


「なら、を普通に受け取る日なので」


「また変な理屈」


「すみません」


「でも、ちょっと分かる」


 春日くんは振り返らずに、少しだけ笑ったようだった。


 ミルクティーが置かれる。


 しらいさんはマグカップを受け取り、青灰色のコースターへ置いた。


 ことん。


 今日は、扉の音だった。


「春日くん」


「はい」


「水曜なら、って言葉」


「はい」


「今日は、ずっと残ってる」


「はい」


「行きたいとは書けなかった」


「はい」


「でも、断ってない」


「はい」


「それって、進んでるんだよね」


「進んでいると思います」


 春日くんは、いつものように即答しすぎない。


 でも、逃げない。


 その返し方が、今はちょうどよかった。


「紗季さん、たぶん怖い」


「はい」


「美緒さんも、たぶん怖い」


「はい」


「水曜なら、って言われたら、美緒さんは嬉しい」


「はい」


「でも、本当に来てくれるかは分からない」


「はい」


「紗季さんも、送ったけど、行けるかはまだ分からない」


「はい」


「それでも、送った」


「はい」


 しらいさんはミルクティーを飲んだ。


 甘さは普通。


 温度も普通。


 その普通さが、今日はやけに体に入ってきた。


「なら、って便利だけど、怖いね」


「はい」


「便利だから、逃げにもなる」


「はい」


「でも、全部は約束できない人には、必要な言葉でもある」


「はい」


「春日くんは、“なら”って言われたら、不安?」


 春日くんは少し考えた。


「不安です」


「正直」


「はい」


「うん」


「でも、救われることもあります」


「救われる?」


「はい」


「どうして?」


「全部は無理でも、少しなら開けてくれていると分かるので」


 しらいさんは、カップを持つ手を少し止めた。


「少しなら開けてる」


「はい」


「それ、いいね」


「はい」


「紗季さんも、そうだったのかな」


「そうかもしれません」


「水曜なら、って、小さいけど開けた」


「はい」


「美緒さんは、それを大きくしなかった」


「はい」


「そこがよかった」


 春日くんは頷いた。


「高瀬さんの芝居も、そうだったんですよね」


「うん」


「うん。じゃあ水曜に、って」


「はい」


「嬉しすぎない」


「はい」


「でも、嬉しくないわけじゃない」


「はい」


「大きくしすぎないで、受け取った」


「はい」


 しらいさんは小さく息を吐いた。


「難しいね」


「かなり」


「でも、そうやって受け取ってもらえると、次も少し返せる気がする」


「はい」


    ◇


 しらいさんは鞄から青灰色のノートを取り出した。


 もう一度、今日の一文を見る。


『紗季さんは、行きたいとは書けなかった。でも、水曜なら、と書いた。』


 春日くんも一緒に見た。


「この“でも”が大事です」


 春日くんが言う。


「さっきも言ってた」


「はい」


「行きたいとは書けなかった、だけなら、できなかった話になる」


「うん」


「水曜なら、と書いた、だけなら、少し進みすぎて見える」


「うん」


「でも、でつながっているから、紗季さんの今の位置になる」


 しらいさんは、少しだけ笑った。


「春日くん、今日かなり編集者」


「すみません」


「謝らないで。今日の春日くん、けっこう必要」


「なら、よかったです」


「今、なら、使った」


「使いました」


「便利?」


「かなり」


 二人で少し笑った。


 それから、しらいさんはノートの余白に指を置いた。


「書き足したい」


「今日は?」


「……たぶん、書く」


 春日くんは少し驚いた顔をした。


「一文ルールは?」


「今日は、区切りだから」


「なるほど」


「でも、短くする」


 しらいさんはペンを持った。


 少しだけ考えてから、今日の一文の下に、小さく書き足した。


『全部は無理でも、“なら”で開く扉がある。』


 書いた瞬間、胸の奥にあった言葉が少し整った。


 春日くんに見せる。


 彼はゆっくり読んだ。


「いい一文です」


「うん」


「これは、紗季さんだけじゃなくて、しらいさんにも必要ですね」


「春日くんにも?」


「はい」


「美緒さんにも?」


「たぶん」


「じゃあ、強い一文」


「かなり」


 しらいさんは、ノートを閉じた。


 今日は書き足してよかった。


    ◇


 しばらく二人は、「なら」について話した。


 行けるなら。

 話せるなら。

 来られるなら。

 返せるなら。


 どれも少し頼りない。


 けれど、頼りなさの中に、嘘をつかない誠実さがある日もある。


「春日くん」


「はい」


「私、よく“行けるなら”って言う」


「はい」


「便利だから」


「はい」


「逃げてる日もあると思う」


「はい」


「でも、全部逃げじゃない」


「はい」


「それ、今日少し分かった」


 春日くんは、マグカップを両手で包んだ。


「俺も、“なら”を受け取る練習をします」


「受け取る練習?」


「はい」


「どうやって?」


「なら、の先を急がない」


「うん」


「なら、を絶対の約束に変えない」


「うん」


「でも、曖昧に流しすぎない」


「難しい」


「難しいです」


「面倒くさいね」


「かなり」


「でも、必要」


「はい」


 しらいさんは、少しだけ真面目な顔になった。


「来週の金曜」


「はい」


「私、行くって言った」


「はい」


「でも、たぶん本当は、金曜なら、なんだと思う」


「はい」


「行きたい」


「はい」


「でも、絶対に大丈夫って言うのは、ちょっと怖い」


「はい」


「だから、金曜なら」


 春日くんは頷いた。


「受け取ります」


「不安?」


「少し」


「嬉しい?」


「かなり」


「重い?」


「少し」


「正直」


「はい」


「じゃあ、私も正直に言う」


「はい」


「私も怖い。でも、嬉しい」


 その言葉を口にすると、思ったより楽になった。


 春日くんは、静かに言った。


「金曜なら、普通のミルクティーを用意して待っています」


「普通?」


「はい」


「特別じゃなくて?」


「特別にしたい気持ちはあります」


「うん」


「でも、普通にします」


「どうして?」


「しらいさんが、普通に来られるように」


 しらいさんは、少しだけ目元が熱くなった。


「春日くん」


「はい」


「今日、やっぱりずるい」


「すみません」


「謝らないで」


 ミルクティーを飲む。


 もう少し冷めていた。


 でも、その温度も悪くなかった。


    ◇


 帰る時間が近づいた。


 今日は、長くいすぎないほうがいい気がした。


 「なら」の話をしすぎると、今度はその扉を大きくしすぎる。


 しらいさんはマグカップを持って立ち上がった。


「洗う」


「お願いします」


「今日は止めないんだ」


「扉を開けすぎない練習です」


「意味分からないけど、まあいい」


 水の音。

 カップを洗う音。

 布巾で拭く音。

 棚に戻す音。


 ことん。


 今日最後の音。


「何割ですか」


 春日くんが聞いた。


「九割八分」


「高いですね」


「なら、が扉になったから」


「はい」


「残り二分は?」


「帰り道で、金曜なら、を考える」


「怖くなりそうですか」


「少し」


「嬉しくも?」


「かなり」


「なら、よかったです」


「また使った」


「便利なので」


「乱用注意」


「はい」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「明日、来られるか分からない」


「はい」


「でも、来られるなら来る」


 春日くんは、少しだけ笑った。


「その“なら”、かなり嬉しいです」


「便利?」


「かなり」


「じゃあ、また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる。来られるなら」


「おかえりって言います。いつでも」


「知ってる」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 春日悠真は、ローテーブルの青灰色のコースターを見た。


 全部は無理でも、“なら”で開く扉がある。


 今日の一文が、部屋に残っている。


 なら、という言葉は弱いように見える。


 けれど、弱いからこそ使える人がいる。


 全部を約束できない人。

 すぐには選べない人。

 でも、ゼロにはしたくない人。


 その人が差し出す、小さな扉。


 春日はスマホのカレンダーを開いた。


 来週の金曜。


 予定名は、すでに変えてある。


『金曜なら、普通のミルクティー』


 少し考えて、もう一度だけ編集した。


『普通のミルクティー』


 なら、は自分の胸の中に置く。


 予定表には、普通でいい。


 春日はスマホを伏せずに置いた。


 見張らない。


 でも、消さない。


 小さな扉は、まだ開いている。

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