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第175話 紗季さんは「この前は」を消さなかった

 岸谷紗季は、スマホを手に取った。


 夜だった。


 部屋の中には、湯気の消えたマグカップがひとつある。


 飲みかけのお茶は、もう温かくない。


 けれど、捨てる気にもならなかった。


 テーブルの上には、いつものスマホ。


 伏せてはいない。


 画面を上にして置いてある。


 それだけのことが、少し前の紗季にはできなかった。


 美緒とのやり取りを開く。


『水曜なら』


『うん。じゃあ水曜に』


『ごめん』


『うん』


 それだけ。


 何度見ても、やっぱり短い。


 短すぎる。


 けれど、その短さの中に、水曜の全部が入っている。


 行こうとしたこと。


 駅の反対側まで来たこと。


 東口へ行けなかったこと。


 ごめん、とだけ送ったこと。


 美緒が、うん、とだけ返したこと。


 紗季は、その「うん」を見つめた。


 大丈夫だよ、ではなかった。


 気にしないで、でもなかった。


 また今度にしよう、でもなかった。


 ただ、うん。


 紗季の「ごめん」を、そこで終わらせなかった返事。


 許したわけでもない。


 責めたわけでもない。


 ただ、届いたことだけを返してくれた返事。


 紗季は、返信欄に指を置いた。


 しばらく、何も出てこなかった。


 美緒に何か言わなければいけない。


 そう思うと、何も出てこない。


 謝るのか。


 説明するのか。


 次の約束をするのか。


 それとも、何もなかったように別の話をするのか。


 どれも違う気がした。


 紗季は、ゆっくり文字を打った。


『この前は』


 そこまでだった。


 続きが出ない。


 この前は、ごめん。


 この前は、行けなくて。


 この前は、駅まで行ったけど。


 この前は、何て言えばいいか分からなくて。


 候補はいくつも浮かぶ。


 でも、どれも送れない。


 紗季は、画面の中の五文字を見つめた。


『この前は』


 それだけでは、何も伝わらない。


 文章にもなっていない。


 けれど、消せなかった。


 今までなら、消していた。


 意味がないから。


 中途半端だから。


 相手に送れない言葉だから。


 でも、今日は消さなかった。


 続きがない。


 だからといって、始まりまで消さなくてもいいのかもしれない。


 紗季は送信しなかった。


 ただ、返信欄に残した。


『この前は』


 画面を閉じる。


 スマホは伏せない。


 テーブルの上に、画面を上にして置く。


 続きはまだない。


 でも、始まりは残った。


    ◇


 撮影前、白瀬アカリは台本を読んだまま、しばらく黙っていた。


 今日の場面は、かなり静かだった。


 紗季が美緒とのやり取りを見返す。


 返信欄を開く。


『この前は』


 と打つ。


 続きが出ない。


 送らない。


 でも、消さない。


 それだけ。


 たったそれだけなのに、白瀬アカリには分かった。


 これは、とても大きい。


 水曜なら、と送れたこと。


 ごめん、と送れたこと。


 その次に来る、「この前は」。


 まだ謝罪にも説明にもなっていない。


 まだ次の約束にもなっていない。


 でも、紗季が自分から過去の出来事に触れようとした最初の言葉だった。


 そこへ理沙さんが入ってきた。


「喉は?」


「九割一分です」


「私の評価では九割」


「少し低いですね」


「今日は、喉じゃなくて指先に力が入っている顔をしているから」


 しらいさんは、台本から顔を上げた。


「指先」


「ええ。今日は打つ文字が少ないでしょう」


「はい」


「少ない文字ほど、指先に出るわ」


「……分かります」


 理沙さんは椅子に座り、台本のページを指で軽く叩いた。


「今日の『この前は』は、送れない言葉よ」


「はい」


「でも、消さない言葉」


「はい」


「そこを間違えないこと」


 しらいさんは頷いた。


「送る勇気の場面ではない」


「ええ」


「でも、書き始める勇気の場面」


「そう」


「紗季さんは、続きまでは行けない」


「はい」


「でも、始まりを消さない」


 理沙さんは、少しだけ口元を緩めた。


「いいわね」


「はい」


「あと、達成感を出しすぎないこと」


「はい」


「消さなかったことは大きい。でも、紗季本人はまだそれを大きいと分かっていない」


「視聴者だけが分かる」


「そう」


 また、視聴者だけが知る。


 この作品は、そういう小さな秘密を積み上げている。


 紗季が知らない紗季の前進。


 美緒が知らない美緒の優しさ。


 春日くんが言葉にしてくれる、見えにくい変化。


 その全部が、少しずつ物語になっていく。


    ◇


 紗季の部屋セット。


 夜。


 テーブルの上にはスマホ。


 グレーのマグカップ。


 少しだけ冷めたお茶。


 部屋の照明は暗すぎず、明るすぎず。


 何も起きない夜の続きのような空気だった。


 監督が説明する。


「白瀬さん、今日は返信欄に『この前は』と打ちます」


「はい」


「送信はしません」


「はい」


「でも、消しません」


「はい」


「大事なのは、未完成の言葉を残すことです」


「はい」


「文章になっていない。けれど、言葉は始まっている」


 しらいさんは、その言葉を胸に入れた。


 文章になっていない。


 けれど、言葉は始まっている。


 一度目の本番。


 紗季はスマホを見る。


『ごめん』


『うん』


 そこに視線が止まる。


 返信欄を開く。


『この前は』


 打つ。


 指が止まる。


 しらいさんは、その瞬間、少しだけ泣きそうな表情になってしまった。


 カット。


 監督が言う。


「今のは、紗季が感情を自覚しすぎています」


「はい」


「『この前は』を打ったことで、自分が何かを始めたと分かっているように見える」


「はい」


「まだ、そこまでは分かっていません」


 二度目。


 今度は、淡すぎた。


 ただ途中までメッセージを打っただけに見える。


 カット。


 監督が少しだけ首を傾げる。


「今度は、文字が軽いですね」


「はい」


「『この前は』は、よくある書き出しですが、紗季にとっては簡単ではない」


「はい」


「水曜に触れる言葉です」


 水曜に触れる。


 しらいさんは、その表現でようやく呼吸が合った気がした。


 三度目。


 紗季はスマホを見る。


 美緒との短いやり取り。


『ごめん』


『うん』


 その二つを見る。


 長く見つめすぎない。


 けれど、すぐには通り過ぎない。


 返信欄を開く。


 指が少しだけ迷う。


 それから、ゆっくり打つ。


『この前は』


 そこで止まる。


 続きは出ない。


 紗季の表情に、大きな感情はない。


 泣きそうでもない。


 前向きでもない。


 ただ、その五文字の前で止まっている。


 送信ボタンは押さない。


 でも、削除もしない。


 スマホを伏せず、画面を上にしたままテーブルへ置く。


『この前は』


 文字は、返信欄に残っている。


 カット。


 現場が静かになった。


 監督がモニターを確認し、静かに頷いた。


「今のでいきましょう」


 しらいさんは、息を吐いた。


 紗季さんは、まだ送れない。


 でも、消さなかった。


    ◇


 撮影後、高瀬菜央が近づいてきた。


 今日は美緒の出番はない。


 でも、紗季の「この前は」をモニターで見ていたらしい。


 高瀬は、少し目元を赤くしていた。


「白瀬さん」


「はい」


「紗季、書いてましたね」


「はい」


「送ってないけど」


「はい」


「でも、書いてました」


 その言い方が、どこか美緒のようだった。


 しらいさんは、小さく頷いた。


「消しませんでした」


「美緒が見たら、泣きます」


「また泣きそうですね、美緒さん」


「だって、紗季が見えないところで頑張るから」


 高瀬は、少しだけ笑った。


 それから、真面目な声に戻る。


「美緒が空けた場所に、紗季の言葉が来かけたんですね」


「はい」


「まだ来てないけど」


「はい」


「でも、来かけた」


 その表現が、とてもよかった。


 言葉はまだ届いていない。


 でも、来かけている。


 空欄は、ただの空欄ではなくなった。


「高瀬さん」


「はい」


「美緒さんが送らなかったこと、意味がありましたね」


「……はい」


 高瀬は、少し安心したように頷いた。


「よかった」


    ◇


 昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。


 三崎は唐揚げ弁当を開けながら、なぜかスマホのメモアプリを開いていた。


「今日は何だ」


 春日が聞くと、三崎はすぐに言った。


「書き出し」


「唐揚げ弁当の前で?」


「唐揚げ弁当の前だからこそ」


「関係あるのか」


「たぶんない」


 三崎は唐揚げを一つ食べてから続けた。


「文章ってさ、書き出しだけで止まることあるだろ」


「あるな」


「でも、書き出しを消さなかったら、もう始まってるんだよ」


 春日は、箸を止めた。


 今日も、やっぱり三崎は外さない。


「続きがなくても?」


「なくても」


「送ってなくても?」


「送ってなくても」


「相手に届いてなくても?」


「届いてなくても、自分の中では始まってる」


 三崎は、箸で白米を寄せながら言った。


「むしろ、送る前の書き出しって大事だぞ」


「どうして」


「相手に見せるためじゃなく、自分がその話題に触れた証拠だから」


 春日は、その言葉を深く受け取った。


 自分がその話題に触れた証拠。


 紗季の「この前は」は、まさにそれだ。


「三崎」


「何個?」


「二十二個」


 三崎の目が輝いた。


「増えた!」


「今日のはかなりいい」


「現物は?」


「心の中で」


「心の中、もう唐揚げ屋開けるぞ」


「繁盛しそうだな」


「現実店舗を出せ」


 春日は少し笑った。


 三崎も笑いながら、また真面目に言った。


「でも、本当にさ。書き出しを残すのって、けっこう勇気いる」


「うん」


「消すほうが楽だからな」


「うん」


「未完成の言葉を残すって、続きを信じることでもある」


 春日は、その言葉も覚えた。


 今日、しらいさんに伝えるべきことが多い。


    ◇


 夕方、しらいさんは青灰色のノートを開いた。


 今日の一文は、すぐには書けなかった。


 候補はいくつもある。


 この前は、を消さなかった。


 始まりが残った。


 続きはないけれど、言葉は始まった。


 どれも近い。


 でも、もう少しだけ紗季に寄せたかった。


 しらいさんはペンを持ち、ゆっくり書いた。


『紗季さんは、“この前は”を消さなかった。続きはまだない。でも、始まりは残した。』


 書いた瞬間、胸の奥に温かいものが広がった。


 写真を撮って、春日くんへ送る。


 すぐ既読。


『読みました』


『かなり大きいですね』


 しらいさんは返す。


『うん』


『送ってないけど』


『はい』


『でも、消さなかった』


 春日くんから少し間を置いて返信が来る。


『三崎がかなり近いことを言っていました』


 既読。


『外側の番人?』


『はい』


『書き出しだけで止まっても、消さなかったらもう始まっている』


『相手に見せるためではなく、自分がその話題に触れた証拠だから、と』


 しらいさんは、画面を見ながら小さく息を吐いた。


 三崎さん。


 今日も、ちゃんと外側から届いてくる。


『三崎さん』


『今日は唐揚げ二十二個?』


『はい』


『増えた』


『本人も喜んでいました』


『現物は?』


『心の中です』


『心の中で唐揚げ屋できそう』


『本人も似たことを言っていました』


 しらいさんは笑った。


 軽いやり取りがあるから、未完成の言葉の重さが少しだけ持てる。


    ◇


 夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。


 玄関が開く。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 いつものやり取り。


 いつもの部屋。


 本が一冊。

 ペンが一本。

 少し斜めのクッション。


 白いマグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 少し離れたスプーン。


 今日は、何も起きない夜とは少し違う。


 話したいことがある夜だった。


 春日くんがミルクティーを作る。


 蜂蜜は普通。


 カップが置かれる。


 ことん。


 今日は、書き出しを消さなかった音だった。


「紗季さん、“この前は”って打った」


「はい」


「続きは出なかった」


「はい」


「送らなかった」


「はい」


「でも、消さなかった」


「はい」


 春日くんは、静かに聞いていた。


「高瀬さんが言ってた」


「はい」


「美緒が空けた場所に、紗季さんの言葉が来かけたって」


「いい言葉ですね」


「うん」


「来かけた」


「はい」


「届いてはいない」


「はい」


「でも、始まっている」


「はい」


 しらいさんはミルクティーを飲んだ。


「三崎さんの言葉もよかった」


「書き出しだけでも、消さなかったら始まっている」


「うん」


「自分がその話題に触れた証拠」


「それ、かなり刺さった」


「俺もです」


「春日くんも?」


「はい」


「何かある?」


 春日くんは少し考えた。


「メッセージを書きかけて、消すことがあります」


「私に?」


「はい」


「何て?」


「いろいろです」


「たとえば」


 春日くんは少しだけ迷った。


 それから、静かに言った。


「今日、来ますか、とか」


「うん」


「無理しないでください、とか」


「うん」


「会いたいです、とか」


 しらいさんは、カップを持つ手を止めた。


 春日くんは目を伏せる。


「最後のは、だいたい消します」


「消すんだ」


「はい」


「でも、書く?」


「……書くことはあります」


 しらいさんは、胸の奥が少しだけ熱くなった。


「春日くん」


「はい」


「それ、消しても始まってる?」


「三崎理論では、たぶん」


「消したら?」


「証拠は残りません」


「でも、春日くんの中には?」


「残っているかもしれません」


 しらいさんは、少しだけ笑った。


「今日、ずるい」


「すみません」


「謝らないで」


    ◇


 しらいさんは青灰色のノートを開いた。


 今日の一文を見せる。


『紗季さんは、“この前は”を消さなかった。続きはまだない。でも、始まりは残した。』


 春日くんは、ゆっくり読んだ。


「いい一文です」


「うん」


「かなり、次につながりますね」


「アクセス狙いとして?」


「はい」


「どうして?」


「読者が続きを待てるからです」


「うん」


「“この前は”の続きが何なのか、気になります」


「はい」


「でも、今すぐ送らないことで、紗季さんらしさも残っている」


「うん」


「進みすぎず、止まりすぎず」


「春日くん、今日も編集者」


「すみません」


「謝らないで。今日は必要」


 しらいさんはノートを閉じた。


「私も、書き出しを残せるようになりたい」


「はい」


「続きがなくても」


「はい」


「春日くんも?」


「俺もです」


「じゃあ、練習?」


「はい」


「何を書く?」


「今ですか」


「うん」


 春日くんは少し困った顔をした。


 それが少し珍しくて、しらいさんは笑った。


「困ってる」


「困っています」


「無理しなくていい」


「はい」


「でも、いつか」


「はい」


「会いたいです、を消さずに送ってもいいよ」


 春日くんが、はっきり固まった。


 しらいさんも、自分で言ってから少し照れた。


「……今の、重かった?」


「かなり」


「ごめん」


「いえ」


「でも?」


 春日くんは、少しだけ目を伏せた。


「嬉しいです」


 しらいさんは、カップを見ながら小さく笑った。


「なら、よかった」


    ◇


 帰る時間になった。


 今日は、マグカップだけを片づけた。


 しらいさんが洗い、春日くんが拭く。


 水の音。

 布巾の音。

 棚に戻す音。


 ことん。


 今日最後の音。


「何割ですか」


 春日くんが聞く。


「九割九分」


「高いですね」


「“この前は”が消えなかったから」


「はい」


「残り一分は?」


「会いたいです、を言った照れ」


「……はい」


「春日くん、照れてる?」


「かなり」


「分かりにくい」


「すみません」


「謝らないで」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「続きがなくても、書き出しは残していい」


「はい」


「でも、送らなくてもいい」


「はい」


「消しても、完全には消えないこともある」


「はい」


「面倒くさいね」


「かなり」


「でも、大事」


「はい」


 しらいさんは笑った。


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる」


「理由があっても、なくても」


「ここにいます」


「知ってる」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 春日悠真は、スマホを手に取った。


 しらいさんとのやり取りを開く。


 返信欄に指を置く。


 少し迷ってから、打った。


『今日も来てくれて』


 そこで止まる。


 続きは、すぐには出なかった。


 ありがとう。


 嬉しかった。


 会えてよかった。


 候補はいくつもある。


 でも、どれも少しだけ違った。


 春日は、その文字を見つめた。


『今日も来てくれて』


 送らない。


 でも、消さない。


 しばらくそのままにして、スマホを伏せずにテーブルへ置いた。


 未完成の言葉が、部屋に残る。


 それは、少しだけ紗季に似ていた。

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