第7話 帰る場所と還る場所
「帰れる、かもしれません」
メルティアの声は、いつもより低かった。
宿の狭い部屋に二人。テーブルの上に古びた文献が広げられている。次元理論と書かれた表紙は擦り切れて、何百年も前のものに見える。
「禁書庫の最奥で発見しました。あなたの召喚と一致する事例が記録されています。偶発的な次元の歪みによる異世界転移。過去に七件」
「七件も?」
「うち五件は帰還しています。方法は、同じ歪みの再現。学術院の大魔法陣を用いれば、理論上は可能です」
理論上。メルティアがその言葉を使うとき、実現可能性は九割を超えている。この天才のフィルターを通った「理論上」は、他の学者の「確実」より信頼できる。
帰れる。
元の世界に。
会社に。アパートに。コンビニ弁当に。
「……いつ?」
「準備に十日ほど。大魔法陣の調整と、歪みの座標計算が必要です」
十日。
たった十日で、この世界との関わりが終わる。
翌朝、四人に伝えた。
ロゼッタの商会の、いつもの円卓。いつもの五つの椅子。だが今日は空気が違う。
「帰れるかもしれない。元の世界に」
一瞬の沈黙の後、四人の反応が鮮明に分かれた。
セルフィーネの右手が、無意識に剣の柄を握った。指が白くなるほど強く。表情は変わらない。変わらないことが、最も雄弁だった。
メルティアは自分が発見した情報だから知っている。だが改めて俺の口から聞くと、眼鏡の奥の目がわずかに揺れた。「合理的には帰還すべきです」と震える声で言った。
ロゼッタは椅子の背にもたれて天井を見上げた。「好きにすれば」。短い言葉。声に感情を乗せまいとして、それが逆に全部を晒していた。
フィーネは何も言わなかった。ただ、俺の袖を掴んだ。小さな手で、ぎゅっと。離せない。離したくない。言葉より正直な手だった。
「まだ決めてない」
四人の目が集まった。
「十日ある。考える時間はある」
「考えるまでもないでしょう」
メルティアが言った。声は平坦だが、手帳を持つ手が震えている。
「あなたには元の世界での生活がある。仕事があり、住居があり、社会的な基盤がある。感情で判断すべき問題ではありません」
正論だった。この天才の正論はいつも正しく、いつも痛い。
「——その研究を、やめろ」
セルフィーネだった。
全員が振り返った。寡黙な女騎士が、初めて声を荒らげていた。
「やめろ。帰還の準備を。そんなもの——」
「感情で事実は変わりません」
メルティアが遮った。眼鏡の奥の瞳がセルフィーネを見据えている。
「私だって同じ気持ちです。でも、彼にとって最善の選択を妨げる権利は、私たちにはない」
「最善? 最善かどうかを決めるのは彼だ。お前じゃない」
「だから研究結果を提示しているのです。判断材料を揃えた上で——」
「判断材料? 帰れという結論に誘導しているだけだろう」
二人の間の空気が裂けるかと思った。
知と剣が、初めて正面からぶつかっている。メルティアの論理は正しい。セルフィーネの感情も正しい。どちらも正しいから、折り合えない。ロゼッタが腕を組んだまま天井を睨んでいる。フィーネが俺の袖を握る力が強くなった。
「やめてくれ、二人とも」
立ち上がった。
「少し一人にさせてくれ」
夜。
城壁の上に座っていた。
王都を囲む石の城壁は、登ってみると意外に高い。王都の夜景が眼下に広がっている。松明の灯りがぽつぽつと並び、遠くで犬が吠えている。この世界の夜は暗い。電灯がないから星がよく見える。風が冷たくて気持ちいい。
帰ったら、何がある。
考えた。ちゃんと考えた。
会社がある。デスクがある。エクセルがある。上司がいて、同僚がいて、でも名前を呼ばれるのは業務連絡のときだけだ。
アパートがある。六畳一間。冷蔵庫にはコンビニ弁当の残り。休日は動画を見て終わる。誰からも連絡は来ない。年末年始も一人。誕生日を最後に祝ってもらったのがいつか、思い出せない。
帰りたい理由を探した。
一つも見つからなかった。
俺は元の世界で、透明人間だった。いないのと同じだった。誰にも必要とされず、誰の人生にも影響を与えず、ただ存在していた。フツメンという言葉がこれほど正確に自分を表す日が来るとは思わなかった。普通で、平凡で、誰の記憶にも残らない。
「……お前も来たのか」
振り返ると、ロゼッタが城壁の階段を上がってきたところだった。深紅の髪が夜風に揺れている。
「別に。散歩よ。城壁の上なんて趣味悪いところで黄昏れてるのはあんただけでしょうけど」
嘘だ。息が上がっている。俺を見つけて走ってきたのだ。
ロゼッタが隣に座った。少し離れて。でも手が届く距離に。
しばらく二人とも黙っていた。
「帰ったら何があるの?」
「仕事。アパート。コンビニ弁当」
「何それ?」
「一人分の飯」
ロゼッタが黙った。
「……あたしもね」
声が小さくなった。
「一人で食べる飯の味、よく知ってるわよ。二十四年分」
夜風が吹いた。赤い髪が舞い上がり、ロゼッタが鬱陶しそうに押さえた。
「帰りたいの?」
「わからない」
「わからないって何よ。帰りたいか帰りたくないかでしょ」
「帰りたくない理由はある。でも、それだけで残っていいのかがわからない」
ロゼッタが俺を見た。赤い瞳に城下の松明が映っている。
何か言いかけて、やめた。代わりに、ぽつりと言った。
「串焼き」
「え?」
「あんたと串焼き食べたの。あれ、あたしの人生で一番おいしい食事だった。高級料理なんかよりずっと」
「……ありがとう」
「お礼言われることじゃないわよ。馬鹿」
ロゼッタが立ち上がり、背を向けた。
「あたしは何も言わない。好きにしなさい」
去り際に、一度だけ足が止まった。振り返りはしなかった。
「でもね」
声が、震えていた。
「一人分の飯は、もう嫌よ」
赤い髪が夜の闇に消えていった。
入れ替わるように、小さな足音が近づいてきた。
フィーネだった。琥珀色の瞳が、暗闇の中で揺れている。
「あの」
「来てたのか」
「ロゼッタさんの後をつけてきたわけじゃなくて。その。……つけてきました」
正直だった。この子はいつも正直だ。
フィーネが隣に立った。城壁から王都を見下ろしている。小さな身体が夜風に揺れる。
「帰らないでとは言いません」
「うん」
「でも帰る前に、一つだけ聞いてもいいですか」
「何でも」
フィーネが俺を見上げた。
「あなたにとって、ここは何ですか」
星明かりの下で、そばかすの散った頬が見える。琥珀色の瞳に涙は浮かんでいない。泣いていない。泣くのを我慢しているのでもない。ただ、答えを待っている。
「……まだ、答えられない」
フィーネは少しだけ微笑んだ。
「待ってます」
それだけ言って、階段を降りていった。
一人になった城壁の上で、星を見上げた。
この世界の星は、元の世界より多い。
十日。
あと十日で、答えを出さなければならない。




