第6話 鳥籠は四方から
「今日は一人で散歩したい」
朝、宿を出て最初に言った言葉がこれだった。
セルフィーネが半歩前に立っている。いつも通りの完全武装。いつも通りの無表情。
「危険です」
「大通りを歩くだけだ」
「大通りでも不測の事態は起こり得ます」
「起こったことないだろ」
「起こっていないのは私が護衛しているからです」
反論が完璧すぎる。だが今日は引かないと決めていた。
「セルフィーネ。頼むから」
蒼い瞳がわずかに揺れた。俺が真剣な声を出したのが伝わったのだろう。
「……三十分だけ」
「ありがとう」
一人で大通りに出た。
久しぶりの単独行動だ。好きな方向に歩ける。好きな店を覗ける。誰の許可もいらない。たったそれだけのことが、こんなに新鮮に感じるのはおかしい。この世界に来て数週間で、一人で歩くことが特別な体験になっている。
深呼吸した。自由だ。
左手の通りに赤薔薇商会の旗が見えた。
右に曲がった。
右手の通りにも赤薔薇商会の旗があった。
まっすぐ進んだ。
パン屋に入った。焼きたての匂いがいい。壁に小さなプレートがかかっている。「赤薔薇商会提携店」。
出た。
隣の雑貨屋に入った。品揃えが豊富だ。壁に額縁。「赤薔薇商会グループ」。
出た。
向かいの屋台。串焼きのいい匂い。ここなら大丈夫だろう。暖簾の端に赤い薔薇の刺繍。
出た。
全部ロゼッタの店だ。
この通りどころか、この区画が丸ごとロゼッタの商圏に飲み込まれている。いつの間にか。たぶんあの串焼きの日から、一軒ずつ買い足されていったのだろう。
懐に手を入れると、メルティアが昨日寄越した紙が入っている。「本日の推奨行動ルート」と書かれた地図。安全な道順、混雑予測、天候に合わせた服装指示まで記載されている。俺の生活をスプレッドシートで管理しているかのごとき女の手書きだ。
腰にはフィーネのナイフ。昨日の定期点検で刃を研ぎ直し、柄に滑り止めの新素材を巻いてくれた。来週には「改良版」が届く予定らしい。頼んでいない。実は他にもいろいろと便利アイテムを押し付けられている。頼んでない。
三十分が経つ前にセルフィーネが現れた。
「十五分で来てるじゃないですか」
「不安だったので」
もう笑えなかった。
その日の夕方、四人を集めた。
ロゼッタの商会の一室。円卓に五つの椅子。四人がそれぞれの定位置に座っている。セルフィーネは背筋を伸ばし、メルティアは手帳を膝に置き、ロゼッタは腕を組み、フィーネは落ち着かなそうに指を組んでいる。
「話がある」
四人の目が集まった。
「今日、一人で街を歩いた」
「三十分間、はい。報告は受けています」とメルティア。
「受けてる? 誰から?」
「セルフィーネから。それとロゼッタの商会の従業員三名から。それとフィーネの工房の向かいの商店主から。合計五件の報告を受けています。なお、あなたがパン屋に入った時刻は十時十二分、滞在時間は四十秒でした」
「そこまで把握してるの?」
「精度は大事です」
「全員で監視してたのか」
沈黙が落ちた。
メルティアが口を閉じた。気まずい空気が漂う。四人は互いを見なかった。
「俺の行く店は全部ロゼッタの店だ」
ロゼッタが目を逸らした。
「俺の行動ルートはメルティアが決めている」
メルティアが手帳を握りしめた。
「俺の装備は全部フィーネ製で、他の店に行く理由がない」
フィーネがうつむいた。
「そして俺が外に出れば必ずセルフィーネがいる」
セルフィーネの表情は変わらない。変わらないが、剣を握る手が白くなっている。
「君たちが俺を大事にしてくれてるのはわかってる。全部、善意だってこともわかってる」
一呼吸置いた。
「でも、これは大事にしてるんじゃなくて、閉じ込めてるんだ」
四人の反応が分かれた。
セルフィーネは沈黙した。もともと寡黙な女だが、今の沈黙は質が違う。図星を突かれた人間の沈黙だ。
メルティアが口を開いた。「行動ルートの提案は合理的な安全管理であり、閉じ込めるという表現は——」
「メルティア。お前は頭がいいから、自分がやってることの名前を変えるのもうまい。でも安全管理と監視の違いは、相手の同意があるかどうかだろ」
メルティアの言葉が止まった。眼鏡の奥の目が揺れている。
ロゼッタが立ち上がった。
「はあ? あんたのために街を整備してあげたのに文句言うわけ? あたしがどれだけ——」
「ロゼッタ」
「何よ?」
「怖いんだろ。俺がいなくなるのが」
ロゼッタの口が閉じた。
「あんたが明日いなくなったら、あたしはまた一人で串焼き食べるのよ」
声が震えていた。
「また一人で食事して、一人で帳簿つけて、一人でカーテンの向こうに座るのよ。怖がって、何が悪いの!」
八重歯を噛みしめて、涙だけは見せまいと踏ん張っている。この女は人前で泣くことを自分に許さない。二十四年間そうやって生きてきたから。
「悪くない。でもそれは愛情じゃなくて恐怖だ」
ロゼッタが言葉を失った。椅子の肘掛けを掴む指が白い。図星だった。
フィーネが小さな声で言った。
「私たちが、迷惑でしたか」
「迷惑なもんか」
即答した。嘘じゃない。フィーネの琥珀色の瞳が潤んでいる。泣かせたいわけじゃない。
「お前たちに会えて、俺は——」
言葉が詰まった。この世界に来て初めて、誰かに必要とされた。朝起きたら誰かがいて、仕事があって、飯を一緒に食べる相手がいる。元の世界では一度も手に入らなかったものが、全部ここにある。それがどれだけ嬉しかったか。言葉にすると崩れそうだった。だから、彼女たちの気持ちも分かる。痛いほど分かる。
「ただ、このままじゃお互いダメになる」
セルフィーネが、初めて口を開いた。
「では、どうすればいい?」
声が低く、平坦で、だからこそ切実だった。
「私には、こうすること以外わからない。剣を取って、あなたの前に立つこと以外」
「一緒に考えよう」
「何をですか」
「どうすればいいか。俺もわかってない。でも一人で考えるより五人で考えた方がマシだろ」
セルフィーネが俺を見た。長い間。
それから、ほんのわずかに、頷いた。
メルティアが手帳を閉じた。ロゼッタが椅子に座り直した。フィーネが顔を上げた。
何かが変わった実感はまだない。でも、蓋をしていたものに名前をつけた。鳥籠という名前を。名前がつけば、壊し方も考えられる。
部屋を出るとき、ロゼッタが俺の袖を掴んだ。一瞬だけ。すぐに離した。
「あんたのせいよ」
小さく、誰にも聞こえない声で言った。
「何が」
「鎧の脱ぎ方、忘れちゃったじゃない。馬鹿」
背を向けて去っていくロゼッタの耳が赤かった。怒りではない。それよりもっと、扱いに困るものだった。
その夜。
宿の扉を叩く音がした。
開けると、メルティアが立っていた。いつもの無表情だが、目の奥に、初めて見る光がある。切迫した、けれど静かな光。
「あなたがこの世界に来た原因について、仮説があります」
「仮説?」
「次元理論の文献に一致する記述を見つけました。偶発的な次元の歪みによる召喚。そして——」
メルティアが一度、唇を噛んだ。
「帰還する方法も」
夜の空気が、変わった。




