第4話 触れてもいいですか
「……触っても、大丈夫ですか」
それが、彼女の第一声だった。
セルフィーネに半ば担がれるようにして辿り着いたのは、王都の外れにある小さな工房だった。鍛冶場と診療所が一体になったような不思議な建物で、入口に「銀炎工房」と手書きの看板がかかっている。
扉を開けた先にいたのは、小柄な女だった。
亜麻色の髪をお団子にまとめ、そばかすが散った頬に、大きな琥珀色の瞳。革のエプロンから覗く腕は細いが、手のひらにはたこができている。
こちらの基準で言えば——もういちいち驚かないが——とびきりの美少女だった。
その美少女が、怯えた目でこちらを見ている。
「あの、本当に大丈夫ですか。私の手が触れても。前に、治療しようとしたら泣かれたことがあって」
泣かれた。
治療しようとしただけで、泣かれた。
医者が患者に触ろうとして、患者の方が泣いて逃げた。この世界の化け物差別はそこまで根深いのか。
腰が痛い。商会で荷物運びを頑張りすぎた。セルフィーネは「冒険者ギルドの討伐で」と説明していたが、正確には変な姿勢で荷物を持ち上げたとき「ぐきっ」となった間抜けだ。戦闘でもなんでもない。情けないにもほどがある。
「お願いします」
即答した。
フィーネの目が丸くなった。
「え、あの、嫌じゃ——」
「腰が痛いので早めにお願いしたいです」
「は、はい!」
フィーネが慌てて道具を準備する。薬瓶を並べ、包帯を出し、ぬるま湯を張った桶を引き寄せる。その手際にまったく迷いがない。怯えているのは表情だけで、手は完璧にプロの動きをしている。
俺を寝台に寝かせ、そっと裾をまくる。指先が肌に触れた瞬間、フィーネの手がわずかに震えた。
触れることそのものが、怖いのだ。
今まで何十回、何百回と「触るな化け物」と言われてきた手だ。人の肌に触れるたびに拒絶されてきた手が、今、俺の腕に触れている。
「痛くしたらすみません」
「大丈夫ですよ」
フィーネの指が腰の上を滑る。痛みの範囲を確認し、骨に異常がないか触診している。驚いたのは手際の良さだった。触れる場所、力加減、指の角度。すべてが的確で、必要最小限の接触で最大限の情報を引き出している。
「すごい。手際いいですね」
フィーネの手が、ぴくっと止まった。
「全然痛くない。プロだ」
また止まった。今度は長かった。五秒。十秒。
「フィーネさん?」
返事がない。
顔を覗き込むと、琥珀色の瞳から涙がぼろぼろとこぼれていた。
口を固く結んで、声を殺して泣いている。涙が頬のそばかすの上を流れて、顎から落ちて、俺の腕に落ちた。泣きながら、それでも治療の手は止めていない。指は震えているのに正確に薬を塗り、包帯を巻いている。
「え、ちょっと、俺なんかした?」
首を横に振る。
「すみません、すみません。すぐ終わりますから」
「いや謝らなくていいんだけど」
「触っても嫌がらなかったの、初めてで」
声が震えている。
「手際がいいって言われたの、師匠以外で初めてで」
涙が止まらない。
「痛くないって、言ってもらえたの——」
そこで言葉が詰まった。嗚咽をこらえて、でもこらえきれなくて、小さく肩が揺れている。
背後でセルフィーネが目を逸らした。泣いている理由がわかるからだ。同じ側の人間だから。
「ありがとうございます」
フィーネが鼻を啜りながら包帯を結び終えた。完璧な処置だった。泣きながらこの精度を出せるのは、もはや職人を超えている。
「こちらこそ。ありがとうございます」
「いえ、お金は——」
「治療の話じゃなくて。泣きながらでも手を止めなかったでしょう。あの手際は本物だ」
フィーネが顔を上げた。
泣き腫らした目が、まっすぐ俺を見ている。
なんで、という顔だった。なんでそこを見ているんだ、という顔。化け物と呼ばれる顔を、なぜ見ていられるのか。ではなく。自分の手を、なぜそんなふうに評価できるのか。
「あ、あの。腰のこと、明日も診せてください。経過を見た方がいいので」
「はい、お願いします」
「あと、その剣」
フィーネが、俺の腰のナイフに目を留めた。ロゼッタの商会で支給されたもので、正直なところ切れ味は悪い。
「ひどい状態です。刃こぼれが三箇所。柄の巻きも緩んでる。直させてください」
「いいんですか?」
「鍛冶が本業なので」
フィーネの目が、涙の膜の向こうで輝いた。さっきまでの怯えた目ではない。道具を前にした職人の目。
翌日、工房を訪ねると、ナイフは別物になっていた。
同じナイフとは思えないほど美しく研ぎ上げられ、柄は握りやすく巻き直され、鞘まで新調されている。しかもその隣に、見たことのないナイフがもう一本置いてあった。
「これは?」
「あなた専用に打ちました」
「え、頼んでない——」
「使ってみてください。手の大きさと握り方に合わせて設計したので」
握った。
手に吸い付くようだった。重心が完璧で、刃を振ると空気を切る音がする。こんなに手に馴染む道具を持ったことがない。
「すごい。すごいなこれ」
フィーネの顔が、ぱっと明るくなった。
「本当ですか? 本当に使いやすいですか?」
「はい。すごいです。吸い付くように握れて、軽く振り抜ける」
「よかったぁ」
胸の前で手を握って、満面の笑みを浮かべている。そばかすの散った頬が薄紅色に染まり、琥珀色の瞳がきらきらと光る。さっきまで泣いていた女の子と同一人物とは思えない。
「あ、でもこれ、お金——」
「アフターサービスです」
「ナイフ新しく打つのは、腰痛のアフターサービスの範囲超えてると思うんですけど」
「鍛冶師としてのアフターサービスです」
押し切られた。
セルフィーネが入口で腕を組んで見ている。
「……また増えましたね」
「何が?」
「あなたに懐く化け物が」
それは彼女たちにも自分にも使う呼び方なのだろうか。聞く勇気はなかった。
工房を出ると、腰に新しいナイフが揺れていた。手に馴染む重さ。フィーネが俺のために作った重さ。
気づけば——
護衛はセルフィーネ。
情報源はメルティア。
雇い主はロゼッタ。
装備と主治医はフィーネ。
俺の生活の四方に、四人の化け物が配置されている。
偶然だ。偶然のはずだ。
だが振り返ると、宿までの道のりにロゼッタの商会の旗が三本見え、セルフィーネが半歩横を歩き、懐には今朝メルティアが寄越した「王都安全マップ」が入っていて、腰にはフィーネのナイフがある。
俺の生活に、俺が自分で選んだものが何もない。
それに気づいたとき、背筋にぞわりと冷たいものが走った。
だがそれよりも先に、ロゼッタから伝書鳩が届いた。
「来週、商会の晩餐会に出なさい。あんたは賓客よ」
日雇いが賓客になる経緯がわからない。
だが本当に怖いのは、その晩餐会にセルフィーネもメルティアもフィーネも、全員が来る理由を持っているということだった。




