第2話 目が死んでいる天才
「左です」
「え?」
「次の角を左。右は貧民街で治安が悪い」
セルフィーネが半歩前を歩きながら、淡々と道を指示してくる。
完全武装。腰に細剣。背筋は定規で引いたように真っ直ぐ。銀髪が朝の風に揺れて、すれ違う人々が一様に顔をしかめる。
「うわ、化け物だ」
「朝から気分悪い」
「あんな顔で騎士って、世も末だな」
聞こえているはずだ。だがセルフィーネの表情は微動だにしない。俺の方が先に腹が立つ。
「なあ、あいつら——」
「慣れています」
遮るような声だった。でも、その「慣れています」が一番聞きたくない言葉だった。
昨日の朝、宿の前で「あなたの剣になります」と宣言されてから丸一日。
この女騎士は本当に一歩も離れない。
食事のとき、向かいの席に座る。宿に戻れば扉の前に立つ。就寝を告げると「では、ここで」と扉の外で直立不動のまま朝を迎えていた。
怖い。
護衛というか、これは何だ。憲兵か。刑務官か。
「あの、セルフィーネさん」
「セルフィーネで構いません」
「じゃあセルフィーネ。今日は一人で街を歩きたいんだけど」
沈黙。
蒼い瞳がこちらを見た。表情は変わらない。変わらないのだが、空気の温度が二度ほど下がった気がする。
「危険です」
「いや、大通りを歩くだけで——」
「この世界をまだ理解していないあなたが一人で歩くのは危険です」
正論だった。正論なのだが、その正論を完全武装の美女が真顔で言ってくるのが怖い。
結局、セルフィーネの護衛付きで王都を歩くことになった。
目的は情報収集だ。この世界のことを知らなければ、帰る方法も探しようがない。文字が読めるかどうかすら怪しいが、とりあえず図書館的な場所があれば行きたい。
その旨を伝えると、セルフィーネが「王立学術院に図書館があります」と即答した。便利な護衛だった。
学術院は王都の中心に近い石造りの巨大な建物だった。中に入ると、天井まで本棚が並ぶ広大な空間が広がっている。
人がいない。
いや、一人だけいた。
本棚の谷間に、黒い髪の女が立っていた。
長い黒髪を背中に流し、細いフレームの眼鏡をかけている。肌は白磁のように白く、切れ長の目は伏せがちで、表情がほとんどない。
こちらの世界の基準で言えば——また、とんでもない美女だった。
セルフィーネが小声で言った。
「王立学術院主席研究員、メルティア。二十歳で主席になった天才です。そして——」
「化け物扱い?」
「……目が死んでいる人形、と呼ばれています」
メルティアがこちらに気づいた。
伏せがちだった目がわずかに上がり、俺とセルフィーネを認識する。そして、何の感情も浮かんでいない瞳で一言。
「ここは一般開放されていません」
「あ、すみません。本を探してて——」
「追い出す理由もありませんが」
なんだその回答は。いいのか駄目なのかはっきりしてほしい。
「ここにある本、全部あなたが管理してるんですか?」
「管理というか。読みました」
「全部?」
「全部」
この書庫だけで何千冊あるかわからない。それを全部。しかも二十歳で。
「すごいな。本当にすごい」
メルティアの目が、ほんの少し動いた。
変化とも呼べないくらい小さな動きだった。でも、さっきまで完全に死んでいた瞳に、かすかな光が点った。
「この辺に、この世界の地理とか歴史がわかる本ってありますか?」
メルティアは無言で本棚に向かい、三冊の本を抜き出して俺の前に積んだ。迷いのない動きだった。何千冊の中から、目的に合う三冊を五秒で選別できる頭脳。
「この三冊を読めば、基礎的な世界認識は構築できます」
「ありがとう。あ、こっちの本は?」
たまたま目に入った背表紙を指さした。メルティアがそれを見て、ほんの一瞬、息を吸った。
「それは、私の研究書です。次元理論の——誰も興味を持ちません」
「次元? 面白そうだ。読んでいい?」
メルティアが俺を見た。
今度は、はっきりと目が変わっていた。死んでいた瞳に何かが灯っている。驚きとも戸惑いともつかない、名前のない感情。
「……なぜ、私の話を聞くのですか」
「え?」
「皆、私が話すと目を逸らします。会議で発言しても、誰もこちらを見ない。私の声は——」
言いかけて、止まった。言い慣れていない言葉を口にしてしまった人間の、小さな狼狽。
「話が面白いからですよ、普通に」
メルティアの唇が、震えた。
ぎゅっと本を胸に抱え込む動作は、天才でも最年少主席でもなく、ただ褒められたことがない二十歳の女の子のものだった。
背後でセルフィーネの気配が変わった。
振り返ると、蒼い瞳が氷点下の光を帯びてメルティアを見ている。腕を組み、壁に背を預けた姿勢は護衛のそれだが、空気は明らかに護衛のそれではない。
「……そろそろ行きましょう」
「もうちょっとだけ」
「もう、充分でしょう」
声が低い。帯剣した氷の美女の声が低くなっている。これはまずい。何がまずいのか正確にはわからないが、本能がまずいと言っている。
そのとき、メルティアが小さく言った。
「また、来ますか」
ほとんど聞こえないような声だった。本を胸に抱えたまま、伏せた目の奥だけが俺を見ている。
「もちろん」
即答した瞬間、メルティアの目に明確な光が灯った。さっきの点滅ではない。はっきりとした、温かい光。死んでいた瞳が、生き返った。
背後の気温がさらに三度下がった。
セルフィーネが無言で俺の腕を掴み、図書館から引きずり出した。力が強い。この世界の女は全員握力がおかしいのか。
「セルフィーネ、痛い痛い痛い」
「痛くありません」
痛いかどうかは俺が決めることだと思うんだが。
学術院の外に出ると、セルフィーネが足を止めて俺を見た。蒼い瞳にはさっきまでの氷の光は消えていて、代わりに、何と言えばいいのか——不安、のような色が浮かんでいた。
「あなたは、誰にでもああいうことを言うのですか」
「ああいうことって?」
「すごい、とか。面白い、とか」
「思ったことを言っただけだけど」
セルフィーネが口を開きかけて、閉じた。何かを飲み込んだ顔だった。
「……私にも、言いましたね。綺麗な目だと」
「うん。思ったから」
セルフィーネは五秒ほど黙り、前を向いた。耳の先が赤い。
「……行きましょう。路銀を稼ぐ方法を、考えなければ」
話題を変えられた。
だが、歩き出したセルフィーネの歩幅がさっきより少し狭くなっていることに、俺は気づいていた。半歩前ではなく、ほぼ隣。護衛の距離ではない。
何が変わったのかはわからない。でも、何かが変わった。
宿に戻ると、セルフィーネが仕事の話を切り出した。
「路銀が尽きかけています。仕事を紹介できますが——」
「マジで? 助かる」
「ただし、紹介先が少し特殊です」
「特殊?」
セルフィーネの表情が、わずかに曇った。
「大陸五大商会の一つ、赤薔薇商会。会頭は——この街で最も恐れられている女です」
「恐れられてる? 強いの?」
「強いというか」
セルフィーネが言葉を選ぶように間を置いた。
「街で最も醜い、とされている女です」
つまり——俺の基準で言えば、とびきりの美女がもう一人いるということだ。
嫌な予感しかしない。




