第1話 化け物と呼ばれた女
「ねえ兄さん、今夜ヒマ?」
目を開けたら知らない街だった。
石畳の路地。中世ヨーロッパみたいな建物。頭上から木の吊看板がぶら下がり、どこかで馬車の車輪が石を弾く音が鳴っている。
そして目の前にしゃがみ込んでいるのは、やたらゴツい顔の女だった。
顎は岩のように張り、鼻は堂々たる存在感を放ち、目は小さく鋭い。肩幅は俺の倍近い。その女が頬を赤く染めて、路地裏で倒れている俺をうっとりと覗き込んでいる。
「路地裏で寝てるなんて危ないよ? お姉さんが安全なとこ、連れてったげる」
「は、あ、いえ、その」
「やだ、照れてる。かわいい」
照れてない。状況が一ミリも理解できないだけだ。
反射的に身体を起こすと、女がぐいっと腕を掴んできた。力が強い。ものすごく強い。肉食獣に前足で押さえられた草食動物の気持ちが、今わかった。
「ちょっとアンタ! 何あたしの見つけた男に手ぇ出してんの!」
別の女が路地に飛び込んできた。この人もまた、すごい顔面をしている。額が広く、眉は太く、頬骨が城壁のようにそびえ立っている。
「はあ? あたしが先に見つけたんだけど?」
「だからって路上で男に触るとかはしたないでしょ! 順序ってもんがあるのよ!」
ふたりが俺を間に挟んで睨み合っている。
待ってくれ。何の順序だ。俺の意思は。置物か俺は。
そしてなぜ「はしたない」のが、女が男に触ることなんだ。
隙を見て二人から離れ、大通りに出た。
そこで、決定的な違和感に気づいた。
男たちが、みんな首元まできっちり詰まった服を着ている。少し襟が開いているだけの男が、通りすがりの女に「見えてるわよ」と指摘されて真っ赤になり、慌てて襟を直している。
逆に女たちは胸元を大胆に開け、短いスカートで闊歩し、すれ違う男に「兄さんいい身体してんね」と声を飛ばす。声をかけられた男が「やめてください」と顔を伏せて小走りに逃げる。追う女。笑う女。誰もそれを異常だと思っていない。
酒場の前では、女の集団が昼間から酒をあおって大声で笑っている。「昨日あたしが口説いた男がさあ」「ちゃんと告白してから手ぇ出しなさいよ」。その横を男たちが目を伏せてそそくさと通り過ぎていく。
貞操観念が、男女で逆転している。
呆然と立ち尽くしていると、さらにとんでもないものを見た。
通りの花屋で、若い女が男に花束を差し出している。女の体格はプロレスラーそのもの。顎は割れ、首は丸太のように太く、腕の筋肉が服の縫い目を圧迫している。
受け取った男が「人前では恥ずかしいだろ」と耳まで赤くなってうつむく。
周囲の女たちがうっとりとため息をついた。
「いいなあ、あんなイケメン捕まえて」
「ほんと。あの子、顔もスタイルもいいもんね」
「あたしもあんな綺麗な顔に生まれたかったわ」
丸太みたいな腕をした女を、綺麗だと言っている。
俺は三度、周囲を見渡した。見渡すたびに現実が遠のいた。立て看板に描かれた「本日の美人ランキング」のイラストは、俺の世界ならホラー映画のポスターだった。
背筋が凍った。
美の基準まで、ひっくり返っている。
美醜逆転。貞操逆転。二重に何もかもが裏返しの世界に、俺はなぜか放り込まれていた。昨日まで会社でエクセルを打ち、コンビニの弁当を食い、休日は一人で動画を見て、誰にも必要とされない代わりに誰も傷つけない平穏な日常にいたはずなのに。
なぜこうなった。どうすればいい。帰り方はおろか、来た理由すらわからない。
とりあえず情報が必要だ。そう思って裏通りをさまよっていると、声が聞こえた。
「よう化け物、今日もいい面してんなぁ?」
路地裏の行き止まりで、五人の男が誰かを囲んでいた。
囲みの中心に立っていたのは、銀色の髪の女だった。
青い瞳。通った鼻筋。きつく引き結ばれた薄い唇。長身の身体を白い騎士服で包み、腰に細剣を佩いている。
俺の世界の基準なら、十人が十人振り返る。いや、二十人が二十人立ち止まる。それほどの美女だった。
男たちがゲラゲラ笑っている。
「蒼い目の化け物が騎士様とか、冗談きついわ」
「その気色悪い面で街うろつくなよ、目に毒だ」
「おい見ろよ、また黙ってる。化け物のくせに偉そうに」
女は、何も言い返さなかった。
腰の剣に手をかけたまま、唇を噛みしめている。その手がわずかに震えていた。怒りではない。言い返したところで何も変わらないと知り尽くした人間の、何千回目かの沈黙だ。諦めのこもったその横顔が、俺の足を動かした。
考えていなかった。美醜が逆転している世界だからどうこうとか、そういう理屈は頭になかった。複数人で一人を囲んで嗤っている光景が、ただ不愉快だった。
「やめろよ」
男たちが振り返る。
「あ? なんだお前」
「見てわかんねえのか? こいつの面見ろよ。化け物だろうが」
見た。蒼い瞳と、まっすぐ目が合った。
「綺麗な目だと思うけど」
空気が固まった。
男たちが口を開けた。女の呼吸が止まった。路地裏の時間だけが、凍りついた。
「お前、目ぇ腐ってんのか——」
「何人もで一人囲んで楽しいのかって聞いてんだ。恥ずかしくないのか」
目を逸らさなかった。こっちは何の力もないフツメンの会社員だが、睨むくらいはできる。
男たちは舌打ちして去った。弱い者いじめをする人間は、どの世界でも反撃に弱い。
静かになった路地裏で、女が俺を見ていた。
蒼い瞳が、揺れている。
「なぜだ?」
低く、透き通った声だった。
「なぜ私の顔を見て、逃げない」
心底わからなかった。
「なんで逃げるんですか?」
女の目が、大きく見開かれた。
唇が開き、何かを言おうとして、声にならず、閉じて、また開いて、結局何も出てこなかった。夕暮れの光が路地に差し込んで銀髪を淡く染め、蒼い瞳に光が溜まった。泣いているわけではない。ただ、処理しきれない感情が行き場を探して、目の奥で静かに渦を巻いていた。
「お前は何者だ?」
「えーと、ただの迷子、ですかね」
それだけ言って笑ってみせた。女は踵を返し、足早に路地を去っていった。振り返らなかった。
残された俺は、しばらく棒立ちのまま彼女が去った方向を見ていた。
夕焼けに溶けていく銀髪の残像が、目の裏に焼きついて消えない。
あの目は忘れられそうにない。
その日は安宿を見つけ、固いベッドに倒れ込み、意味不明な一日を噛みしめながら眠った。
翌朝。
宿の扉を開けた瞬間、鼻先三十センチに銀色の胸甲があった。
完全武装の女騎士が、扉の正面に直立不動で立っている。蒼い瞳が、朝日の中でまっすぐ俺を射抜いた。
「昨夜の恩を返すまで——あなたの剣になります」
その声は、恐ろしいほど本気だった。
「——は?」
こうして俺は、この狂った世界で最初の一歩を踏み出したわけだが、そのときはまだ知らなかった。この女が、ほんの始まりに過ぎないことを。




