第9話 手放すということ
「代償は、ありません」
メルティアの声が、静かな部屋に落ちた。
三日三晩、禁書庫に籠もって導き出した結論だった。目の下に隈ができている。髪は乱れ、眼鏡が少しずれている。それでも瞳だけは正確だった。この人は、どんなに傷ついても目だけは嘘をつかない。
「帰還の真の条件は、何の代償もなく帰れる、です」
「代償がない?」
「ええ。記憶を失うというのは実家が仕込んだ嘘でした。あなたが帰還を諦めるよう仕向けるための。私をこの世界に繋ぎ止める鎖として利用するための」
メルティアの声は平坦だった。泣き尽くした後の、乾いた静けさ。
「つまり、あなたはいつでも、何も失わずに、元の世界に帰れます」
部屋が静まり返った。
何も失わずに、帰れる。
記憶も消えない。体も無事。物理的な制約は何もない。帰還を妨げるものは、この世界のどこにもない。
俺自身の意志を除いて。
「帰還の術式は明日の夜、準備が整います」
メルティアが立ち上がり、扉に向かった。
「メルティア」
「合理的には、帰還すべきです。私の感情は計算に入れないでください」
振り返らずに出ていった。
その日の午後から、四人が一人ずつ俺のもとを訪れた。
最初はセルフィーネだった。
宿の部屋の扉を開けると、鎧を着ていなかった。初めて見る私服姿。白いシャツに濃紺のスカート。腰に剣はない。
「今日は護衛ではありません」
「うん」
セルフィーネが部屋の中央に立った。背筋はいつもと同じように真っ直ぐだ。でも、手の置き場がないようだった。剣の柄がないと、この人は手をどこに置いていいかわからないのだ。
「私はあなたの剣でした」
「ああ」
「でも剣は、持ち主を鎖で繋ぐものではない」
息を吸った。
「だから——行ってください」
声は震えなかった。震えないように、全身の力を使っていた。顎を上げ、背筋を伸ばし、騎士としての最後の矜持で姿勢を保っている。
「お前は俺の剣なんかじゃない。最初から、そうだった」
セルフィーネの目が見開かれた。
「お前はお前だ。剣じゃなくて、セルフィーネっていう名前の、一人の人間だ。路地裏で化け物と呼ばれても折れなかった、強い人間だ」
蒼い瞳に、光が溜まった。溜まって、溜まって、でもこぼれない。こぼすまいとしている。
「それは——」
唇が震えた。
「それは、反則です」
最後にそれだけ言って、背を向けた。扉を閉める手が、一度だけ止まった。
次にロゼッタが来た。
扉を開けた瞬間、串焼きの匂いがした。
「最後の差し入れよ。食べなさい」
「最後って言うなよ」
「事実でしょ」
テーブルに串焼きが二本置かれた。あの屋台と同じ串焼き。ロゼッタが隣に座った。
二人で食べた。黙って食べた。屋台の前で初めて一緒に食べた日と同じ串焼きなのに、味が違う。いや、味は同じだ。ただ、のどを通るのに時間がかかる。
ロゼッタが食べ終わって、串を置いた。
「慣れてるわよ、一人は。二十四年やってきたんだから」
「嘘つくの下手になったな」
ロゼッタが俺を見た。赤い瞳に、薄く涙が膜を張っている。
「あんたのせいよ、馬鹿」
立ち上がって、扉に向かった。
「ロゼッタ」
「何よ」
「串焼き、うまかった。お前と食ったから」
ロゼッタの足が止まった。五秒。長い五秒。振り返らなかった。
「当たり前でしょ。あたしが選んだ店なんだから」
声がかすれていた。扉が閉まった。
三人目はメルティアだった。
手帳を持っていなかった。初めて見る手ぶらのメルティア。
「帰還の術式の最終確認を済ませました。明日の月の出と同時に起動可能です」
「ありがとう。お前が見つけてくれたから、選択肢がある」
「選択肢を提示するのは研究者の務めです。選ぶのはあなたです」
いつものメルティアだ。論理的で、正確で、感情を言葉の外に置こうとする。でも今日は手帳がない。あの手帳は彼女の盾だった。データと論理で自分を守る盾。それを置いてきたということは、丸腰で来たということだ。
「一つ、聞いていいですか」
「何でも」
「私の研究書。次元理論の。あなたが面白そうだと言った本」
「うん」
「あれを面白いと言ったのは、本心でしたか」
「当たり前だろ」
メルティアが目を伏せた。眼鏡のレンズに天井の灯りが反射して、表情が見えない。
「それが聞けたので、充分です」
充分なわけがない。充分なわけがないことは、俺にもわかっている。
メルティアが出ていった後、しばらくして扉が鳴った。
ノックではなかった。指先が扉の表面に触れる、かすかな音。
開けると、フィーネが立っていた。
琥珀色の瞳。そばかす。お団子の髪。いつもと同じだ。でも唇が震えている。
手に何か持っている。布に包まれた、小さなもの。
「これ」
差し出された。開くと、ナイフだった。
今まで見た中で、最も美しいナイフ。刃は鏡のように磨かれ、柄には小さな琥珀の石がはめ込まれている。
「あなたの世界に持って帰ってください」
「フィーネ」
「向こうの世界では使い道ないかもしれないけど。でも、持っていてほしくて。私が作ったものを、どこかに」
声が揺れている。泣きたいのを、必死に堪えている。この子はいつもそうだ。泣きたいときほど笑おうとする。
「帰らないでとは言いません。約束した通り」
そしてフィーネは、俺の手を取った。
両手で包むように握った。小さくて、たこのある、温かい手。鍛冶と医術で鍛えられた、何かを生み出し、何かを直すための手。
五秒。
十秒。
そっと、離した。
指が一本ずつ開いていく。最後に薬指が離れた。名残惜しそうに、空気を掴むように、それでも離した。
「直せないものも、あるんですね」
微笑もうとして、失敗した。唇が歪んで、でも涙はこぼさなかった。この子は最後まで泣かなかった。踵を返して、小走りに去っていった。
俺の手のひらに、温もりが残っていた。
夜。
学術院の地下、大魔法陣の部屋に一人で立っていた。
石の床に刻まれた複雑な紋様。メルティアが三日かけて調整した術式。明日の月の出で起動する。
目を閉じた。
この世界での記憶が、順番に浮かんでくる。
路地裏で蒼い瞳と目が合った朝。死んだ目の天才が本を胸に抱いた午後。赤い化け物が串焼きを食べて泣いた昼下がり。小さな手が俺の腕に触れた夕方。
四面楚歌の晩餐。鳥籠の告白。城壁の上の星。
全部、ここにある。俺の中に。消えない。何の代償もなく帰れるということは、この記憶を持ったまま、元の世界でこの痛みを抱えて生きるということだ。
元の世界には何がある。
エクセル。コンビニ弁当。六畳一間。誰にも呼ばれない名前。
ここには何がある。
俺の名前を呼ぶ四つの声。それぞれ違う声で、それぞれ違う温度で、同じ名前を呼ぶ。
目を開けた。
石の部屋に、自分の浅い呼吸の音だけが響いている。
明日、答えを出す。
四人の顔が浮かんで、消えない。




