第10話 ただいまの行方
「起動します」
メルティアの声が、石の部屋に反響した。
大魔法陣が淡い光を放ち始める。床に刻まれた紋様が一つずつ灯り、部屋全体が青白い光に包まれていく。
俺は陣の中央に立っていた。
懐にフィーネのナイフ。それ以外は何も持っていない。
部屋の入口に四つの影がある。
見送りに来たのだ。全員が。
セルフィーネは壁に背を預けて腕を組んでいる。私服のまま。剣はない。蒼い瞳が真っ直ぐこちらを見ている。泣いていない。泣かないと決めた顔だ。
メルティアが術式を制御している。手は正確に動いているが、唇が白い。噛みしめている。
ロゼッタは扉の横に立っている。腕を組んで、壁に背中を預けて、天井を見ている。こちらを見ない。見たら止めてしまうから見ないのだ。
フィーネが一番奥にいる。小さな身体を縮めて、両手を胸の前で握っている。琥珀色の瞳が光の中で揺れている。
光が強くなる。
足元から温かい風が吹き上げてくる。身体が軽くなり始める。次元の境界が薄れていく感覚。空気が甘くなる。元の世界の匂いがかすかに混じる。排気ガスとアスファルトの匂い。懐かしいはずの匂い。メルティアの理論は正確だった。このまま目を閉じれば、元の世界に還れる。
目を閉じた。
暗闇の中で、記憶が走馬灯のように流れた。
路地裏の蒼い瞳。図書館の死んだ目に灯った光。串焼きを食べて泣いた赤い瞳。触れてもいいですかと震えた声。
四面楚歌の晩餐。善意の鳥籠。城壁の上の星。手を握って、離した指先。
この世界に来る前の自分も見えた。
六畳一間。コンビニ弁当。エクセル。休日に鳴らない電話。年末の一人鍋。誕生日に届くのは企業のメールマガジンだけ。
あれが日常だった。あれが俺の人生だった。
悪くはなかった。苦しくもなかった。ただ、何もなかった。
目を開けた。
光が全身を包んでいる。あと数秒で転移が完了する。
四人が見えた。
セルフィーネが腕を組んだまま目を閉じた。耐えている。ロゼッタが天井から視線を落とし、初めてこちらを見た。赤い瞳が濡れていた。メルティアの手が震えている。それでも術式は止めない。これが彼女の誠実さだ。フィーネが唇を噛んで、握った手を胸に押しつけている。
四人とも、止めなかった。
放してくれた。
初めて人間扱いされた相手を、初めて名前を呼んでくれた人を、四人が自分の意志で手放した。
それが答えだった。
俺がこの世界に残る理由は、彼女たちに必要とされているからじゃない。彼女たちが、放してくれたからだ。放されて初めてわかった。俺はここにいたいのだと。
俺は、自分の足で魔法陣の外に出た。
光が乱れた。
術式が崩れ、紋様が一本ずつ消え、部屋が暗くなっていく。青白い光が名残のように宙を舞い、蛍のように散って、石の床に静寂が戻った。
四人が俺を見ている。
何が起きたのか理解できていない目が四つ。信じられないものを見る目が四つ。
「術式が——」メルティアが声を絞り出す。「なぜ。なぜ出たのですか」
「帰らないのか」ロゼッタの声がかすれている。
俺は四人を順に見た。
蒼い瞳。黒い瞳。赤い瞳。琥珀の瞳。
全員の目を、真っ直ぐ見た。
「帰る場所は向こうにある」
セルフィーネが息を呑んだ。
「でも、還る場所はここにあった」
沈黙が落ちた。
帰る。元の場所に戻ること。還る。自分が本来いるべき場所に戻ること。
この世界に来て、初めて誰かに名前を呼ばれた。初めて必要とされた。初めて「大事だ」と言えた。それは異世界だからじゃない。化け物と呼ばれた四人がいたからだ。
「お前たちが放してくれた。止めなかった。だから決められた」
フィーネの目から涙がこぼれた。堪えていたものが全部溢れて、声も出さずにぼろぼろ泣いている。
ロゼッタが天井を向いた。「馬鹿」と言ったが、声が割れて最後まで聞こえなかった。
メルティアが眼鏡を外して目元を押さえた。レンズが曇って前が見えないから。論理的な判断だ。
セルフィーネが一歩前に出た。
「なぜ」
「え?」
「なぜ帰らなかったのですか」
蒼い瞳が揺れている。答えを待っている。二十二年間、誰にも聞けなかった問いの答えを。
「決まってるだろ」
そう、答えは決まっていた。今、いうべき言葉も。
「お前たちといたいから」
単純な言葉だった。飾りも理屈もない。でもこれ以上正確な言葉を、俺は知らない。
セルフィーネの頬を、涙が一筋流れた。
この女が泣いたのを、初めて見た。蒼い瞳から溢れた一滴が、頬を伝って、顎から落ちた。拭わなかった。拭う必要がないと、初めて思えたのかもしれない。
***
それからの日々は、少しだけ変わった。
セルフィーネは護衛をやめた。代わりに隣を歩くようになった。半歩前でも半歩後ろでもなく、同じ速度で、同じ方向を向いて。
メルティアは俺のデータ管理をやめた。代わりに一緒に図書館で本を読む時間が増えた。「この本、面白いですよ」と差し出す手帳の代わりの一冊が、いつも的確に俺の好みだった。ときどき、読んでいる本の感想を話すと、死んでいた瞳がきらきら光る。あの図書館での最初の日と同じ光だ。
ロゼッタは俺の行く店を買い占めるのをやめた。代わりに二人で新しい屋台を開拓するようになった。「ここは?」「まずそう」「入ってみなきゃわかんないだろ」「あんたって冒険家気取りよね」。毎回同じやり取りをして、毎回笑う。
フィーネは俺専用の装備を作るのをやめた。代わりに工房で二人で作業する時間ができた。俺は鍛冶の才能が壊滅的にないが、ふいごを踏むくらいはできる。「もうちょっと強く」「これ以上やったら腕もげる」「大丈夫です、あとで治療しますから」。それは主治医の発言として正しいのだろうか。
所有が、共有に変わった。
鳥籠が、食卓に変わった。
ある日の夕方。五人で食卓を囲んでいた。
ロゼッタが手配した食材を、フィーネが調理し、メルティアが栄養バランスを監修し、セルフィーネが黙々と配膳した。役割分担は自然にできた。誰が決めたわけでもない。
串焼きもある。あの屋台の。もはや定番だ。
「化け物ばっかりの食卓だな」
俺が言った。
一瞬、四人が固まった。
それから、セルフィーネの口元がわずかに緩んだ。ロゼッタが鼻で笑った。メルティアが眼鏡を押し上げた。フィーネがくすくすと声を出して笑った。
四人が笑っている。声を出して。
かつて最も深い傷だった言葉が、この食卓では、もう誰も傷つけない。
「やっぱり、綺麗だよ。お前たち」
セルフィーネ「……まだ、その言葉には慣れない」
メルティア「統計的に、繰り返し聞けば慣れるはずなんですが」
ロゼッタ「か、からかってんじゃないわよ」
フィーネが涙目で笑いながら言った。
「ずっと、言ってくれますか?」
「ああ——何度でも」
五人の食卓は、少しだけ、この世界の常識からはみ出している。
でも、はみ出した場所にしか咲かない花もある。




