4-3.世界の外れで下意を叫んだ悪魔
子犬はその小さな図体で道を塞いでいた。確かに塞いでいた。
四角い通路の奥には、俺の欲する物があるというのに、その一歩手前で、この犬は尻尾を振っている。
豆粒のような尻尾だ。そんな可愛らしい尻尾を、今しかないというふうに、必死こいて振っている。
子犬が俺の足元をふんふんと嗅ぎ回る。ぺしっ、と俺の足に前足を置いた。瞬間、足に強い斥力が及んだ。足だけが吹っ飛ばされて、脚の付け根を軸にして、俺の体は半回転した。うつ伏せに床へ叩き付けられる。
子犬はぺろぺろと俺の頬を舐めた。
「わん!」
どこか懐かしい気配を感じる。俺はそっと、子犬を刺激しないよう立ち上がった。
「わん、わんわん! わん!」
ぐるるる、と小さい容姿ながらも獰猛に唸る。俺が後ろに下がると、また尻尾を振り出した。
ただ吹っ飛ばされるだけなら何度か強引な手段を試してみてもいい。しかし、ここは第九階層。かなりの高さがある。さっきのキャリバンみたく、最下層まで落ちれば、いくら身体能力を強化していると言っても、俺ではひとたまりもない。少なくとも無事では済まない。
「旦那」
後ろからキャリバンが声を掛けてきた。階段を駆け上がってきたらしい。
「時空の穴が開けねえよ」
「エーリアル除けの結界だ。落ちたらまた上がるしかない」
「こっから落ちたら旦那は」
「痛いな」
「じゃあ俺がそのわんちゃんをなんとかするぜ」
「気を付けろ」
俺は扉の後ろまで下がり、キャリバンが交代に進み出る。キャリバンの後ろ姿を見る。子犬とキャリバンは対峙して動かない。
キャリバンが伏せた。早業だ。子犬と同じくらいの目線だ。こっちから見ると尻を突き出してるようにしか見えなくて、情けないぞキャリバン。
「わん!」
犬が吠えた。
「わんわん!」
キャリバンが吠えた。
「わんわんわん!」
「わんわんわんわん!」
「わん!」
犬がキャリバンに前足を当てた。伏せた体勢のキャリバンが激しい摩擦音を立てつつ滑り、そして落ちていった。
ややあって、キャリバンが最下層から駆け上がってきた。
「旦那……!」
「あの犬がなんて言ってるかわかったか?」
「あの犬が可愛いってことくらいしかわかんなかったな!」
「お前も十分可愛いよ」
「へっ!? んな、なに言ってんだよ旦那」
「とにかく思うように続けてくれ。俺は見物してるから」
「……旦那、俺のこと馬鹿にしてないか?」
「さっきの行為を馬鹿じゃないと言えるならば謝ろう」
キャリバンは顔を赤くして、通路に歩み入った。子犬が立ち塞がる。
走り、キャリバンは危なげなく子犬を飛び越えた。だが事はそう易く終わらない。子犬は素早かった。逃げれば追い付かれる程度に。
子犬に飛び掛かられたキャリバンは、斜めに飛んで通路の壁に激突した。その隙に子犬はキャリバンの前に回り、後ろ蹴りをキャリバンにみまった。
キャリバンはさらに壁にぶつかり床に転がり、それでも勢いは止まらない。キャリバンは上手く立ち上がったが、そのときも勢いは止まらない。開け放した扉の外へ出て、外の通路の縁で踏み止まる。が、それでも体が仰け反った。
俺はキャリバンの背に腕を回して引き寄せた。俺に体を預け、ようやっと体勢の整ったキャリバンが息を吐く。
「ありがとよ、旦那」
「いや、役得だ」
「……なっ」
俺が堪能している事実に気付いたらしく、どん、とキャリバンが俺を突き飛ばした。その弾みに、キャリバンが縁から足を踏み外す。
「あ」
「すまん」
キャリバンは俺の視界から下にずれていって消えた。俺は最下層を覗いた。遠くて暗くてはっきりしないが、どうやら腰を押さえているようだ。
「今のは俺が悪かった!」
ほどなくして、キャリバンが駆け上がってきた。
「旦那ァ」
「怪我はないか?」
「ないけどよ、しかし、まったく……」
「すまんな」
「旦那はもっと清廉な人だと思ってたよ」
「幻滅させたか」
「ちょっとな。でも重要なところとは関係ない」
「お前も奇特な悪魔だな」
キャリバンは憂いの含む、ちょっと複雑そうな表情をした。そのまま通路に進む。
それからいくたびと通路の通過、子犬の捕獲を試みたが、いずれも失敗に終わった。
扉の前で座り込み、壁に背をもたれる。隣のキャリバンは流石に疲れた様子だ。
「キャリバン」
「なんだよ?」
俺に顔を向けたキャリバンは、にっと牙を見せた。
思えば、なにかを言おうとして呼び掛けたのだ、俺は。しかしなにを言うつもりだったか。感謝の言葉を言おうとした気もする。けれどもそれを、好奇心が食ってしまった。今の一瞬、キャリバンが俺に笑顔を見せた一瞬だ。こいつがここにこうしている不自然を、俺は無視できなくなった。
「疲れたか?」
「なに、どうってことねえよ」
「腹は減らないか?」
「海で食ったじゃねえか。それとも、なにか美味いもんでもあるのか?」
「目の前にある」
キャリバンの笑顔が固まった。
「考えてみれば、ここには俺とお前の二人きり。エーリアルの邪魔が入ることもない。今の俺じゃあ、全力で掛かってくるお前を倒すのは難しいだろう。今はお前にとって、千載一遇の好機にちがいない」
キャリバンは立ち上がった。また通路の奥に進もうとする。
「さあ、休憩は済んだし、もういっちょやるか」
「どうしてその機会を振ってまで、俺に協力する?」
俺は座ったまま、キャリバンを見上げた。立ち尽くすキャリバンの表情は暗かった。
「俺を試してんのか、旦那」
「ちがう。お前のことが気になっただけだ」
「俺は旦那に仇なした。旦那は俺を倒して、俺に恵んでくれた。旦那に従う理由としちゃ、十分すぎるぜ」
「恩なんて三日すぎれば忘れるもんだ」
「そう簡単に忘れるもんかよ」
キャリバンが通路へ進み、そして蹴り飛ばされて戻ってきた。ほとんど無抵抗に最下層へ落ちていく。ちらりと見えた表情は険しかった。
再びキャリバンが戻ってきたとき、キャリバンは倦んだ眼差しを俺に向けた。
「萎えちまったぜ、旦那。旦那が俺になにをしてほしいのかわかんなくなっちまった」
「どういう意味だ」
座り込む俺の前に屈んで、ぐっと顔を近付けてきた。キャリバンの手が俺の顔の横で壁に付く。
「この先の剣を取ってくるより前に、解決しなくちゃいけない問題があるんじゃねえか」
いつになく真剣なキャリバンの目は、俺の目を逸らさせた。
「ヴェルギリを持って、万魔殿に行き、エーリアルを解放して、人間界に戻る。なにも間違ってはいないだろう」
「ならなんで目を逸らすんだ」
「目を逸らしたわけじゃない。ただお前のおっ――」
ごちん、と頭突きをかまされる。額が痛い。キャリバンはそのまま力を込めて、俺の頭を壁と己の額に挟んで固定した。
「ミランダのことか? エーリアルのことか? エーリアルとは思えねえな。ミランダか」
「なんのことだ」
「ミランダとなにかあって、それでそんなしょげた面してるんだろ? 顔に書いてあるぜ。俺が悪いんだってな」
言われ、俺が真っ先に思い浮かんだのは、涙を流して叫ぶミランダの姿だった。俺が原因で泣かせてしまった。だが俺はどうすれば良かったっていうんだ。貴様、よくも裏切ったな。そう言ってミランダをぶてば良かったか? そうすればミランダは満足だったのか?
「もし、仮にだ――」
「おう」
「お前が俺を裏切ったとして、それを俺があっさり許したとしたら、お前はどう思う」
「いかにも旦那らしいな、と俺はそう思うぜ」
「俺に失望するか?」
「しない」
「俺に、罰して欲しかったと叫ぶか?」
「ああ、叫ぶかどうかはわかんねえが、無罪放免で捨て置かれるってのはきついかも知れねえな。俺なら自分への罰として酒絶ちするね」
「そうか」
俺はあのとき、ミランダを罰するべきだったのか。何故だ? ああ、そうか。俺とミランダの関係は、主従だった。少なくともミランダはそう思っていたし、事実としてそういう関係が成り立っていた。だが俺はそんなことまるで思わず、ミランダのことを居候や知り合い程度としか考えていなかった。だからきっとミランダは、俺に認めて欲しかったのだ。ミランダが俺の配下や従者であると。
俺がミランダにしたことは、ミランダの努力を全て叩き壊すようなことだった。部下の裏切りを主は見過ごしてはならない。咎めないということは、始めから部下と認めていなかったということ。己の懐に抱き込んでいないのだから、暴れてもなにも痛くない。
「キャリバン、ありがとう」
「ん」
「自分の馬鹿さがわかった」
「主君を諫めんのも家来の務めだ」
「感謝してる……ところでこの顔の近いのどうにかならんか」
「すまねえ!」
がばっとキャリバンは立ち、わしゃわしゃ額の辺りの灰色髪を掻きむしった。
「威圧するとき顔を近付ける癖があんだよ、俺」
声が少し上ずっていた。俺は立ち上がって、コートの埃を掃った。
「することがはっきり決まった。ミランダ、あの馬鹿、俺を魔界に引き込む手引きをしやがったから、一発シメてやる」
「おう」
「そのためにもまずヴェルギリだ。次からは俺とお前、同時に行くぞ」
「同時? でももし旦那が蹴られて、こっから落ちたら」
「虎穴に入らずんば虎子を得ず、だ。なあに、頑張れば死なないよ」
「本当か?」
「たとえ死ぬにしろやらなきゃならんのだ」
「剣を諦めて万魔殿に行くってのは?」
「自分の命の面倒は自分で見なきゃならん。相手の厚意を信じて死んだって、それは死んだ奴が馬鹿なんだ」
「あいよ」
俺はキャリバンの前に、腕を出した。キャリバンはきょとんとした表情でそれを見た。
「確実に終わらせたい」
「それで、この腕は?」
「俺の血肉を食えば、お前の力は一時的にでも増すはずだな」
「おい旦那それは――」
「俺は囮だ」
「そんなことできるわけねえだろ!」
「やるんだ、命令だ」
キャリバンは難しい顔をして呻いた。
「それにこれは褒美でもある」
「褒美?」
「ああ、俺を助けてくれたお前への褒美だ。お前が家来でいてくれて本当に助かった。ありがとう」
少しの間を置いて、キャリバンは顔を赤くした。耳まで真っ赤だ。潤んだ瞳をきょろきょろと、とりとめもなく視線を下げた。
「ほら、一齧りくらいなら食ってもいいから」
「馬鹿いうなよ、大怪我だろ」
「ならちょっとは容赦してくれ」
「容赦もなにも、それに、俺は、その、別に……」
徐々に声が尻すぼむ。
「遠慮すんなって。お前の力を上げる目的もあるんだから」
キャリバンのそわそわした動きが小さくなった。そして、深呼吸し、俺を見た。目が据わっていた。顔は赤いままだった。
キャリバンは俺の胸倉を掴んだ。俺は引き寄せられて、キャリバンは顔を俺に寄せ、キャリバンの口と俺の口が衝突した。
キャリバンにうなじの辺りを押さえられる。密着する唇と唇の間で、キャリバンの舌が俺の唇を舐めた。俺は困惑していたが、ともかくキャリバンの意思を尊重しようと、それを受け入れた。
荒っぽく、俺の舌をキャリバンが舐めていく。キャリバンの舌が触れた部分から、麻痺していくような感覚。その麻痺は同時に、よりキャリバンの舌に擦り付けたくなるような快感を伴っていた。
似たような感覚を、ミランダとの時も味わっている。そして案の定、ちりちりと焼け付くような疲労感が全身を焦がし始めた。精気を吸われているのだろう。
キャリバンは唇を離した。唾液の糸をさっと拭った。
「俺はな、淫魔の血は入ってねえけど、こういうことができんだよ。だから、食う必要はねえ」
悔しそうに拳を握り締めて、一本に結んだ口で、伏し目がちの涙目で、赤い顔で、キャリバンはそう言った。
「お前、それなのに今まで食うだの食わないだのやってきたのか?」
「だぁっ! こういうのは誰にでもするもんじゃないだろ! その、す、すす、好きぃ……な、奴と、する、もん、だろ……」
最後にはうつむいて、恥ずかしそうに言った。もじもじと体の前で手を組んでいる。
「お前やっぱり可愛い奴だな」
「うがぁ! んなこと言うな! ほら行くぞ! 剣を取ってくるんだろ!」
「ああそうだな。行くか」
そうして、ぶつくさ言うキャリバンを後ろに控え、俺は通路を塞ぐ番犬の前に立った。
「わん!」




