4-4.犬と悪魔、悪魔の剣、灼熱の悪魔。
魔剣ヴェルギリに至る通路を、幼な体躯で塞ぐ黒く尨な子犬は、耳に消え残る声でしきりに鳴き、近寄る者をその尋常ならざる力で撥ね退けるぞと、俺とキャリバンに警告していた。
「俺が先行する。そうすると多分、あの犬は俺を蹴り飛ばすだろう。その隙を突いて走り抜けろ。精気を吸って力が上がったお前なら、できるな?」
「できると思うぜ。けど旦那……」
「俺のことは気にするな。それじゃあ、三つ数えたら行くからな」
俺は身構えた。いつでも駆け出せるように。「一つ」子犬の視線は、毛に隠れて見えない。「二つ」子犬の真横に飛び掛かるつもりで。「三つ――」
全身全霊を以って、一歩目を駆け出した。子犬の真横。毛に隠れた小さな瞳が光る。子犬が斜め後方へと跳ねた。
俺と子犬が一直線に並び、避けようはない。子犬の前足が俺の胸へと飛び掛かる。
不意に後ろから押し退けられた。
咄嗟に振り向く。俺の代わりにキャリバンが、子犬の前足に掛かった。甚大な力がキャリバンを拒むように弾く。そして俺に背を向け無防備な子犬の居場所は空中だ。
思考ではない感覚的ななにか。電撃のようななにかが、俺の体を動かした。キャリバンを案じるより早く、次の行動を判断するより早く、俺は子犬に手を伸ばした。
「わん!」
「捕まえた!」
子犬の背を掴んだ。子犬は前足と後足をぱたぱたと動かすものの、俺の手を振り解けない。
キャリバンの方を見た。精気で力を上げた結果だろう、キャリバンは吹き抜けに落ちず、扉の辺りで踏み止まっていた。
キャリバンは申し訳なさそうに笑った。
「やったな旦那」
「なに考えてんだ。上手くいったから良かったものの」
「だってよ、旦那、俺が精気を吸ったから弱っちまってるだろ? それに、ここから落ちたら死ぬかもしれないって考えたら、気が気じゃねえよ。だったら俺が先に落ちてでも旦那を助ける」
納得はできない。だが理解はできる。俺の作戦が妥当だったかは微妙なところだ。それは認める。
「もっと俺を役立ててくれていいんだぜ。遠慮すんなよ」
「……そうだな。俺ももう少し冷静に作戦を考えるべきだった」
それでも納得いかないのは何故だ。キャリバンは物が上手く噛めないような笑顔で、頭を掻いた。その笑顔がどうにも期待外れのような感じに思える。普段は両手なのに見栄を張り、玉子を片手で割ろうとして失敗したときに似ている。
……良い格好がしたかった?
俺がこいつを相手にか。馬鹿馬鹿しい。お互いに柄じゃないだろう。
俺は反省と、もみくちゃになった感情を飲み込んで、子犬を見遣った。子犬はまだ忙しなく足を動かしている。
キャリバンが子犬に顔を寄せた。
「どうするんだ、こいつ」
「取り敢えず持っていくしかないか?」
疲れたのか、子犬は動くのを止めた。そして俺の手から子犬の感触が消え、瘴気の黒い霧だけが残った。
「あ、消えちまった!」
ひどく残念そうな声でキャリバンが言った。黒い霧は通路の奥へ吸い込まれるように消えた。
「あの犬、ひょっとするとヴェルギリかもしれん」
「えぇ?」
「行くぞ」
通路は一本道だ。突き当りに扉がある。開けると、三畳ほどの小部屋。そこに長方形の祭壇があり、一本の剣が突き刺さっている。
「わん!」
剣の手前にさっきの子犬が、尻尾をふりふり、ご機嫌だ。俺に跳び付くが、さっきのように飛ばされはしない。撫でくり回す。
「よしよし、良い子だな」
持ち上げて顔の近くにやると、ぺろぺろ舐められた。キャリバンが羨ましげに、横から覗いてくる。
「どういうことだよ?」
「ヴェルギリは元々持ち主を選ぶ剣だ。俺が人間になったから、人間になっても使い手たり得るか測りたかったんだろう。随分と試験は甘くしてもらったが」
キャリバンに子犬を渡すと、今まで見たこともないような、きらきらとした笑顔を浮かべた。胸にしっかりと子犬を抱いて、だらしなくえへえへ言っている。
俺は祭壇に刺さるヴェルギリを見た。
象牙色の美しい刀身は幅広で、緩やかな波を一つ描く片刃。柄と鍔には毛細血管のようななにかが、おどろおどろしくびっちりと纏わりつき、柄の中心部には巨大な眼球が埋め込まれたようにある。
俺とヴェルギリは見詰めあった。
「結局またお前を使うことになった」
巨大な眼球が瞬いた。それは瞼というより、肉と肉が重なりあったようだった。
「よろしく頼むぜ、相棒」
俺はヴェルギリの柄を握り、引き抜いた。瞬間、瘴気が溢れ迸り俺の体を包んだ。ついでに子犬も瘴気に戻り。
「あぁっ!」
キャリバンが悲痛な声を上げた。
残念そうに俺を見るキャリバン。俺の姿を見て呆気にとられた。俺としては微笑するしかない。
「その姿は?」
「昔の姿だな。ヴェルギリが気を利かせてくれた」
鏡もなにもないのではっきりしないが、おそらくそうだ。黒く角質化したような表皮は鎧のようで、その鎧の隙間は岩漿が流れているように赤く輝く。それを疑似的に再現してくれたようだ。
「この格好なら多少はったり効くかもな」
「なんか、顔に血管みたいなのが這い上がってるけど平気なのか? あれ、あの剣はどこいった?」
「俺の体の中だ」
ヴェルギリは使い手の肉体と一体化することができる。気色悪いと評判の能力だ。キャリバンは得体の知れないものを見る目だ。
「その剣、ほんとうに剣なのか?」
「鋭いな。どうやら剣の形態をした悪魔らしい。実際、剣となんら変わらんが」
俺は腕を振るった。エーリアル除けの結界ごと、時空が切り裂かれる。
「じゃあ万魔殿に乗り込むか」
「あいよ」
俺とキャリバンは時空の裂け目を潜り抜け、第三魔界のどこかに降り立った。
つるつるとした黒曜の地面。吹雪く火の粉。空を見上げる。雲一つなく晴れていた。うねる火の海を見上げているようだ。
「旦那、あれ」
キャリバンが指差す。彼方に岩山が燃えているような姿の猿がいた。中位悪魔といったところか。
「あいつ最近、ここいらで暴れてるマルシルラって悪魔だ。あいつが居るってことは、万魔殿はこっから西だ。いま時空の穴を開けっからちょっと待ってくり」
そう言ってキャリバンが時空の穴を開けた。俺たちの頭上を影が覆う。俺とキャリバンは咄嗟に跳び退いた。
岩石が降ってきたのかと錯覚する衝撃。空気が震える。目の前に燃え盛る巨大猿がいた。悪魔マルシルラだ。
マルシルラは問答無用で腕を振る。大波のうねりのような躍動感が大地を浚う。俺は跳躍して躱した。
「おいテメェ、死にてえのか」
キャリバンの冷酷な声がした。初対面のときのようだ。マルシルラはキャリバンに見向きもしない。
「テメェ!」
キャリバンが錨を取り出したそのとき、空からトカゲが降ってきた。
しかしトカゲというには、その姿はあまりに雄大で、どこか神秘的でさえあり、威厳に満ち、広げた両翼は神の降臨のようだった。空の火焔に透けて、翼膜が真紅に彩られる。ドラゴンだ。少し特殊な悪魔で、悪魔の中でもドラゴンという別枠に分類されている。下位のドラゴン、中位のドラゴン、高位のドラゴンと、悪魔と同じように分かれてはいるが、下位のドラゴンでも高位悪魔が手古摺るほどだ。その実力の証左に、マルシルラが下敷きになり、呆気なく首を折られて絶命している。
「旦那、気を付けろ!」
ドラゴンを挟んだ反対側で、キャリバンが叫んだ。ドラゴンの鋭い眼は俺を標的にしている。ドラゴンは燃え滾る口を大きく開いた。
辺り一面を溶岩の海に変えるような灼熱が噴き出た。
「くっ!」
規模があまりにも大きく、避けるのも間に合わない。ヴェルギリの力で、周囲に瘴気の障壁を作り出す。炎が収まると、俺の立っていた周りは全て赤く溶けていた。
「やむを得ないか……」
俺は自分の掌を見た。ぎょろりと眼球が出ていた。それが引っ込み、代わりに剣が出てきた。ヴェルギリの刃だ。
「旦那、無事か!?」
「お前は下がってろ!」
ドラゴンが咆哮し、俺に喰らい掛かってきた。ドラゴンの咆哮に負けじと、俺も吠える。ヴェルギリの瘴気を、濃く、鋭く、その刃に集中させる。
俺はヴェルギリを振った。空気が裂かれ、時空が断裂する。
ドラゴンの体は前のめりに倒れ、溶岩の海に半身を浸かった。ドラゴンの顎の上半分からあとは、その数瞬後に地に落ちた。
「どんなもんだ」
茫然として見るキャリバンに向かって言った。
「す、すごかったぜ……」
なんとか捻り出したようなその一言に、俺は得も言われぬ満足感を覚えて、刃を納めた。
「万魔殿に急ぐぞ」
「お、おう」
キャリバンは改めて時空の穴を開け、俺たちは万魔殿に向かった。




