4-2.魔界遊記
移動してすぐ、大蛇の姿をした悪魔に襲われた。造作もなくキャリバンが錨で叩き潰す。間髪入れずに巨大な蜂の姿をした悪魔が襲ってきた。俺は手刀で制した。
「まだまだ来るぜ」
周囲は炭化したような植物が茂る。草むらに潜むのは下位悪魔たちだ。魔界は瘴気の影響で、人間界のように生物が存在しない。植物は辛うじて生きているものの、瘴気の影響でこんな炭のような姿になる。食っても不味いし栄養にもならない。これを食って生き永らえる悪魔もいない。
悪魔というのは、瘴気の中から偶発的に生まれる存在だ。悪魔の食料は他者の精気、もしくは魂といったものだ。それらを食う方法は悪魔により異なる。血を啜ったり、肉を食らったりっていうのは共通だが、中にはミランダのように性行為で精気や魂を吸える者もいるし、手を翳すだけで十分なんて奴もいる。簡単な方法で精気や魂を食える悪魔ほど強い。精気や魂を食らえば、その魂の強さによって、自身の力を上げることができるからだ。
そして俺の周りに群がる悪魔たちは下位悪魔。血を啜り、肉を食らうことでしか魂を得ることができない。
「旦那、雑魚を蹴散らすのは結構なんだけどよ、きりがねえぜ。あんまり暴れると、万魔殿の奴らにも感づかれるだろうし……」
「ここからもう少し進めば目的の場所に着く。そこまで走るぞ」
群がり寄る動植物の姿をした悪魔を無視し、一心にひた走る。血眼の獣どもに追いかけられるのは、中々におぞましい。
「あった、ここだ」
「なんだよ、なんもねえぞ」
黒く脆い草があるばかりなのは先程の場所と変わりない。異なるのは、地面が膨らんだように盛り上がる一箇所だ。
「これが入り口なんだ」
「このもっこりしたのかが?」
「なにか切る物を持っていないか」
「なんで」
「俺の血が要るんだ」
キャリバンは時空の穴に手を突っ込んで、ごそごそやり出した。そして難しい顔をする。
「駄目だ、ねえな」
「なんでもいいんだがな」
「追ってくる悪魔にでも襲わせるか?」
「それは嫌だな……ああ、そうだ。お前でいいよ」
「へ? 俺?」
「指でいいからさ、ちょっと噛んでくれ。お前の歯って全部、牙だろ」
キャリバンは自分の口に手を当てて、黙り込んでしまった。その後ろから、追い駆けてきた下位悪魔たちが狂乱の体で迫ってくる。もうお腹が空いてしゃーないって面だ。
「あんまり迷ってる暇ないぞ」
キャリバンは片手で錨を投げた。錨は異空間に消え、そして現れ、消え……。縦横無尽に下位悪魔たちを襲った。俺たちにまで辿り着く悪魔はいない。
キャリバンはまだ考え込んでいる様子だ。
「どうしたんだ?」
「もし、もしだぜ、旦那。旦那の指を噛んだときに、うっかり血を飲んじまったとしても、それは不可抗力だよな?」
「ちょっとくらいは許そう」
「ほんのちょっぴりだぜ、そう、皮膚の一部くらいだ、肉片をいただいちまっても、それは不可抗力だよな?」
「ほんのちょっとだぞ! 全然わかんないくらいちょっとだからな!」
「うへへ、へ……」
キャリバンが口から手を離すと、涎まみれになった口元が現れた。
「キャリバンお前……」
「いやだってよ、しょうがねえだろ!? 旦那だって良い女がそういう素振りを見せたら起つだろ!」
「そういう下品なたとえは止めろ」
俺はキャリバンの前に、人差し指を突き出した。ちょっと寄り目になるキャリバン。くるくるとトンボにやるように旋回させると、指を追って視線が動いた。
「って遊ぶな!」
「わるいわるい」
改めて指を突き出すと、キャリバンはたじろいだ。
「いいのか……?」
「いいから。背景の下位悪魔たちが悲惨なことになってるから早くしてくれ」
恐る恐る、キャリバンが指先に唇を近付ける。ぬらついた唇に、爪先が振れる。キャリバンは目を瞑った。なにかを探るかのように、ゆっくりと指を口に含んだ。柔らかい唇と、ざらついた舌の温かくうねるような感触がくすぐったく気持ち良い。硬質な牙の感触は、俺の指が口に含まれているという事実をはっきり認識させた。そうすると不意に、背徳感か倒錯に似た、罪悪感めいたなにかが胸に去来する。キャリバンの顔、体、女らしい部分に目が行ってしまう。
そんな俺を戒めるように、ガリ、と、血管を押しひしぐ音がして、俺の皮膚は噛み切られた。思ったより痛い。
「キャリバン、もういい」
「んぅ……」
キャリバンは薄目を開けた。落ちた瞼の隙間から垣間見えた、忘我の瞳。ぞっとした。命の危険を感じた。本能が指を引こ抜こうとするのを、理性が必死に押し止めた。
いま指を引き抜けば、牙に掛かって傷口が広がる。血の匂いが強まれば、キャリバンは本当に理性を失くしてしまうかもしれない。いつぞやのミランダのように。
「キャリバン、聞こえてるか」
キャリバンは舐るのを止めない。必死に血を吸っている。
「キャリバン」
がっしと、キャリバンが両の手で、俺の手首を掴んだ。かなりの握力だ。引き剥がせそうにもない。そして、最後まで名残惜しそうに、口から指を引き抜いた。手首は掴んだまま。
「旦那」
興奮した吐息で、蕩けた眼差し。視線は、俺の顔から、首筋へ。キャリバンの口の端から、涎が流れた。
「すまん、俺、俺ァ……」
「この手、離せるか?」
ぎゅっと、キャリバンの握力が強まった。骨が折れそうだ。そして、キャリバンの手がゆっくりと開かれる。震えていた。そして手を組んだ。細い指に角が立つ。相当な力で組んでいるのだろう。
「すまねえ、旦那。すまねえ」
キャリバンの声に悲哀が混じる。表情にも。
「いや、俺が迂闊だった。お前は良く頑張った。ありがとうな」
「旦那……」
俺は涎にまみれた自分の指を見た。血が滲んでいる。その血を、地面の盛り上がった個所に垂らした。
周囲の空気が重苦しいものに変質する。乾いた木が圧し折れるような音が鳴る。空間にひびが入り、瘴気が噴出する。瘴気に囲まれ、時空を落っこちる感覚を味わう。瘴気が晴れると、砂色の遺跡の中に居た。
壁に刺さった松明が赤々と燃えている。暗闇に炎が瞬き、影の空間が揺れる。遺跡は俺とキャリバンの立つ広間から、九層の高さを持ち、各層に扉がある。天井までは吹き抜けで、上層に行くために外周の階段を上らなくてはならない。
「キャリバン、平気か?」
「……もうちょっと」
俺は指の切り口を舐めた。血が止まらないと、キャリバンが本調子を取り戻せそうにない。
「……もう大丈夫だ」
「本当か?」
「ああ。すまなかったな、旦那」
「気にするな」
キャリバンは遺跡を見上げた。
「で、ここはなんだよ?」
「前世でな、俺が人間になろうっていうとき、使っていた魔剣の一つをこの遺跡に置いておいたんだ。他の剣やらなにやらは誰かに譲っても良かったんだが、あいつだけは誰にも譲りたくなくてな。なんとなく」
言い終えてキャリバンを見ると、キャリバンが妙な表情をしていた。磁石のS極とS極が引き寄せ合ったのを見て、なにがなんだか分からないっていうような顔だ。喩えるなら。
「ど、どっちから訊いたもんかな。旦那、あんた、人間になりたくてなったのか?」
「そうだよ」
「どうして!? だってあんたは、魔界を七つも掌握したんだろ!? 紛うことなき、最強の悪魔だったんだろ!? なのにどうして人間なんかに……」
「自分のやってることの意味がわからなくなった後、人間に希望を見出したからだ」
「はあ?」
「ま、最近はそれも怪しくなってきたがな。他に訊きたいことは?」
「……ううん、えと、その、なんだ。まあいいや。もう一つ訊きたいんだけどよ、その誰にも譲りたくなかった剣って、エーリアルのことじゃねえのか?」
「むしろエーリアルは、誰かに引き取ってもらいたかった。俺の愛剣は最初っから、ここで眠るあいつ一振りだけだ」
唖然。唖然だ。キャリバンは唖然として俺を見ていた。
「それ本当か?」
「本当だ」
「エーリアルに言ってみてもいいか?」
「絶対ダメだ。やめろ、止せ、早まるんじゃない」
「あ、でもよ、俺の記憶じゃ、あいつは念視でずっとあんたのこと見てるって言ってたぜ。今の会話も聞かれたんじゃねえか?」
「それは心配ない。この空間は、エーリアルだけには絶対、なにがあっても見つけられないよう瘴気の魔王アリゲーリが、直々に、念入りに、結界を施したものだからな」
「なんでそんなこと」
「エーリアルにあいつが……魔剣ヴェルギリが破壊されないようにだ」
俺は歩き出した。キャリバンが隣を歩く。階段を上る。
「なんでエーリアルがその魔剣なんとかを壊すんだ?」
「嫉妬だよ。信じられるか? 剣が嫉妬で他の剣を壊そうとするんだぜ?」
「エーリアルらしいっちゃエーリアルらしいな……」
階段を上り、第二階層の通路を歩く。壁際の反対に手すりなどはないので、足を滑らせたら転落死の危険もある。高位悪魔や力のある中位悪魔ならなんてことないだろうが。
「別に俺だって、エーリアルを大事に思ってないわけじゃないんだ。あいつには世話になってるしな。だけど、それにしたって、なあ……。誰かに引き取ってもらいたいってのは偽らざる本音だ」
「苦労してんのか」
「今だって、かなり丸くなってあれだ」
第二階層の扉に差し掛かった。キャリバンが扉を指差す。
「この扉は?」
「それは罠だ。ヴェルギリは第九階層に置いてある」
「一番上か」
「この遺跡は魔界全体を模しているんだ。アリゲーリがヴェルギリを手にしたのは第九魔界。だから第九階層に置いたんだ」
「ふーん。そういえば旦那って、第何魔界の生まれなんだ? 第一とか、もしかして第二か?」
「第九だよ」
隣を歩いていたキャリバンが立ち止まった。驚いている。
「どうした?」
「悪魔ってのは、階層が深くなればなるほど強いって、迷信だったのか?」
「階層が深くなればなるほど瘴気が濃くなるから、強い悪魔しか生き残れなくなってくる、というのが正解か」
「ああ、なるほどな」
そんな世間話をぽつぽつしながら、俺たちは第九階層の扉に着いた。
「さあ、ここを開けて通路を進めば、ヴェルギリと再開だ」
「うし、行こうぜ!」
キャリバンが先行して扉を開けた。真っ直ぐに通路が続いている。しかし、見慣れぬものが扉を開けたすぐ先に待ち受けていた。
「わん!」
両手に納まりそうな、小さな犬だった。黒い毛並み。毛は長く、顔が隠れている。
「わ、かわいい!」
キャリバンが黄色い声を上げた。無警戒に子犬へ近寄る。
「待てキャリバン。俺はそんな奴しらな――」
弾かれたように、キャリバンが吹き飛んできた。そして俺の横を通り過ぎ、そして最下層へ落ちていく。
「わん!」
子犬は無邪気に吠えた。




