第7話 母の琥珀
「あと何回働けば、一万ルーンになるんだろう」
机に並べた硬貨を数え直し、俺は天井を見上げた。
もちろん、何度数えたところで金額が増えるわけじゃない。分かっているのに、さっきから同じことを繰り返している。
一月十日。旧グラン牧場の保証金を用意するため、倉庫の仕事を続けていたが、正式契約の期限が迫っていた。
収入は少しずつ増えている。それでも、宿代と食費、ガルドの飼料代を払えば、思うようには貯まらなかった。
「お金って、稼ぐのは大変なのに、なくなるのは早いんだな」
足元ではガルドが飼料の器を熱心に舐めている。もう空っぽなのに、まだ何か残っていると信じているらしい。
「ガルド、器に穴が開くぞ」
声をかけると、ようやく顔を上げた。ところが、俺が机に戻ろうとした途端、今度は鞄の中を覗き始める。
「そっちにもないからな。今日の分はちゃんと食べただろ?」
ガルドは鞄から顔を抜き、俺の膝に顎を乗せた。
その背中に、青い塊がくっついている。
ルルだ。
人見知りのルルは、まだ俺の手が近づくと逃げることがある。それなのに、ガルドの背中にはすっかり慣れたらしい。今日は移動中も、ほとんどそこから離れなかった。
「ルルまで食べ物を探してるわけじゃないよな?」
黒い二つの目がこちらを向く。俺が指を伸ばすと、ルルはガルドの首の陰へ隠れてしまった。
「そこまで逃げなくてもいいだろ」
ガルドは俺の膝に顎を乗せたまま、眠たそうに目を細めている。
まったく、こっちは金のことで頭がいっぱいだというのに。
俺は硬貨を袋へ戻し、母さんの育成日誌を開いた。
食事の記録と健康状態を確かめる。ガルドは食欲旺盛で、今のところ左翼の状態にも大きな変化はない。ルルについては、まだ分からないことが多いものの、水場を好むことと、ガルドのそばでは警戒が弱まることが分かってきた。
少しずつでも、二匹のことを知っていけるのは楽しかった。
ただし、楽しいだけでは暮らしていけない。
日誌の横には、旧グラン牧場の仮契約書が置いてある。
保証金、一万ルーン。
俺はその数字を見つめた。
もう少し時間があれば。
そう思っても、期限が延びるわけではなかった。
*
翌日、倉庫の仕事は朝から忙しかった。
荷車が何台も到着し、木箱や麻袋が次々に運び込まれる。俺は帳簿を片手に、荷札の番号と数量を確認していた。
「レオン! そっちの箱、数は合ってるか?」
「はい! でも、一つだけ荷札が違います!」
「またか。ちょっと見せてみろ」
責任者が近づいてきたので、記録の違う箇所を指さした。
「こっちの箱、帳簿では飼育用品になってますけど、荷札は工具です。置き場所を間違えたのかもしれません」
「なるほどな。よし、確認してくる」
男は近くの作業員に声をかけ、箱を調べ始めた。
俺は次の棚へ向かう。
最初は何をするにも時間がかかっていたが、少しずつ仕事の流れが分かってきた。荷物の置き場所も覚えたし、帳簿のどこを見れば間違いを見つけやすいかも分かってきた。
学校では実技試験に失敗した俺だけど、こうして役に立てることもある。
それは素直に嬉しかった。
昼の休憩になり、俺は持参した食事を取り出した。
倉庫の外では、作業員たちが楽しそうに話している。
「今日は仕事が終わったら肉でも食いに行くか!」
「いいな。給料も入ったし、たまには贅沢するか」
肉。
その言葉を聞いて、真っ先にガルドの顔が浮かんだ。
あいつがここにいたら、間違いなく会話に割り込んでくるだろう。もちろん、人間の言葉で話せるわけじゃない。きっと尻尾を振って、肉を持っている人の足元から動かなくなる。
想像しただけで笑いそうになった。
「どうした、レオン。何か面白いことでもあったか?」
隣に座った作業員が尋ねてきた。
「いえ、うちのガルドを思い出して」
「ああ、あの竜の子供か。ずいぶん食いしん坊なんだって?」
「もう大変ですよ。屋台の串焼きを勝手に食べて、三百ルーン払うことになったんですから」
「ははは! そりゃ災難だったな!」
笑いながら肩を叩かれた。
俺もつられて笑ったが、すぐに牧場の保証金を思い出した。
三百ルーンだって、今の俺には大事な金だ。
「でも、可愛いんですよ。帰ってくると迎えてくれるし、俺が何か食べてると必ず隣に来るし」
「そりゃ、食い物目当てじゃねえのか?」
「それもあると思います」
今度は二人で笑った。
けれど、俺は知っている。
ガルドは食べ物がないときでも、俺のそばへ来てくれる。仕事から帰ると、眠っていても顔を上げて迎えてくれる。
あの処分場で出会った日から、少しずつ変わってきた。
だからこそ、あいつが安心して暮らせる場所を作ってやりたかった。
*
仕事を終えたあと、俺は育成士協会へ向かった。
ガルドとルルを迎えに行くと、二匹は休養スペースの敷物の上で並んでいた。
正確には、ガルドが横になり、その背中にルルが乗っている。
「お前たち、また一緒に寝てたのか」
ガルドは俺に気づくと身体を起こそうとしたが、左翼をかばってゆっくり姿勢を変えた。
「急がなくていいよ。ちゃんと迎えに来たから」
俺がしゃがむと、ガルドは額を押しつけてきた。
ルルはその勢いで背中から滑り落ち、敷物の上をころころ転がった。
「あっ、ルル!」
手を伸ばすより早く、ルルは丸い身体に戻った。
そして、何事もなかったようにガルドの後ろへ隠れる。
「大丈夫そうだな。びっくりしたよ」
二匹の様子を確かめてから、受付へ向かった。
女性職員は俺の顔を見るなり、いつもの調子で声をかけてくれた。
「レオンさん、お仕事お疲れさまでした」
「ありがとうございます。あの、一つ相談してもいいですか?」
「もちろんです」
俺は鞄から仮契約書を取り出した。
「旧グラン牧場のことなんですけど、保証金がまだ足りなくて」
女性は書類を確認した。
「正式契約の期限が近いですね」
「はい。仕事は続けているんですけど、生活費もかかるので、どうしても一万ルーンに届かないんです」
「そうですか」
女性は少し考えてから尋ねた。
「ほかに、資金を用意できる方法はありませんか?」
「今のところ、倉庫の仕事くらいしか……」
答えながら、俺は鞄を見た。
中には母さんの育成日誌が入っている。
そして、服の内側には、もう一つ大切なものがあった。
琥珀の首飾り。
母さんからもらった、俺にとって特別な品だ。
指先で服の上から触れたものの、すぐに手を離した。
「レオンさん?」
「いえ、何でもありません」
女性はそれ以上尋ねなかった。
「無理に契約を進める必要はありませんよ。大切なのは、ガルドたちが安全に暮らせることですから」
「はい。分かっています」
正しいことだと思う。
けれど、あの牧場を諦めたくなかった。
*
宿へ戻ると、俺は机の上に琥珀の首飾りを置いた。
小さな琥珀が、灯りを受けて柔らかく光っている。
母さんがくれたものだ。
まだ幼かった頃、母さんはこの首飾りを俺の首にかけながら、少し長い紐を調整してくれた。
『大きくなっても使えるようにしておいたからね』
そう言って笑った顔を、今でも覚えている。
俺は首飾りを手に取り、琥珀を指でなぞった。
父さんに追い出されたときも、これだけは置いてこなかった。
母さんの育成日誌と、この首飾り。
どちらも、俺にとっては金額をつけられないものだった。
「質屋、か」
町には品物を預けて金を借りられる店がある。
学校でも、生活に関する授業で仕組みを習ったことがあった。
品物を売るわけではない。期限までに借りた金と利息を返せば、預けた品物を取り戻せる。
ただし、返せなければ失う可能性がある。
俺は首飾りを握った。
母さんの思い出を金に換えるなんて、考えたくもなかった。
けれど、今のままでは牧場の保証金を払えない。
ガルドのために安全な住まいを用意したい。
ルルにも、水場のある落ち着いた環境を作ってやりたい。
そのために、俺は何ができるだろう。
「ガルド、ちょっと来てくれるか?」
声をかけると、毛布の上で休んでいたガルドが顔を上げた。
俺のそばまで来ると、机の上の首飾りに興味を示した。
「これは食べ物じゃないぞ」
思わず言ってしまった。
ガルドは琥珀を見つめたあと、俺の手を嗅いだ。
「母さんからもらった、大事なものなんだ」
もちろん、言葉の意味は分からないだろう。
それでも、ガルドは俺の手に鼻先を寄せ、そのまま動かなかった。
ルルも近づいてきたが、俺の顔を見るとガルドの脚の陰へ隠れた。
「ルルも気になるのか?」
青い身体が少しだけ顔を出す。
俺は首飾りを二匹に見せた。
「これを預ければ、牧場の保証金を用意できるかもしれないんだ」
口にした途端、急に現実味が増した。
質屋へ行けば、必ず必要な金額を借りられるとは限らない。首飾りの価値も、返済条件も、まだ何も分かっていない。
それに、借りられたとしても返さなければならない。
牧場を借りれば月々の使用料も発生する。
仕事を続け、生活費を払いながら、首飾りを取り戻すための金まで貯める必要があるのだ。
簡単な話じゃない。
俺は首飾りを机へ戻し、しばらく眺めていた。
*
夜が更けても、なかなか眠れなかった。
ガルドは毛布の上で身体を丸め、ルルは用意した水場の近くで休んでいる。
二匹の寝息や小さな水音を聞きながら、俺は母さんの育成日誌を開いた。
何となくめくったページに、昔読んだ言葉が残っていた。
『魔物のために何かをしてあげたいと思ったら、まずその子が本当に必要としているものを考えてみてね』
俺はそこで手を止めた。
ガルドに必要なのは、立派な飼育小屋だろうか。
ルルに必要なのは、広い水路だろうか。
もちろん、どちらもあれば嬉しい。
でも、それだけじゃない。
安心して眠れること。
毎日きちんと食べられること。
怪我をしたら治療を受けられること。
そして、嫌なことを無理やりさせられないこと。
俺が作りたいのは、そういう場所だった。
旧グラン牧場は、まだ傷んだ建物ばかりだ。
それでも、少しずつ直していけば、二匹が暮らせる場所になるかもしれない。
俺は日誌を閉じた。
それから、首飾りを手に取った。
「母さん、ごめん」
小さな声が漏れた。
けれど、すぐに首を振る。
まだ失うと決まったわけじゃない。
質屋へ預けても、必ず取り戻せばいい。
簡単にできることではないけれど、最初から諦めるつもりもなかった。
俺は首飾りを布に包み、鞄の奥へしまった。
明日、質屋へ行こう。
まずは査定してもらい、借りられる金額と返済条件を確かめる。
納得できなければ、別の方法を考える。
けれど、条件が合うなら。
俺は、この首飾りを預けるつもりだった。
*
翌朝、一月十一日。
まだ町の店が開き始めたばかりの時間に、俺は鞄の中身を確かめた。
母さんの育成日誌。
仮契約書。
そして、布に包んだ琥珀の首飾り。
どれも忘れてはいけないものだ。
「ガルド、今日はちょっと大事な用事があるんだ」
ガルドは食事を終え、満足そうに器の前へ座っていた。
ルルはその隣で身体を揺らしている。
「お前たちは協会で休んでいてくれ。終わったら迎えに行くから」
ガルドが俺の鞄へ鼻先を寄せた。
「今日はおやつじゃないぞ」
そう言うと、ガルドは残念そうに顔を離した。
俺は思わず笑った。
どれだけ大事な用事があっても、こいつは変わらないらしい。
二匹を協会の休養スペースへ預け、俺は商業区へ向かった。
冬の朝は冷たく、通りにはまだ人が少ない。
歩きながら、何度も鞄の中の首飾りを確かめそうになった。
けれど、途中からは触らないことにした。
決めたはずなのに、触れるたびに迷ってしまいそうだったからだ。
やがて、質屋の看板が見えてきた。
俺は店の前で立ち止まり、深呼吸をした。
この首飾りを預けるのは、母さんとの思い出を捨てるためじゃない。
いつか必ず取り戻すために、今だけ手放すんだ。
そう自分に言い聞かせ、俺は店の扉へ手を伸ばした。




