第6話 飛べない竜の才能
「ルル、そこは寝床じゃないぞ」
朝、目を覚ますと、青いスライムが俺の水筒の上に乗っていた。
蓋のくぼみに身体をぴったり収め、まるで最初からそこに住んでいたような顔をしている。いや、顔というほど表情があるわけじゃないけれど、黒い二つの目が妙に得意げに見えた。
「水が好きなのは分かった。でも、それは飲み水を入れるものだからな」
そっと水筒を持ち上げると、ルルは慌てて床へ飛び降り、ガルドの毛布の陰に隠れた。ガルドはまだ眠っている。左翼を圧迫しないよう身体を横にしているせいで、毛布が片側だけ大きく盛り上がっていた。
一月九日。ルルが俺たちについてきてから、初めての朝だ。
宿の主人には昨夜、スライムが一匹増えたことを説明した。水をこぼさないこと、部屋を汚さないこと、ほかの客を驚かせないこと。注意事項が増えたが、今のところ泊めてもらえている。
「よし。まずは朝ご飯だな」
ガルドの耳が動いた。
「起きてたのかよ」
さっきまで眠っていたはずなのに、食事の用意を始めると目を開ける。ルルも毛布の陰から覗いていたが、俺が顔を向けるとすぐに引っ込んだ。
昨日、協会で食性を確認するよう言われたばかりだ。ルルには安全だと確認できたものだけを用意し、量や食べ方を見ながら記録しておく。ガルドにはいつもの飼料を分けた。
「ガルド、ルルの分は取るなよ」
そう言うと、ガルドは自分の器を抱えるように前脚を置いた。
「いや、そっちを守れって意味でもないんだけど」
ルルが器へ近づくまで待っている間、俺は母さんの育成日誌を開いた。食べた量だけじゃなく、食後の様子も見ておくこと。学校で習ったことでも、実際に二匹を相手にすると忘れそうになる。
今日は倉庫の仕事の前に、旧グラン牧場の様子を少し見に行く予定だった。管理担当者から許可をもらった範囲だけだ。仮契約中だから、住み始めることも勝手に修理することもできない。
「寄り道ばかりしてると遅刻するな。急いで片づけよう」
ガルドは器を空にして、もう次を期待している。
「おかわりはなし。食べ終わったら休憩!」
まったく、俺の言葉をどこまで理解しているのやら。
*
牧場へ続く道は、昨日の雨でところどころ湿っていた。
ガルドの歩幅に合わせて進み、坂の途中で一度休む。ルルは最初こそガルドの頭に乗っていたが、揺れるのが気に入らなかったのか、今は俺たちの後ろをぽよぽよ跳ねていた。人が通るとすぐガルドの脚の陰へ隠れるくせに、道端の水たまりを見つけると真っ先に飛び込む。
「お前、怖がりなのか大胆なのか、どっちなんだ?」
ルルは水たまりから顔を出しただけだった。
旧グラン牧場の門に着くと、俺は持ってきた手帳を開いた。前回の見学で確認した危険な床や柵には近づかず、今日は外から水路と飼育小屋の位置を見直す。
「ガルドが休む場所は家の居間がいいかな。でも大きくなったら飼育小屋も必要だよな」
指で見取り図をなぞりながら考えていると、ガルドが急に顔を上げた。
「どうした?」
彼は俺の声には答えず、門の外の道へ目を向けている。遠くから荷車が近づいていた。まだ姿は木立に隠れているのに、ガルドは前脚を地面に置いたまま動かない。
やがて、がらがらという車輪の音が聞こえ始めた。
「荷車か。飼料でも積んでるのかな」
ガルドは俺を見ず、耳を少し後ろへ倒した。
第3話の帰り道でも、荷車を長いこと見ていた。あのときは飼料の匂いが気になるのだと思ったが、今日は風向きも違う。まだ荷台の中身は見えない。
俺は手帳の端に小さく書いた。
『荷車が近づく前から反応』
もちろん、これだけで特別な能力があるとは言えない。音が先に届いただけかもしれないし、俺が気づかなかった匂いを嗅いだ可能性もある。
「もう少し見てみるか」
*
荷車が通り過ぎると、ガルドは何事もなかったように草を嗅ぎ始めた。
「切り替え早いな」
俺は手帳を閉じかけたが、ふと思いついて足元の小石を拾った。ガルドの翼に負担をかけないよう、動かすのではなく反応を見るだけにしよう。
「ガルド、ちょっと付き合ってくれるか?」
ガルドは俺の手を見た。石を食べ物だと思ったのか、鼻先を近づけてくる。
「食べないぞ、これは」
安全な平地でガルドを休ませ、少し離れた土の上に小石を落とした。
こつっ。
ガルドは振り向かなかった。
もう一度、今度は少し大きな石を同じ場所へ落とす。ガルドは耳を動かしたが、顔は上げない。
「うーん。音には反応してるのかな」
何度も繰り返すのはやめた。嫌がらせになるし、これでは何を感じ取ったのか分からない。
そのとき、ルルが水路の方から戻ってきた。泥のついた小枝を身体の上に乗せ、懸命に運んでいる。昨日と同じだ。途中で小枝が落ちると、ルルはしばらく固まってから、また持ち上げようとした。
「手伝おうか?」
俺が近づくと、ルルは小枝を置いてガルドの後ろへ隠れた。
「ごめん、ごめん。自分でやりたいんだな」
ルルは少し待ってから戻り、もう一度小枝を押し始めた。
ガルドはその様子を見ていたが、突然、前脚を踏み替えた。俺も足元を見る。地面がわずかに震えた気がした。
次の瞬間、丘の向こうから荷車の車輪が石に乗り上げる音がした。
「あれ?」
俺は道の方へ目を向けた。別の荷車が来るらしい。まだ見えない。
ガルドはまた、前脚を地面につけたままじっとしている。
さっきの小石には大して興味を示さなかったのに、遠くの荷車には二度も反応した。
もしかして、音だけじゃなくて、地面を伝わる揺れを感じている?
学校では、地面の振動に敏感な魔物がいると習った。ただ、竜種の幼体なら誰でもできるという話ではないし、ガルドが何を感じているかはまだ分からない。
「確かめたいけど、無理に試すのは違うよな」
俺はしゃがみ、ガルドの前脚を見た。本人はもう道から目を離し、ルルが運んでいる小枝に興味を移している。
「お前には、俺の知らないことがまだまだあるんだな」
ガルドは小枝を鼻でつついた。ルルが驚いて身体を縮める。
「こら、手伝うなら邪魔しない!」
二匹の間に手を入れると、ガルドは小枝から顔を離した。ルルは小枝を抱えるようにして、さっさと水路へ戻っていく。
なんだか、怒られたのは俺の方みたいだ。
*
協会へ戻ったあと、俺はガルドの様子を女性職員に相談した。
「荷車が見える前から、地面に前脚をつけて反応することがあったんです。振動を感じているのかもしれません」
女性は手帳を受け取り、俺の書いた記録に目を通した。
「なるほど。でも、今の段階では断定できませんね。音や匂いに反応した可能性もありますから」
「やっぱり、そうですよね」
「ただ、こういう小さな違いに気づくのは大切ですよ。いつ、どこで、何が起きたかを続けて記録してみてください」
俺は頷いた。学校の試験では、決められた課題に正しい答えを出すことばかり考えていた。けれど、ガルドと暮らしていると、答えが一つに決まらないことの方が多い。
「それと、ガルドの翼のことも忘れないでくださいね。能力を確かめようとして、走らせたり急に動かしたりするのは避けましょう」
「はい。今日は歩く距離も抑えました。あとは休ませます」
女性はガルドの様子を確かめ、休養スペースへ案内してくれた。ルルもついていこうとしたが、知らない職員が通りかかると俺の靴の陰へ飛び込んだ。
「お前はガルドのそばに行きたいんだろ?」
俺が道を空けると、ルルは職員が通り過ぎるのを待ち、ガルドの隣へ跳ねていった。
「本当に仲がいいですね」
「俺にはまだ逃げるのに、ガルドには遠慮がないんですよ」
「時間をかければ、レオンさんにも慣れるかもしれませんよ」
女性は笑って、二匹の休養場所を確認してくれた。
俺は倉庫の仕事へ向かう前に、手帳をもう一度開いた。
『ガルド。荷車が近づく前に反応。振動感知の可能性。未確認』
書き終えたところで、ガルドが俺の方を見た。琥珀色の瞳は、相変わらず食べ物を探すときと同じくらい真剣だ。
「今日の仕事が終わったら迎えに来るよ。帰りにおやつを買うかどうかは、まだ決めてないからな」
ガルドの尻尾が動いた。
「そこだけ聞き取るの、ずるくないか?」
ルルはガルドの隣で丸くなり、俺が笑うと一度だけ身体を弾ませた。
飛べないことばかり気にしていた俺は、ガルドが地面の上で何を感じているのか、まだほとんど知らない。
今日見つけたのは、才能と呼ぶには小さすぎる手がかりだ。けれど、確かめる価値はある。
俺は手帳を鞄にしまい、倉庫へ向かった。次に荷車が通るときは、俺も足元の揺れをよく確かめてみよう。




