第5話 水路の小さな住人
「ガルド、そこは入っちゃ駄目だ!」
俺が呼ぶより早く、ガルドは水路の縁で踏みとどまった。鼻先には枯れ葉が一枚張りついている。取ってやろうと手を伸ばすと、今度はその葉を食べようと口を開けた。
「それも駄目。お前、食べ物かどうか確かめてから口に入れような」
ガルドは葉を取り上げられたのが不満なのか、俺の手をじっと見た。昨日までの串焼き騒動を思い出す。屋台の主人に払った三百ルーンは、財布にも俺の記憶にも痛い出費だった。
一月八日。旧グラン牧場の仮契約を結んで二日が経った。
保証金一万ルーンは、まだ用意できていない。今日は管理担当者の許可をもらい、危険な建物には近づかず、水路の外側から状態を調べに来ていた。正式に借りられたとしても、どこを直す必要があるか分からなければ、仕事で稼いだ金の使い道さえ決められない。
水路には泥が溜まり、石の継ぎ目から草が伸びていた。流れを塞ぐ小枝を見つけ、俺は手帳に位置を書き込む。井戸も水路も検査が済んでいないから、飲み水には使えない。
「まずは水を運ぶ方法から考えないとな。飼育小屋も直したいし、畑も……」
言いながら、俺は鉛筆を止めた。やりたいことだけなら、いくらでも書ける。金額の欄は空白のままだ。
そのとき、水路の底で青いものが揺れた。
「ん? 魚じゃないよな」
泥の陰から現れたのは、俺の両手に収まりそうな小さなスライムだった。透き通った青い身体に、黒い点のような目が二つ。水面から半分だけ姿を出し、こちらを見ている。
ガルドが興味を持って一歩近づくと、スライムは石の裏へ引っ込んだ。
「怖がらせたかな。少し離れよう」
俺はガルドと一緒に後ろへ下がり、草のない場所に腰を下ろした。ガルドはまだ水路が気になるらしく、前脚を揃えてじっと待っている。
やがて青い身体が再び現れた。こちらを見る。隠れる。また覗く。まるで、見つかっていないつもりで隠れんぼをしているみたいだ。
「お前の方が気になってるんじゃないか?」
ガルドの背中を軽く撫でると、彼は水路から目を離さずにいた。
俺は母さんの育成日誌を開いた。スライムは種類によって食べ物も住みかも大きく違う。水辺で暮らすものもいるが、青いからといって同じ種類とは限らない。日誌を読んでも、目の前の個体のことまでは分からなかった。
顔を上げると、スライムはもう石の縁まで来ていた。
「おお、結構近い」
声に驚いたのか、青い身体がきゅっと縮む。俺が黙っていると、少しずつ元の丸さに戻った。
そのまま石をよじ登り、ガルドの前に止まる。二匹はしばらく見つめ合っていたが、次の瞬間、スライムが跳ねた。
ぽすっ。
ガルドの鼻先に青い塊がくっついた。
「えっ、そこに乗るのか!」
ガルドは寄り目になって鼻の上を見ようとした。首を振りかけたので、俺は慌てて声をかける。
「待った、翼に響く! そのままでいいから」
スライムは鼻先から滑り、今度はガルドの頭へ乗った。ガルドは頭上を確かめようと目だけを動かしている。なんとも間の抜けた顔だ。
「お前たち、初対面だよな?」
笑いをこらえきれずにいると、スライムが俺の方を見た。俺が手を出しかけただけで、すぐガルドの角の陰に隠れる。
「はいはい、俺はまだ駄目か。分かったよ」
ガルドには大胆なのに、人間には用心深いらしい。俺は無理に触ろうとせず、二匹の好きなようにさせた。
*
昼前、スライムは水路に戻っていった。
俺が石組みの傷みを記録していると、小さな枯れ葉が水面から押し上げられた。青いスライムが身体で葉を支え、縁の石に置いている。次は小枝。その次も、引っかかっていた葉だった。
「もしかして、流れの邪魔になるものを運んでる?」
水路全体がきれいになったわけじゃない。泥は残っているし、濁りも変わらない。それでも、同じ場所から何度も小さなごみを運び出しているのは確かだった。
俺はその行動も手帳に書いた。掃除を始める前に、この子が普段どこで暮らしているか調べた方がよさそうだ。
「勝手に全部掘り返したら、お前の家まで壊すかもしれないもんな」
スライムは返事の代わりに水へ潜った。ガルドが水路へ身を乗り出しかけたので、俺は安全な位置へ呼び戻す。彼の左翼は、ちょっとした動きでも負担になる。
昼食にしようと鞄を開けると、ガルドが真っ先にやってきた。
「さっきまで水路に夢中だったのに。ご飯の時間だけは見逃さないんだな」
持参した飼料を決めた量だけ器に移す。ガルドは置き終わるのを待ってから食べ始めた。屋台の一件から、少しは我慢を覚えてくれたのかもしれない。
水路の縁で青い身体が揺れた。スライムがガルドの器を見つめている。
「お前も食べたいのか?」
飼料を分けようとして、手を止めた。何を食べる種類か分からないのに、竜用の飼料を与えるわけにはいかない。
「ごめんな。今度、協会で調べてくるよ」
スライムは俺の声に身を縮め、水へ戻った。ガルドは食事を終えると、水路の近くに座って待っていた。しばらくしてスライムが顔を出すと、ガルドは鼻先をそっと下げる。青い身体が触れても、今度は驚かなかった。
*
午後の確認を終え、俺は手帳を鞄へしまった。
「ガルド、そろそろ帰ろう。今日はよく付き合ってくれたな」
ガルドが歩き出したので、水路に向かって手を振る。
「またな。次に来るときも会えたらいいな」
石の上のスライムが一度だけ跳ねた。
ところが、門へ向かって歩き始めると、背後から柔らかい音が続いた。
ぽよん、ぽよん。
振り返れば、青いスライムがついてきている。俺が止まると向こうも止まり、歩けばまた跳ねてくる。
「まさか、一緒に来たいのか?」
スライムはガルドの前脚へ寄り添った。俺がしゃがむと慌てて後ろへ隠れたくせに、ガルドが動き出すと急いで追いかける。
「ここがお前の住みかなんだろ? 戻ってもいいんだぞ」
俺は水路を指さした。スライムはそちらを見て、少し迷うように動きを止める。それからガルドの隣へ戻り、前脚にぴったりくっついた。
俺は頭をかいた。ガルドだけでも生活費は大変だ。もう一匹の食事や安全まで引き受けられるのか、自信はない。けれど、この子を無理やり水路へ戻しても、またついてくるかもしれなかった。
「分かった。まず協会に相談しよう。契約はしないし、帰りたくなったら帰っていい。それでいいか?」
スライムはガルドの陰から顔を出した。俺の言葉を理解したとは限らないが、離れる様子はなかった。
*
協会の受付で事情を説明すると、女性職員は俺の足元を覗き込んだ。
「今度はスライムですか。レオンさんの周りは賑やかになりますね」
「俺もびっくりしてます。ガルドと遊んでいたと思ったら、帰るときまでついてきて」
「契約はしていないんですね?」
「はい。自由同行について相談したくて」
女性は浅い水皿を用意し、スライムが自由に動ける場所へ置いた。俺とガルドが少し離れると、スライムは水皿へ入り、しばらく身体を浸していた。
だが、やがて水から出て、ガルドの方へ跳ねてきた。俺の足元では一瞬ためらったものの、そのまま通り過ぎてガルドの前脚へくっつく。
「なるほど。この子はガルドのそばがいいようですね。ただ、一度の反応だけで、ずっと同行したいと判断はできません」
「分かっています。嫌がったら引き止めません」
女性は担当者と記録を確認し、しばらくして戻ってきた。
「継続して意思と健康状態を確認する条件で、自由同行を認められます。発見した水路にほかの個体がいないかも、今後確認してくださいね」
「ありがとうございます!」
「それと食事です。種類が分かるまで、ガルドの飼料をそのまま与えないように」
「はい。水路でも欲しそうにしてたんですけど、何を食べるか分からなくて」
「その判断でいいですよ。生活環境も含めて、一つずつ確認しましょう」
女性が記録用紙を取り出す。
「この子には名前がありますか?」
「まだです。水路ではずっとスライムって呼んでました」
俺はガルドの足元にいる小さな青い身体を見た。ガルドには遠慮なく飛びつくくせに、俺の手にはなかなか近づかない。怖がりなのか大胆なのか、まだよく分からない子だ。
「ルル、ってどうかな」
呼びかけると、スライムは身体を伸ばした。
「ルル」
今度は小さく跳ね、俺の靴先へ触れた。手を差し出すと一度引っ込んだが、俺が動かずに待っていると、少しずつ近づいてきた。
ひんやりした身体が、指先に乗る。
「よろしくな、ルル」
その途端、ガルドが鼻先を突っ込んできた。ルルは驚いて俺の手から跳び、またガルドの頭へ着地する。
「お前たち、そこが定位置になりそうだな」
ガルドは頭の上を見ようとして目を動かし、ルルは角の間にすっぽり収まった。女性職員まで笑っている。
俺は二匹を眺めながら、鞄の中の仮契約書を思い出した。
まだ保証金も払えていない古い牧場。傷んだ家屋に飼育小屋、泥の溜まった水路。やることは昨日より増えたし、今度はルルの食事まで考えなければならない。
それでも、水路でガルドの鼻に飛びついた小さな青い姿を思い出すと、置いてくればよかったとは思えなかった。
「帰ろうか、ガルド。ルルも、ついてくるならゆっくりな」
ガルドが歩き出すと、ルルはその頭の上で身体を揺らした。
協会の扉を出たところで、ガルドが焼き肉の匂いに反応して足を止める。俺が先回りして屋台との間に立つと、ルルは角の陰へ隠れた。
「ガルド、今日は駄目だぞ。三百ルーンの失敗は一回で十分だからな」
ガルドは名残惜しそうに屋台を見たあと、俺の方へ戻ってきた。
その頭の上から、ルルがひょっこり顔を出す。
「ルル、お前まで食いしん坊にならないでくれよ」
もちろん返事はない。けれど、ガルドが再び歩き始めると、ルルは落ちないよう角に身体を寄せた。
宿へ帰ったら、まず二匹の食事と休む場所を考えよう。ルルには水も必要だ。明日は仕事の合間に、協会で食性をもう少し詳しく聞いてみたい。
あの古い牧場を借りられたら、水路も勝手に埋めたりせず、ルルが安心して過ごせる場所にできるだろうか。
俺は鞄の肩紐を掛け直し、二匹と一緒に夕暮れの通りを歩いた。




