第2話 魔物が選んだ育成士
処分番号七十二
今日の日没に命を終えるはずだった幼竜は、今も俺の右手に小さな前脚を重ねていた。
窓の向こうでは冬の夕日が傾き、処分場の石床に長い影を落としている。管理人が協会へ連絡してから、どれほど時間が経っただろう。手の甲に浮かんだ紋様はすでに強い輝きを失っていたが、幼竜の前脚には同じ形の光が残っていた。
「……疲れただろ。もう休んでいいんだぞ」
声をかけても、幼竜はなかなか前脚を離そうとしなかった。俺が手を引くと琥珀色の瞳で追いかけ、もう一度差し出せば、確かめるように鼻先を押しつけてくる。
その仕草が何を意味するのか、俺にはまだ分からない。
ただ、処分場に入ったばかりの頃、こちらを警戒して身体を丸めていた幼竜が、自分から近づいてきてくれるようになった。それだけでも、俺にとっては大きな変化だった。
「……なあ。俺を選んだって、本当なのか?」
幼竜は首を傾けた。
答えが返ってくるとは思っていなかった。それでも尋ねずにはいられなかった。
俺は今朝、育成士の名門アシュベル家を追い出されたばかりだ。試験に失格し、父さんからは育成士に向いていないと言われた。
そんな俺を、目の前の幼竜が選ぼうとしている。
もし管理人の言う《逆契約》が本物なら、学校の教本でしか知らなかった出来事が、今まさに俺たちの間で起きていることになる。
「……変わった奴だな、お前」
思わず笑うと、幼竜は鼻を鳴らした。
そのとき、処分場の奥から足音が近づいてきた。
「待たせたな、少年。協会の職員が到着したぞ」
管理人の後ろには、落ち着いた雰囲気の女性と、記録用の道具を抱えた男性が立っていた。
女性は俺の右手を見た途端、足を止めた。
「……本当に、紋様が残っているんですね」
男性も隣から覗き込み、驚いたように目を見開いた。
「教本の図と似ています。ですが、まさか実物を見ることになるとは……」
「逆契約なんでしょうか?」
俺が尋ねると、女性はすぐには答えなかった。
「可能性はあります。ただ、私たちも実例を見るのは初めてなんです。まずは、何が起きたのか確認させてください」
女性は俺の前にしゃがみ、目線を合わせた。
「レオン・アシュベルさんですね。処分場から連絡を受けました。契約と保護に関する確認を担当しています」
「はい。よろしくお願いします」
「最初に一つだけ。あなたから、この子に契約を申し込みましたか?」
「いいえ。引き取りたいとは言いましたけど、契約の呪文も道具も使っていません」
「では、紋様が現れたのは?」
「この子が、自分から俺の手に前脚を重ねたときです」
女性は幼竜へ視線を移した。
幼竜は俺の足元で身体を丸め、見慣れない二人を警戒している。女性が少し近づくと、傷ついた左翼をかばうように身体を傾けた。
「……怖がらせてしまいましたね」
女性はそれ以上近づかず、手を引いた。
「この子の意思を確かめる必要がありますが、無理に動かすわけにはいきません。まずは落ち着けるようにしましょう」
俺は幼竜の隣にしゃがんだ。
「大丈夫。俺もここにいるから」
幼竜は鼻先を俺の手へ寄せた。
その様子を見た女性は、少しだけ表情を和らげた。
「あなたがそばにいると、落ち着くようですね」
「そうだったら嬉しいです」
「では、今の状態を記録してから、協会で詳しく確認しましょう」
男性職員が記録板を開いた。
その横で、管理人が処分予定の書類を差し出す。
「この個体は、本日の日没に処分予定でした。手続きは現在保留しています」
女性は書類を受け取り、日付と識別番号を確認した。
「七十二番……。輸送事故による左翼の骨格損傷と神経損傷。治療歴あり、飛行不能……」
記録を読み進めるうちに、彼女の眉がわずかに寄った。
「この状態で、契約の紋様が現れたんですね」
「はい」
「分かりました。契約の確認が終わるまで、処分手続きの保留を継続してください」
管理人が頷いた。
俺は思わず女性を見た。
「……この子、助かるんですか?」
「まだ正式な引き取りが認められたわけではありません。でも、確認をしないまま処分することはありません」
その言葉を聞いて、ようやく肩の力が抜けた。
幼竜は俺の足元で、小さく鼻を鳴らした。
*
協会の確認室には、契約記録を調べるための道具が用意されていた。
幼竜は左翼に負担がかからないよう、柔らかい敷物の上で休んでいる。移動の途中も何度か身体を起こそうとしたが、そのたびに傷ついた翼が揺れ、痛そうに動きを止めていた。
俺は敷物の隣に座り、持参した水筒を取り出した。
「水、飲めるか?」
幼竜は鼻先を近づけたものの、すぐには口をつけなかった。
職員に確認してから浅い器へ少量を移すと、ようやく舌を伸ばし始める。
夢中で飲むというより、何度か休みながら少しずつ口にしていた。
「喉、渇いてたんだな」
水を飲み終えた幼竜は、器の縁を名残惜しそうに舐めたあと、俺の膝へ鼻先を押しつけてきた。
「もう空っぽだよ」
器を傾けて見せると、幼竜は中を覗き込み、残念そうに鼻を鳴らした。
その様子が少しおかしくて、俺は笑ってしまった。
「お前、結構欲張りなのかもな」
すると幼竜は、俺の旅鞄にまで鼻を近づけ始めた。
「いや、そこには食べ物なんて…あ、干しパンがあったか」
慌てて鞄を引き寄せる。
幼竜は琥珀色の瞳で、俺の手元をじっと追っていた。
「これは俺の分だし、お前に食べさせていいものかも分からないからな」
そう言い聞かせると、幼竜は不満そうに鼻を鳴らした。
食べ物の話になると、ずいぶん反応がいい。
傷ついていても、こういうところは普通の幼い魔物と変わらないのかもしれない。
「お待たせしました」
女性職員が戻ってきた。
後ろには、記録用の道具を抱えた男性職員がいる。
「これから契約の確認を始めます。ただし、途中でこの子が嫌がったり、身体に負担がかかったりした場合は中断します」
「分かりました」
女性は椅子を引き寄せ、俺の正面に腰を下ろした。
「レオンさん、逆契約について学校ではどこまで習いましたか?」
「魔物の方から人間を選ぶ契約だと習いました。でも、詳しいことはほとんど。先生も実物を見たことがないと言っていました」
「そうでしょうね。私も初めてですから」
女性は苦笑したあと、幼竜を見た。
「普通の契約なら、人間から申し込んで、魔物が承諾するでしょう? 逆契約は、その最初の働きかけが反対なんです」
「…この子が、俺を選んだってことですか?」
「それを、これから確かめます。ただし、紋様が現れたからといって、何でも認められるわけではありませんよ」
「というと?」
「あなたはまだ無資格ですよね。契約が確認できても、育成士資格を取得したことにはなりません。生活環境や安全管理については、協会が継続して確認します」
俺は頷いた。
「それから、契約は魔物を自分の物にすることではありません。この子には、この子自身の意思があります。財産に関する権利も失いません」
「……はい。それは分かっています」
「よかった。では、始めましょうか」
男性職員が机の上に記録用の道具を置いた。
俺は指示された位置へ右手を乗せる。
手の甲に残っていた紋様が、ゆっくり光り始めた。
「…反応しています」
男性職員が記録を取りながら言った。
「紋様の形状を確認します。レオンさん、そのまま動かさないでください」
細い光が道具の表面を走り、複雑な模様を描いていく。
幼竜の前脚にも、同じ光が現れた。
「一致していますね」
「ええ。ただ、これだけでは契約の種類を断定できません」
女性職員は幼竜の前にしゃがんだ。
「次は、この子自身の意思を確認します」
俺は幼竜を見た。
琥珀色の瞳が、こちらを向く。
「…なあ」
名前を呼ぼうとして、まだ名前がないことを思い出した。
「俺と一緒に来たいのか?」
幼竜は首を傾けた。
「俺はまだ育成士じゃないし、立派な家もない。ちゃんとした寝床だって、これから探さなきゃいけないんだ」
女性職員たちは黙って見守っていた。
「それでも、もし一緒に来たいなら……俺は、お前と暮らす方法を探したい」
幼竜は俺を見つめたまま、しばらく動かなかった。
俺も手を伸ばさずに待った。
この子が何を望んでいるのか、俺の《共鳴》だけでは分からない。だからこそ、行動を確かめたかった。
やがて幼竜は、敷物の上で慎重に身体を起こした。
「無理するなよ」
声をかけると、一度こちらを見上げたものの、動きを止めようとはしなかった。
左翼をかばいながら右の前脚を持ち上げ、俺の手へ伸ばしてくる。
小さな爪が、手の甲に触れた。
その瞬間、二つの紋様が強く輝いた。
「……!」
確認室の壁に淡い光が広がる。
男性職員が慌てて記録を確認した。
「双方の紋様が同時に反応しています。形状も一致。人間側からの契約申請操作は確認されません!」
女性職員は幼竜の前脚を見つめたまま、慎重に問いかけた。
「この人と契約したいという意思を、もう一度示してくれますか?」
幼竜は女性の顔を見た。
それから、俺へ視線を戻す。
一度、前脚を引いた。
俺は思わず息を止めた。
もしかして、嫌だったのだろうか。
だとしたら、無理に続けるわけにはいかない。
そう考えた直後、幼竜は俺の手の甲へ、もう一度前脚を重ねてきた。
今度は、自分から。
「……確認できました」
女性職員が言った。
男性職員も記録を見直し、ゆっくり頷く。
「逆契約の成立条件に一致しています」
俺は二人を交互に見た。
「それって……」
女性職員は姿勢を正した。
「レオン・アシュベルさん。あなたとこの幼竜の間に成立した《逆契約》を、協会の記録上でも確認しました」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……本当に?」
「はい。この子は、自分自身の意思であなたを選びました」
俺は幼竜を見た。
小さな前脚が、まだ俺の手の上にある。
今朝、家を追い出されたときには、こんなことが起こるなんて考えもしなかった。
育成士学校の試験に失敗した俺を、父さんは必要ないと言った。
それなのに、目の前の幼竜は俺を選んだ。
立派な育成士でも、優秀な成績を収めた生徒でもない。ただの無資格の少年を。
「……ありがとう」
ようやく、それだけ言えた。
幼竜は俺の声に反応して顔を上げた。
「俺を選んでくれて、ありがとう」
そっと頭を撫でると、幼竜は目を細めた。
嬉しいのか、安心しているのか、それとも単に撫でられるのが気持ちいいのか。
正確には分からない。
けれど、俺の手を避けることはなかった。
女性職員が記録板を閉じる。
「おめでとうございます。ただし、ここからが大切ですよ」
「……はい」
「契約は終わりではありません。この子が安心して暮らせるように、これから生活環境を整えていかなければなりません」
俺は頷いた。
珍しい契約が成立したからといって、翼の怪我が治るわけではない。
食費がなくなるわけでも、住む場所が手に入るわけでもない。
むしろ、今まで以上に考えなければならないことが増えた。
それでも、俺は不思議と後悔していなかった。
*
「ところで、レオンさん。この子の名前は決まっていますか?」
登録手続きが一段落した頃、女性職員が尋ねた。
「名前、ですか?」
「はい。処分場の記録には識別番号しかありませんでした。以前から呼ばれていた名前が確認できないので、本人の反応を見ながら考えてみてはいかがでしょう」
俺は幼竜を見た。
土色の鱗に、琥珀色の瞳。小さな角と、まだ成長途中の身体。
傷ついた左翼をかばいながらも、自分の意思で俺のところへ歩いてきた竜。
「……名前か」
考えてみれば、俺はこの子をずっと「お前」と呼んでいた。
処分場では七十二番。
協会の記録でも、今のところは幼竜としか呼ばれていない。
これから一緒に暮らすなら、ちゃんと名前で呼びたい。
「強そうな名前がいいかな。それとも、もう少し可愛い方が……」
幼竜は俺を見上げた。
何かを期待しているようにも見えるが、単に俺の声が気になるだけかもしれない。
「……ガルド」
ふと、その名前が浮かんだ。
「ガルドって、どうかな?」
幼竜の耳がぴくりと動いた。
「ガルド」
もう一度呼んでみる。
すると幼竜は、俺の膝へ鼻先を寄せてきた。
「……気に入った?」
返事の代わりに、小さく鼻を鳴らす。
女性職員が微笑んだ。
「少なくとも、嫌がる様子はありませんね。名前を理解しているかどうかは、これからの反応も確認していきましょう」
「はい。何度か呼んでみます」
俺は幼竜の前にしゃがみ直した。
「ガルド」
琥珀色の瞳がこちらを向く。
「これからよろしくな」
差し出した手に、ガルドが鼻先を寄せてきた。匂いを確かめるように指を嗅ぎ、最後にぺろりと舐める。
「うわっ、くすぐったいって!」
俺が手を引くと、ガルドは不思議そうに首を傾けた。その顔があまりにも真剣だったので、思わず笑ってしまった。
「お前、案外いたずら好きなのかもな」
女性職員も笑みを浮かべたが、すぐに記録板へ目を戻した。
「では、登録名はガルドとして手続きを進めます。ただし、レオンさん。名前が決まったところで、もう一つ確認しなければならないことがあります」
「飼育環境のことですよね」
「ええ。それと健康管理です。処分場の記録では左翼の骨格と神経に損傷があります。炎症や痛みが落ち着いたとしても、元の損傷が治ったことにはなりません」
俺はガルドの左翼へ視線を落とした。身体の脇に折り畳まれた翼は、反対側と比べて明らかに形が違っている。姿勢を変えるだけでも負担がかかるらしく、ガルドは右側へ体重を寄せていた。
「今は飛べないんですよね」
「はい。少なくとも現在の状態では飛行できません。成長後の変化まで断定はできませんが、今は無理に翼を動かさず、地上で安全に暮らせる環境を整えることが先決です」
「分かりました。定期的な診察も必要ですよね」
「もちろんです。食事も成長期に合ったものを用意してください。竜種は身体が大きくなりますから、食費も今後の負担として考えておく必要があります」
食費。
その言葉に、俺は思わず財布の入った鞄へ目を向けた。
今朝、家を出たときに持っていたのは五千ルーン。それだけで宿を探し、自分の食事を用意し、ガルドの飼料まで買わなければならない。
しかも、翼の治療費も必要になる。
「……仕事を探さないと」
考えていたことが、つい口から出た。
「お仕事ですか?」
「はい。今の俺には、この子と暮らしていけるだけの収入がありません。育成士の資格もないので、できることは限られていますけど……」
女性職員は少し考えてから、机の引き出しを開けた。
「協会には無資格者向けの仕事を紹介する窓口がありますよ。危険な魔物を扱う仕事はできませんが、倉庫での荷物整理や記録の補助などなら応募できます」
「本当ですか?」
「ええ。ただし、仕事が見つかってもガルドの世話を後回しにはできません。預け先や休養場所も含めて考える必要があります」
「はい。それはちゃんと考えます」
女性は一枚の案内用紙を差し出した。
俺はそれを受け取り、鞄へしまった。
「ありがとうございます。明日、相談してみます」
「それから、今夜の宿は決まっていますか?」
「……まだです」
答えた途端、ガルドが俺の鞄に鼻先を押しつけた。
「おい、今は宿の話だぞ」
ガルドは鞄から離れようとしない。どうやら、さっき見つけた干しパンの存在を覚えているらしい。
女性職員がその様子を見て笑った。
「食べ物に興味があるようですね」
「さっきからずっとなんです。何か食べさせたいんですけど、勝手に人間の食事をあげるのも怖くて」
「その判断でいいですよ。まずは幼竜に適した飼料を確認しましょう。食欲があること自体は悪いことではありませんが、身体の状態に合った食事が大切ですから」
俺が頷いている間にも、ガルドは鞄の口を覗こうとしていた。
「こら、ガルド。そこには何もないって」
いや、干しパンはある。
俺がそう思った瞬間、ガルドの鼻先がさらに奥へ伸びた。
「……お前、もしかして匂いで分かってるのか?」
ガルドは何食わぬ顔で俺を見上げた。
先ほどまでの緊張した確認室が、少しだけ賑やかになった。
*
協会を出たときには、冬の夕暮れが町を包んでいた。
紹介された宿は商業区の外れにあるらしい。俺は案内用紙の地図を確かめながら、ガルドの歩幅に合わせて進んだ。
石畳の通りには仕事帰りの人々が行き交い、店先では夕食の支度が始まっている。炭火で焼かれる肉の匂いや、温かなスープの湯気が冷たい空気に混じっていた。
ガルドは初めて見るものが多いのか、何度も足を止めた。荷車の車輪を眺めたり、店先に積まれた木箱の匂いを嗅いだり、そのたびに琥珀色の瞳を忙しく動かしている。
ただ、歩く速度は遅かった。
左翼をかばっているため、身体を大きく動かすことができない。少し進んでは休み、ガルドが自分から歩き始めるのを待つ。
「疲れたら、無理しなくていいからな」
俺が声をかけると、ガルドは短く鼻を鳴らした。
そのまま数歩進んだところで、今度はぴたりと足を止めた。
「……どうした?」
ガルドの視線を追う。
通りの向こうに、串焼きを売る屋台があった。
焼き上がった肉を主人が皿へ移すと、ガルドの鼻がひくひくと動いた。
「……お前、まさか」
ガルドは俺を見上げたあと、再び屋台へ顔を向けた。
尻尾がゆっくり左右に揺れ始める。
「いや、待て。まだお前に何を食べさせていいのか、ちゃんと確認してないんだから」
そう言い聞かせても、ガルドは肉から目を離さない。
俺は財布の中身を思い出した。
五千ルーン。
そこから宿代も食費も払わなければならない。仕事を見つけるまでは、無駄遣いをする余裕なんてない。
「……ガルド。明日から、俺も頑張って働くからな」
ガルドが顔を上げた。
「お前のご飯代も、治療費も、ちゃんと払えるようになりたいんだ」
言いながら、少しだけ不安になった。
学校では魔物の栄養管理について何度も勉強した。必要な飼料の種類や、成長に合わせた食事の調整方法も習っている。
けれど、教本に書かれた数字と、自分の財布から出ていく金額は違う。
俺一人の生活さえ決まっていないのに、竜を育てていけるのだろうか。
ガルドはそんな俺の心配など知らない様子で、もう一度屋台を見た。
「……お前は本当に食べ物が好きなんだな」
俺が苦笑すると、ガルドは嬉しそうに尻尾を振った。
その反応に、少しだけ気持ちが軽くなった。
少なくとも、この子には食べたいものがあり、興味を持つものがある。
処分場の冷たい床で、ただ日没を待っていた幼竜とは違う。
これから先、ガルドがどんなものを好きになり、何を嫌がり、どんなふうに成長していくのか。
俺は、それを近くで見ていたかった。
「……まずは宿だな。明日は仕事も探さないと」
ガルドは俺の隣へ戻り、ゆっくり歩き始めた。
*
通りを抜ける頃、俺は右手の甲に残った紋様を見た。
《逆契約》。
魔物が自分の意思で人間を選ぶ、極めて珍しい契約。
協会の職員でさえ実例を見たことがないというその契約が、無資格の俺と、飛べない幼竜の間に成立した。
父さんに追い出された今朝のことを思い出す。
あのとき、俺には何も残っていないと思っていた。
育成士学校の試験に失格し、家族からも認められず、これからどう生きていけばいいのかさえ分からなかった。
けれど、ガルドは俺を選んだ。
それがなぜなのか、今も分からない。
ただ一つ確かなのは、この子が自分から前脚を差し出してくれたということだった。
「……なあ、ガルド」
名前を呼ぶと、琥珀色の瞳がこちらを向いた。
「俺、まだ立派な育成士じゃないけどさ」
ガルドは首を傾けた。
「いつか、お前が安心して暮らせる場所を見つけたいんだ。怪我をしていても、飛べなくても、無理に強くならなくてもいい場所を」
口にしてみると、ずいぶん大きな目標だった。
今夜泊まる宿さえ決まっていない俺が、竜の暮らせる場所を作りたいなんて。
それでも、今度は簡単に諦めたくなかった。
「……一緒に頑張ってくれるか?」
ガルドはしばらく俺を見つめていた。
そして、ゆっくり鼻先を伸ばし、俺の右手へ触れた。
契約の紋様は光らなかった。
けれど、冷たい鼻の感触は確かに伝わってきた。
「……よろしくな、ガルド」
俺が笑うと、ガルドは小さく鼻を鳴らした。
その直後だった。
ぐうううっ。
足元から、妙に大きな音が聞こえた。
「……ん?」
ガルドを見る。
ガルドは何食わぬ顔で俺を見上げていた。
「……お前、さっきからずっとお腹が空いてるのか?」
尻尾が勢いよく動いた。
俺は思わず額を押さえた。
「分かった、分かったよ。まずはちゃんと食べられるものを探そう。でも、勝手に食べるのは駄目だからな」
ガルドは俺の言葉をどこまで理解したのか、嬉しそうに鼻を鳴らしている。
俺はその頭を撫で、宿へ向かって歩き始めた。
極めて珍しい逆契約が成立した。
学校の教本でしか知らなかった出来事が、本当に俺たちの間で起きたのだ。
けれど、その特別な契約が、今日の夕食を用意してくれるわけではない。
ガルドのお腹が、もう一度鳴った。
「……お前、少しは遠慮してくれよ」
そう言いながらも、俺は笑っていた。
明日からは仕事を探そう。
この食いしん坊の幼竜が、安心して腹いっぱい食べられるように。
そしていつか、二人で帰れる場所を見つけよう。




