第1話 捨てられた幼竜
「処分番号、七十二。引き取り希望者なし。処分予定は本日の日没だ」
管理人が読み上げた記録には、名前の代わりに番号が書かれていた。
鉄格子の向こうにいたのは、土色の鱗を持つ小さな竜だった。
竜といえば、大空を飛び回り、鋭い爪と牙で獲物を仕留める強大な魔物だ。育成士学校の教本にも、その優れた身体能力や危険性について詳しく記されている。
けれど、目の前の幼竜は、そんな印象からはほど遠かった。
痩せた身体を冷たい石床に横たえ、琥珀色の瞳だけをこちらへ向けている。背中には左右一対の翼があったが、左側だけが不自然な角度に曲がり、身体の下へ押し込まれていた。
「……この子、どうしたんですか?」
俺が尋ねると、管理人は記録板から顔を上げた。
「輸送中の事故だ。左翼の骨格と神経を損傷している。治療は受けたが、飛行能力の回復は見込めないという診断だ」
「飛べないんですか?」
「ああ。竜種としては大きな欠点だな。維持費も高い。引き取り希望者が来ても、状態を説明すると帰ってしまう」
管理人は淡々と答えた。
ここは町外れにある魔物処分場。飼育を放棄された魔物や、保護期間を過ぎても引き取り手の見つからない魔物が集められる施設だ。
俺は鉄格子の前にしゃがみ、幼竜と目の高さを合わせた。
近くで見ると、思っていた以上に小さい。鱗の隙間には古い傷跡が残り、前脚の爪もところどころ欠けている。
幼竜は俺の動きを目で追っていたが、少し身じろぎしただけで、傷ついた翼をかばうように身体を丸めた。
「……痛いのか?」
返事はなかった。
「おい、少年。あまり近づくなよ。幼体でも竜種の顎は強い。弱っているからといって安全とは限らないぞ」
「分かっています。勝手には触りません」
そう答えながら、俺は無意識に鞄の肩紐を握り直した。
今朝、父さんに家を追い出されたときも、こうしていた気がする。
*
『アシュベル家に、失格者を置いておく理由はない』
父グレイヴの言葉が、まだ耳に残っている。
育成士学校の試験結果を報告した俺に、父さんは一枚の書類を突き返した。
結果欄には、赤い文字で《失格》と記されていた。
「もう一度だけ、挑戦させてください」
「お前は何も分かっていない。育成士は結果を出す仕事だ。魔物を休ませることばかり考えて、どうする」
「でも、あの子は限界でした。あのまま続けていたら……」
「試験官が続行を認めていた。それでもお前は自分の判断を優先した。結果がこれだ」
父さんは書類を机に置いた。
「兄のアルヴィンを見習え。あいつは技術も判断力も身につけている。お前と違ってな」
言い返せなかった。
試験で失格になったのは事実だし、俺の判断が本当に最善だったのかと問われれば、今でも迷いがある。
それでも、訓練を続ける魔物が見せた苦しそうな様子だけは、忘れられなかった。
結局、父さんは俺に家を出るよう命じた。
十四年間暮らした屋敷を出るとき、持っていけたのは旅鞄一つ。着替えと母さんの育成日誌、それから琥珀の首飾りを持って、俺は町へ向かった。
財布には五千ルーン。
今夜泊まる場所も、明日からの仕事も決まっていない。
そんな俺が魔物処分場の門をくぐったのは、掲示板に貼られた《処分番号七十二・幼竜》という募集票が気になったからだった。
竜種なのに、引き取り希望者がいない。
その理由を確かめたかった。
そして今、俺は鉄格子の向こうにいる幼竜を見つめている。
*
「この子、名前はないんですか?」
管理人に尋ねると、男は記録板を確認した。
「登録されていないな。識別番号だけだ」
「ずっと番号で呼ばれていたんですか?」
「少なくとも、ここではそうだ」
俺は幼竜を見た。
飛べない。引き取り手もいない。名前すら記録されていない。
けれど、だからといって、この子自身に価値がないわけではない。
「……少しだけ、中に入ってもいいですか?」
管理人は眉を寄せた。
「噛まれても責任は取れないぞ」
「無理に触りません。嫌がったらすぐに離れます」
男はしばらく俺を見ていたが、やがて鍵を取り出した。
「五分だけだ。危険だと思ったらすぐ出てもらう」
鉄格子が開いた。
俺は幼竜を驚かせないよう、ゆっくり中へ入った。
冷たい石床には薄い敷物が一枚あるだけだった。幼竜は首を持ち上げ、警戒するように俺を見つめている。
俺は少し離れた場所に腰を下ろした。
「こんにちは。俺はレオンっていうんだ」
幼竜は動かなかった。
「いきなり入ってきて、ごめんな。触ったりしないから、安心してくれ」
言葉がどこまで通じているのかは分からない。それでも、手を膝の上に置き、幼竜が落ち着くのを待った。
母さんの育成日誌には、初めて接する魔物について、こんなことが書かれていた。
『怖がっている子に必要なのは、優しい言葉だけじゃないの。逃げられる距離と、自分で選べる時間をあげること』
幼い頃は、その意味がよく分からなかった。
でも、今なら少し理解できる。
知らない人間が突然近づいてきたら、怖いに決まっている。しかも、この幼竜は翼を傷つけている。逃げようとしても、思うように身体を動かせないかもしれない。
「……俺もさ、今日、家を追い出されたんだ」
気づけば、そんなことを話していた。
幼竜の耳がわずかに動いた。
「育成士になりたかったんだけど、試験に失敗してさ。父さんには向いてないって言われた」
琥珀色の瞳が俺を見つめている。
「まあ、結果を出せなかったのは本当なんだけど……」
俺は言葉を探した。
学校では、魔物の能力を引き出すことの重要性を何度も教えられた。
強い魔物を育てれば、育成士の評価も上がる。大会で勝てば名声を得られるし、優秀な血統の魔物を育てることは名門の誇りにもなる。
それ自体が間違っているとは思わない。
でも、目の前の幼竜はどうなるのだろう。
「……飛べない竜には、価値がないのかな」
幼竜の耳が動いた。
「俺は、そうは思わないよ」
そう言ったものの、俺に何ができるのかは分からなかった。
この子が必要としているのは、きれいな言葉じゃない。食事と、治療と、安心して休める場所だ。
今の俺には、そのどれも十分に用意できない。
幼竜はしばらく俺を見つめていたが、やがて右の前脚をゆっくり動かした。
小さな爪が床を引っかく。
身体が、ほんの少しだけこちらへ近づいた。
俺は反射的に手を伸ばしかけ、途中で止めた。
近づいてきたからといって、触れてほしいとは限らない。
手のひらを上に向け、幼竜から少し離れた床へ置く。
「……怖かったら、来なくていいからな」
幼竜は俺の手を見つめた。
しばらく動かなかったが、やがて鼻先を伸ばしてきた。
冷たい鼻が、指先に触れる。
思わず声を上げそうになった。
幼竜はすぐに顔を引っ込めたものの、逃げようとはしなかった。
「……ありがとう」
俺がそう言うと、幼竜はもう一度、鼻先を近づけてきた。
今度は指先の匂いを確かめるように、ゆっくり鼻を動かしている。
くすぐったくて、思わず笑ってしまった。
「そんなに変な匂いがするか?」
幼竜は首を傾けた。
その仕草が妙に幼くて、初めて会ったときの痛々しい印象とは少し違って見えた。
傷ついた翼は変わらない。
それでも、この子には好奇心がある。知らない相手を警戒しながら、自分から確かめようとする気持ちがある。
俺はもう少し、この幼竜のことを知りたいと思った。
そのときだった。
胸の奥に、かすかな感覚が生まれた。
言葉ではない。
はっきりした意味も分からない。
ただ、目の前の幼竜が何かを警戒し、それでもこちらへ興味を向けているような、不思議な感覚だった。
「……今のは?」
学校で習った《共鳴》に似ている。
魔物の感情や意思の一端を感じ取ることがある能力だが、俺は自在に使いこなせるわけではない。まして、相手の考えを文章のように読み取れるものでもなかった。
幼竜が何を望んでいるのか、今の感覚だけでは分からない。
だから、俺は目の前の行動を確かめることにした。
手を少し引いてみる。
幼竜は俺の指先を目で追ったが、その場から動かなかった。
もう一度、手のひらを床へ置く。
すると今度は、幼竜の方から鼻先を押しつけてきた。
「……そっか」
俺は手を動かさず、幼竜の様子を見守った。
その子は俺の指先に鼻を寄せたまま、ゆっくり目を細めた。
*
「時間だ」
管理人の声がした。
振り返ると、男が鉄格子の前に立っていた。
「……もう少しだけ、駄目ですか?」
「規則だからな。それに、その個体は今日の日没で処分予定だ。引き取るつもりがないなら、ここまでにしてくれ」
俺は幼竜を見た。
この子を引き取る。
言葉にするのは簡単だ。
けれど、俺には家がない。育成士の資格もない。財布には五千ルーンしかなく、これから自分の生活費さえ稼がなければならない。
竜種の飼育費が高いことは学校で習っている。
食料だけでは済まない。寝床も必要だし、傷ついた翼の治療や健康管理も続けなければならない。
助けたいという気持ちだけで引き取って、食べ物も満足に与えられなくなったらどうする。
安全な場所を用意できなかったら。
俺が倒れてしまったら。
考えれば考えるほど、簡単に引き取ると言ってはいけない気がした。
「……少年?」
管理人が促した。
俺は幼竜の前にしゃがみ直した。
「なあ。俺には、まだ何もないんだ」
幼竜は俺を見上げた。
「ちゃんと育てられるかも分からない。お前の怪我を治してやれるなんて、約束もできない」
言いながら、自分の無力さが嫌になった。
それでも、できない約束をして安心させるふりだけはしたくなかった。
「でも……お前がここで死ぬのを、黙って見ていたくない」
幼竜の瞳が、俺から離れなかった。
俺は立ち上がり、管理人へ向き直った。
「この子を引き取りたいです」
男は驚いたように目を見開いた。
「何?」
「俺に、この子を引き取らせてください」
「お前、話を聞いていたのか? 飛べない竜だぞ。治療費も飼育費もかかる。そもそも、お前は育成士なのか?」
「……まだ、資格はありません」
「だったら通常の契約はできない。資格や管理能力の審査が必要だ。俺の判断で連れて帰らせるわけにはいかん」
分かっていた。
魔物の意思や安全を守るために、契約や飼育には決まりがある。自分の都合でそれを無視していいはずがない。
「……ほかに方法はないんですか? 協会に相談することだけでも、できませんか?」
管理人は困ったように記録板を見た。
「今日が処分予定日なんだ。今から通常の引き取り手続きを進めるのは難しい」
「それでも、何もしないで諦めるよりは……」
そこまで言ったとき、背後で爪が床を引っかく音がした。
振り返ると、幼竜が身体を起こそうとしていた。
「おい、無理するな!」
俺は慌ててしゃがんだ。
幼竜は傷ついた左翼をかばいながら、右の前脚を一歩前へ出した。
身体がふらつく。
思わず支えようとしたが、幼竜は自分で姿勢を立て直した。
そして、俺の方へ歩いてくる。
一歩、また一歩と、冷たい石床を踏みしめる。左翼が揺れるたびに動きが鈍くなったが、それでも足を止めようとはしなかった。
「……どうしたんだ?」
幼竜は俺の前で立ち止まった。
琥珀色の瞳が、まっすぐ俺を見上げていた。
俺が手を差し出すと、幼竜はゆっくり右の前脚を持ち上げた。
小さな前脚が、俺の手のひらに重なる。
その瞬間、指先に熱が走った。
「……え?」
最初は、幼竜の体温が伝わってきたのかと思った。けれど熱は手のひらから手の甲へと広がり、やがて皮膚の上に細い光の線が浮かび始めた。
幾重にも重なる線が、複雑な紋様を描いていく。
幼竜の前脚にも、同じ光が現れていた。
「おい、少年! 何をした!」
管理人が鉄格子へ駆け寄ってきた。
「何もしてません! この子が、自分から……!」
俺は幼竜の前脚を握っていなかった。引き留めてもいない。離れようと思えば、幼竜はいつでも離れられる。
それなのに、小さな前脚は俺の手の上に置かれたままだった。
手の甲に浮かんだ紋様が、脈打つように淡い光を放っている。幼竜の鱗にも同じ模様が広がり、二つの光は互いに呼応していた。
「……そんな馬鹿な」
管理人の声が変わった。
さっきまで事務的に記録を読み上げていた男が、今は記録板を持つことさえ忘れ、俺たちの手元を凝視している。
「その紋様……まさか、《逆契約》か?」
「逆契約……?」
聞き覚えのある言葉だった。
育成士学校の教本に記されていた、極めて珍しい契約。
通常の契約では、人間が魔物に申し込み、魔物本人の承諾を得る。だが逆契約は違う。
魔物自身が、人間を選ぶのだ。
授業で教わったのは、その基本的な仕組みだけだった。担当教師でさえ実例を見たことがなく、教本にもわずかな記述と紋様の図が載っているだけだった。
俺は右手を見下ろした。
教本で見た図と、確かに似ている。
けれど、こんなことが本当に起きるのだろうか。
「……これが、逆契約の紋様なんですか?」
「分からん。俺も実物を見たことがない。だが、もし本物なら……」
管理人はそこで言葉を切り、幼竜へ目を向けた。
「この個体が、お前を選んだことになる」
俺は幼竜を見た。
この子が、俺を?
育成士資格もない。立派な飼育施設も持っていない。財布には五千ルーンしかなく、今夜泊まる場所さえ決まっていない。
そんな俺を選んで、いったい何になるというのだろう。
「……お前、相手を間違えてないか?」
思わず尋ねてしまった。
幼竜は首を傾けた。
「俺はすごい育成士じゃないぞ。学校の試験にも落ちたし、お前の翼を治してやれるわけでもない」
幼竜は何も答えなかった。
ただ、俺の手に重ねた前脚を離さない。
「もっと立派な人間を選んだ方が、きっと……」
そこまで言ったとき、幼竜が鼻先を伸ばした。
そして、俺の手の甲にそっと触れた。
言いかけた言葉が止まった。
幼竜は、俺がどんな家の生まれなのか知らない。試験に失敗したことも、財布の中身も、これからどれほど苦労するかも分かっていないだろう。
だから、この行動だけで何もかも理解して選んだのだと決めつけることはできない。
それでも、俺の手から離れようとしないのは、この子自身だった。
管理人が我に返ったように声を上げた。
「少年、動くな! 協会に連絡する。これは俺の判断で済ませられる話じゃない!」
「……はい」
「逆契約だったとしても、正式な確認が必要だ。お前の資格や飼育環境の問題だって残っている。紋様が出たからといって、勝手に連れて帰れるわけじゃないぞ」
「分かっています」
管理人は事務室へ向かいかけたが、途中で足を止めた。
「それから……処分の件も報告する。少なくとも、この現象を確認せずに手続きを進めるわけにはいかん」
俺は思わず顔を上げた。
「それって……」
「まだ何も決まっていない。期待させるようなことは言えん」
管理人はそう告げると、足早に事務室へ向かった。
鉄格子の向こうに、その背中が消えていく。
俺は幼竜と二人きりになった。
窓の外では、冬の空が少しずつ夕暮れの色に変わり始めていた。
日没まで、もう長くはない。
本当に逆契約なのか。協会が認めてくれるのか。無資格の俺に、この子と暮らす道があるのか。
何一つ分からなかった。
幼竜の前脚が、わずかに震えた。
「……痛むのか?」
俺が尋ねると、幼竜はゆっくり身体を下ろそうとした。
俺は前脚を無理に支えず、傷ついた左翼が床に当たらないよう様子を見守った。幼竜は慎重に姿勢を変え、俺の膝の近くへ身体を丸める。
手の甲に残った紋様は、まだ微かに光っていた。
「無理するなよ。もう立ってなくていいから」
幼竜は鼻を鳴らした。
その声は、さっきまでより少し弱々しかった。
俺は冷たい床に座り直した。
目の前の小さな竜は、今日の日没に処分される予定だった。
名前もないまま、誰にも引き取られず、七十二番という記録だけを残して。
けれど今、この子は俺のそばにいる。
俺を見上げ、時折鼻先を伸ばし、確かめるように手の匂いを嗅いでくる。
「……なあ」
琥珀色の瞳がこちらを向いた。
「俺には、お前を空へ飛ばしてやるなんて約束はできない」
幼竜は動かなかった。
「でも、ちゃんと食べられるように仕事を探す。安心して休める場所も見つけたい。怪我のことだって、できる限り勉強する」
口にしてみると、どれも簡単なことではなかった。
自分一人の生活さえ決まっていないのに、竜の食費や治療費まで背負おうとしている。
父さんが聞いたら、また甘いと叱るだろう。
それでも、今度は目を逸らしたくなかった。
「……ただ、一つだけ頼みがあるんだ」
幼竜の耳が動いた。
「俺が間違えたら、ちゃんと教えてくれ。嫌なことは嫌だって、態度で示してくれていい。俺も、お前のことを勝手に決めつけないようにするから」
幼竜は俺の言葉を聞いているのか、じっと顔を見つめていた。
やがて、俺の右手へ鼻先を寄せる。
冷たい鼻が指先に触れ、くすぐったさに思わず指が動いた。
すると幼竜は、なぜかその指をぺろりと舐めた。
「うわっ、くすぐったいって!」
驚いて手を引くと、幼竜は目を丸くした。
俺が笑っているのを見ると、もう一度鼻先を伸ばしてくる。
「おいおい。さっきまであんなに警戒してたのに、急に積極的だな」
今度は舐められないように手を少し上げると、幼竜は不満そうに鼻を鳴らした。
その声は、竜というより、何かをねだる小さな動物のようだった。
俺は左翼に触れないよう気をつけながら、そっと頭を撫でた。
幼竜は一瞬だけ身体を強張らせたものの、嫌がって離れることはなかった。
やがて琥珀色の瞳がゆっくり細くなる。
傷ついた翼は治っていない。
痩せた身体も、古い傷跡も、何一つ変わっていない。
それなのに、最初に鉄格子越しに見たときより、ずっと表情が豊かに見えた。
この子には、まだ俺の知らない一面がいくつもあるのだろう。
好きな食べ物も、苦手なものも、安心できる場所も。
もし一緒に暮らせるようになったら、少しずつ知っていきたい。
そんなことを考えていると、事務室の扉が勢いよく開いた。
「少年!」
管理人が戻ってきた。
先ほどまでの落ち着いた様子はなく、手にした記録板を強く握っている。
「協会に連絡がついた。担当者が至急こちらへ来るそうだ」
「本当ですか!」
「ああ。逆契約の兆候が現れたと伝えたら、向こうもずいぶん驚いていた」
管理人は俺の右手へ目を落とした。
「紋様は、まだ残っているのか?」
「はい」
俺が手の甲を見せると、男は息を呑んだ。
幼竜の前脚にも、同じ紋様が残っている。
「……教本でしか知らなかったが、本当にこんなことが起きるのか」
管理人はしばらく黙っていた。
それから、処分記録の書類を取り出した。
そこには、今日の日付と、日没時に予定されている処分の記録が書かれていた。
男はその書類を見つめ、筆を取った。
「協会の確認が終わるまで、処分手続きは保留として報告する」
「……ありがとうございます!」
俺が頭を下げると、管理人は首を振った。
「礼を言うのはまだ早い。逆契約が正式に認められるかどうかも、今後の保護をどうするかも、これから決まることだ」
「……はい」
「それにしても、不思議なものだな」
管理人は幼竜を見た。
「これまで何人もの引き取り希望者が来た。竜種だと聞いて興味を持つ者もいたが、飛べないと分かれば誰も残らなかった」
俺は黙って聞いていた。
「それが最後の日になって、無資格の少年を相手にこんな反応を見せるとは……」
管理人は言葉を切った。
幼竜が俺の膝へ鼻先を押しつけていたからだ。
俺はその頭を見下ろした。
この子が何を考えているのか、まだ分からない。
俺を選んだのかもしれないし、ただ今だけそばにいたいのかもしれない。
《共鳴》でも、そこまでは読み取れなかった。
けれど、もし本当にこの子が自分の意思で俺を選ぼうとしているのなら。
その選択を、俺は軽く扱いたくなかった。
「……なあ」
幼竜が顔を上げる。
「まだ、どうなるか分からないけどさ」
俺は右手を差し出した。
幼竜はしばらくその手を見つめていたが、やがて自分から前脚を持ち上げた。
小さな爪が、俺の手のひらに触れる。
その瞬間、二つの紋様が再び光を帯びた。
先ほどよりも、はっきりと。
管理人が思わず後ずさった。
「……また光った?」
俺も驚いて手元を見た。
幼竜は前脚を離さなかった。
傷ついた翼をかばいながら、琥珀色の瞳で俺を見上げている。
学校では、魔物を選ぶのは育成士だと教わってきた。
優れた能力を持つ個体を見極め、適性を判断し、契約を申し込む。魔物本人の承諾が必要だとしても、最初に相手を選ぶのは人間であることがほとんどだった。
けれど今、俺の目の前で起きていることは違う。
この子は、誰かに命じられたわけでも、契約を強制されたわけでもない。
自分の脚で俺のところへ来た。
自分から前脚を差し出した。
それだけは、間違いなかった。
「……お前、本当に俺でいいのか?」
幼竜は答えなかった。
代わりに、俺の手へ重ねた前脚に少しだけ力を込めた。
淡い光が二つの紋様の間を走り、薄暗い処分場の壁を照らす。
管理人が震える声で呟いた。
「……逆契約」
その声には、先ほどまでの疑いとは違う響きがあった。
「もし本物なら……この幼竜は、人間に引き取られるのを待っていたんじゃない」
俺は幼竜を見た。
管理人は、信じられないものを見るように続けた。
「自分で、相手を選ぼうとしているんだ」
窓の外では、日が沈みかけていた。
処分番号七十二。
今日で命を終えるはずだった、飛べない幼竜。
その小さな前脚が、俺の右手に重なっている。
俺はまだ、育成士ではない。
この子を守れるだけの力があるのかも分からない。
それでも、今だけは手を引きたくなかった。
「……分かった」
俺は幼竜の瞳を見つめた。
「協会の人が来るまで、一緒に待とう」
幼竜は鼻先を俺の手へ寄せた。
二つの紋様は、静かに光り続けている。
そして、鉄格子の外に立つ管理人が、誰にともなく呟いた。
「……こんなことが、本当にあるのか」
俺は答えられなかった。
ただ、目の前の小さな竜から目を離せなかった。
誰にも選ばれなかったはずの幼竜が、今、自分の意思で誰かを選ぼうとしている。
その相手が、家を追い出されたばかりの俺だった。




