1-08 五秒間のタイムリープ
濡れた土を滑る音と短い悲鳴。
その音で振り返ると美羽が崖から落ち始めている。助けようとして飛び出しても美羽は目の前で崖の下へと落ちて行く。
そしてまた背後から濡れた土を滑る音と短い悲鳴が聞こえる。振り返ると美羽が崖からの落下を始めている。猛然とダッシュするが間に合わない。
そしてまた背後から濡れた土を滑る音と短い悲鳴が聞こえる。その五秒間がただただ延々と繰り返される。
通常タイムリープと言えば、もっとスパンが長くて前回で得た知見を生かして自分に有利にことを進められるものだ。
だがこれは明らかに趣旨が違う。俺に美羽が死ぬ瞬間を永遠に何度も何度も見せつけて苦しめようというものだ。
しかし生憎と俺は絶望を与えられても「はい、そうですか」なんて易々と受け入れるほどお人好しじゃないんで、せいぜい抗わせて頂きますよ。
肉体を酷使して。知恵を絞って。道具を使って。
濡れた土を滑る音と短い悲鳴。
それが想起させる最悪の事態。
振り向いた俺の目に飛び込んで来た光景はまさにそれだった。
美羽の下半身は既に崖の下。驚いた顔でそれでもこちらに手を伸ばしかける。短い髪の先が少し重力に逆らって浮いている。
スチル写真のように止まって見えたのは気のせいだ。一瞬固まった自分の脚を無理矢理動かして美羽に向かって飛び出す。しかし、もう美羽は首まで崖の下に落ちている。俺は脚がもつれて転んだ。
そう、確かに転んだんだ。
転んだはずなのに俺は立っていて、さっき聞いたのと同じ濡れた土を滑る音と短い悲鳴が聞こえた。反射的に振り返ると先ほどと同様に美羽の身体が崖の下に沈んで行くところだった。今度は前回よりもいいスタートを切ることができた。しかし美羽へは到底届くことなどできずに彼女の身体は崖の下に吸い込まれて行った。
そして視界は一瞬で切り替わるのだ。それと同時に背後から二つの音がする。濡れた土を滑る音と短い悲鳴。それを待たずに振り返るんだが。それでも美羽の身体は落下を始めてしまっている。クラウチングスタートでもしたいところだがこの体勢からのスタートしか許されない。全力で飛び出して手を伸ばす。それでも届かない。届くことはなかった。
もっと前まで話を戻そうか。俺と美羽は大学のサークル活動の一環で少年自然の家の手伝いに来ていた。溌剌としてボーイッシュでかわいい美羽は子供たちに大人気だった。どういうわけか一部の女子たちには美羽と俺の仲を勘付かれて質問攻めにされた。
「美羽ちゃんはこんなゴツい男のどこがいいの?」
「恭平はねぇ、誰よりもハートが強くて熱いんだよ」
俺たちの担当期間が終わって帰りにバス停まで歩く途中、気になる場所を見つけた。子供が興味本位で立ち入ると危なそうなところだ。
「これ、ちゃんと調べてると今日は帰れないかもしれんぞ?」
「いいでしょ? 子供たちの安全のためだもん。下まで歩いたところの旅館に一緒に泊まれるくらいのお金はあるでしょ?」
そうして美羽と二人でにわか雨に濡れた獣道のようなところを進んで行くと柵も何も無い崖の上に出たというわけだ。
そんなことを考えながらもトライは休むことなく繰り返していたが派手に転んだ。土と血の味がした。次のループが始まれば消えて無くなるが。
最初はこの果てしなく繰り返す五秒間を夢だと思った。いや今でも夢である可能性が完全に否定されたわけではない。そうであればそれに越したことはない。しかし、あまりにも全ての感覚がリアル過ぎるし、あまりにも時間が長過ぎる。そして何より美羽の命がかかっている。美羽が死んだ回数だけ生きている美羽が目の前に現れている。助けないわけに行かないだろ。
立ち上がるまでもなく立っている。そこだけは便利だ。
「好きだよ、馬鹿! 分かってよ! 期待も理想も飛び越えちゃうのが私の恭平なんだから!」
美羽はケンカして仲直りするときですらそんなことを言う女だった。
だけど……いや、だからこそ言える。俺が強くいられたのも熱くなれたのも全部美羽が居たからだ。いつもアイツが隣で笑って泣いてムクれたり慰めてくれたり励ましてくれた。飾ることもあるが隠したりしない。偽ることもあるけど騙したりしない。そんなアイツの無茶振りに応えてきたからなんだ。美羽と出会ったから俺は限界を突破できた。
もはや考えながらでも勝手に身体がトライを繰り返す。でも分かっている。そんな挑戦では良い結果は出ない。
俺の知っている「タイムリープ」というものは時間を繰り返した者に限定的な未来予知能力が与えられるような話だった。だが、これは明らかに趣旨が違う。どう考えても俺に美羽が死ぬ瞬間を永遠に繰り返し見せつけて苦しめようとしているとしか思えない。
しかしだ。だとしたら二つ疑問がある。一つはそんなことができる存在が知り得る範囲に居ないということ。そしてもう一つはそんな存在すら知らない相手にいつの間に怨みを買ってしまったのかということ。
どこかの女王様よりも美しくなった覚えもないし、悪い魔女をパーティーに呼び忘れたりもしていない。
考えごとをしているせいか精神的な疲労からかスタートダッシュのキレが落ちてきているような気がする。気合いや集中力というものは確実に結果に影響する。力み過ぎてもいけないんだが。
まぁ、あるいは時空の歪みにハマってしまったとかいうことで、誰の意志も介在していない可能性もある。
もしも時空の歪みにハマってしまっていたりする場合には、同じ行動ばかり繰り返さずに色々とやってみるのがいいのだろう。
しかし、そんなことは意図的に試してみるまでもない。俺は転んだり滑ったり歩幅が合わずに跳んでみたりとイレギュラーな動きも数え切れないほどした。それはこれが単なる時間の繰り返しなどではなく、一回一回が新しい挑戦であることを証明している。
何がどうであろうとも俺は与えられた絶望を「はい、そうですか」なんて易々と受け入れるほどお人好しじゃないんで、せいぜい抗わせて頂きますよ。
で、何万回くらいかは分からないけど、ビーチフラッグよろしくリープ直後に振り返ってスタートダッシュして美羽に手を伸ばすことを繰り返してみたが、全てにおいて完璧な動きができても美羽の指先に触れるのがやっとだった。それができる確率はせいぜい1%。これ以上は上がりそうにない。
俺はまた盛大に転んだ。そしてそのままあぐらをかいて座り込んだ。どうせまたすぐに立たせられてしまうが。
方針を変える必要があるのは明らかだ。美羽には悪いが何ループかは救助せずに作戦を練るために使おう。
まず一番の幸運は思考がタイムリープの間隔の五秒でぶつ切られないことだ。思考はタイムリープと関係なく連続して行うことができる。
しかし逆に言えば五秒を超えて持ち越せるのは思考だけなのだ。何かを集めようとしても何かを作ろうとしても全て五秒で元の状態にリセットされてしまう。まぁ肉体の状態もリセットされるからこそハードで瞬発的な運動をどんなに何万回連続で繰り返しても平気でいられるってわけなんだが。
とはいえ己が肉体だけでは限界があると分かったのならば道具を使う必要がある。持っているものを確認しよう。
だがこの確認作業もすんなりとは行かない。ポケットから出したものは五秒経つと手の中から消えてポケットの中に戻ってしまう。苦心して調べた結果はこうだ。
・HDMIケーブル1m(片方の端子にだけminiHDMI変換端子が付いている)
・ポケットミニバーナー(炭や薪に着火するための火力の高いライター)
・爪切り(爪が飛ばないケース付き)
・サンバホイッスル
・痒み止め(虫刺され用)
・ポケットティッシュ(かわいいとガキどもに揶揄われた)
・ハンカチ(神秘的な幾何学模様が描いてある)
・財布
・スマホ
・Bluetoothイヤホン
うっかり入れっぱなしにしていたHDMIケーブルが役に立ちそうだな。変換端子が重りになりそうだからそちら側を先にして投げてみるか。
HDMIケーブルが入っているのは薄手の上着の右ポケット。リープ開始と同時に振り向きながらポケットに手を入れて取り出す。うまい具合に変換端子の付いていない方の端を掴んだ。
「美羽!」
と叫んでアンダースローでHDMIケーブルを振る。HDMIケーブルは伸び切ると下から上へと弧を描いて行く。美羽の右手が僅かに遅れてそれを追う。しかし掴むことはなく美羽は崖の下へと落ちて行った。
分かったこと。HDMIケーブルは届く。美羽の手は下から上へと動く。ならばHDMIケーブルの描くべき軌跡は上から下だ。
しかしアンダースローを選んだのはその方が走るときの腕の振りと馴染むからだ。走りながらオーバースローとなるとアンダースローよりもタイムロスが出るかもしれない。まぁ何度だってトライできるんだ。一発でうまくやる必要はない。ロスは減らしていけばいい。
ただ一つだけ気掛かりなのはタイムリープしているのは俺だけなのかということだ。
「もしも美羽もタイムリープしていたら?」
考えるだけでも恐ろしいことだが、どうしてあり得ないと言い切れる?
それにもしも万が一、美羽にはこんなことができる存在との関係があって、そして怨みを買っていたら?
まぁ、そんときゃソイツには俺を巻き込んだことを死ぬほど後悔させてやるさ。
しかし、希望もある。
落下し始めるときの美羽の瞳の色だ。
その色には必ず驚きがある。何万回、何十万回と落下を繰り返していたら恐怖に慣れることはなくても驚きは失われてゆくのではないだろうか?
そして、美羽が俺に送る眼差しには変わらぬ期待が込められている。始めから今まで曇ることも翳ることもなくだ。だから俺も正気を保って折れることなく頑張ることができているのだ。
両手で頬を叩く。
じゃあ、行きますか。
視界が切り替わる。背後から二つの音が聞こえるときには振り返る動作に入っている。右手を上着のポケットに滑り込ませる。HDMIケーブルの端を掴んで取り出す。右腕を後ろに振る勢いをそのまま活かしてオーバースローのフォームに入った。
「美羽!」
俺たちを囚えている何かを突き破るように声を放った。





