1-05 スキピオの鏡
虚飾と陰謀の都レートラ、その地下劇場に囚われたサーカス《ラ・トラジェディア》。白痴の歌姫、影を操る火喰い人、占い師に怪物、そして悪魔との賭けで飛翔の技を得た座長。彼らはレートラを支配するバッラストロ家と、その専属魔術師マリアルダの所有物であった。
一座の一人、鏡の中でしか姿が見えない青年スキピオは、その呪いゆえに地下劇場を抜け出すことができたが、愛する歌姫を見捨てられず虜囚の身に甘んじていた。
ある時、彼は仮面をかぶった魔術師イルルーニに奇妙な依頼をされる。
「バッラストロの屋敷の地下にある、魔女マリアルダの秘密が隠された柩を暴け」
スキピオは自分と仲間の自由のために依頼を引き受ける。
古都に蜘蛛の巣のごとく張り巡らされた地下迷宮を舞台に、自由を望む者と望まぬ者、栄華に驕る支配者、腹の底の知れぬ魔術師たち、それぞれの思惑が交錯するダーク・ファンタジー。
花の都。
かつてそう呼ばれたレートラは、芸術を愛する領主ヴェントゥーラ家の支援により文化咲き誇る美しい街であった。しかし二十年前、貿易によって富と権力を得たバッラストロ家がクーデターを起こし、領主一族を皆殺しにした。以来この都市は虚飾に彩られ陰謀が渦巻いている。
今や各地の王侯貴族にまで金貸しをする彼らは神よりも恐れられ、彼らこそがレートラの法であった。
派手好きの彼らは楽団や劇場を数多く持っていた。お気に入りは秘密の地下劇場だ──上流階級の中でも選ばれた者しか招待されない、魔法と狂瀾の約束された場所。それは何世紀も前の皇帝のために作られ、街で最も古い橋の下、隠し扉の向こうに潜んでいた。時の流れに侵食されてすり減った石造りの入り口には、こんな標語が飾られている。
《運命よ、今宵も我らの悲劇をあざ笑え》
狭く入り組んだ回廊の先には絢爛たる大ホールが広がり、松明や無数の蝋燭と水晶を抱いたシャンデリアに照らされている。踊る光と影の中で、壁中に施された彫刻や天井画が妖しく蠢く。
開演までの前座を担うのは道化のフォルトゥーニオ。かつて彼は泣き男(*都市政府と契約し訃報を知らせる使者)だったが、ヴェントゥーラ家がバッラストロ家によって虐殺された際、無謀にも領主の館に飛びこんだ。そして領主ウンベルトの血に濡れたシャツを手に入れると街中を練り歩き、古代の詩人をも凌ぐ嘆きの歌を石畳に響かせた。当然これはバッラストロ家の怒りを買い、彼は舌を抜かれ拷問を受け、今では道化としてこの地下劇場の見世物となっている。みな不様に踊る彼を笑い、時には腐った卵を投げつけた。
道化が去った後、喇叭と共に舞台に現れたのは背の高い黒衣の男、その顔にはツノのついた髑髏の仮面。
彼こそがこの地下劇場の花、サーカス《ラ・トラジェディア》の座長である。かつて大陸中を巡業していた彼らは、珍し物好きな暴君の策に嵌り、三年前から囚われの身となっていた。
「ようこそ! 私はサルヴァトーレ、この一座の座長。今宵も我々の悲劇があなたがたの慰みになりますよう」男はしわがれた声で口上を述べ、深くお辞儀した。
「手始めに我が小さな物語をひとつ。かつて、私は天使も恥じらうほどの歌声を持っていました。だが──それを妬んだ悪魔に騙され、この喉は枯れ果てた」
観客の間からわずかに嘆息が漏れた。座長はなだめるような仕草をしてから、続けた。
「そして、私はその対価に飛翔の技を得たのです」
彼はゆっくりと舞台上を巡り、何の仕掛けもないことを示すようにバサリとマントを広げた。
「さあ、悪魔の秘術をとくとご覧あれ!」
彼は仮面を放り投げるや否や渦巻く色となり、瞬く間に大鴉へ姿を変え、落ちてくる仮面を嘴で捕まえた。
ハッタリではない本物の変容! 観客は大きくどよめく。
黒い羽根をひらめかせてホールを飛び回るサルヴァトーレに観客はホールを揺らすほどの歓声を上げた。彼は椅子の背もたれにとまって奥方に仮面をプレゼントし、紳士の帽子にちょっかいを出して葡萄酒の餞別にあずかった後、シャンデリアをかいくぐりアクロバットを披露する。
頃合いを見て人間に戻った座長は割れんばかりの拍手と口笛に迎えられて再びお辞儀し、傷のある顔で微笑んだ。そして客の熱狂が冷める前に、太鼓の音とともに刺青の大男が火を吹きながら現れ、みなが退屈することを許さないのだった。
《ラ・トラジェディア》にはいろいろな奇人や異形がいたが、奥方の人気が高いのは《スキピオの鏡》だ。
客が支配人に「スキピオに会わせて」と囁くと、舞台の横の小部屋に通される。燭台が幾つも輝く部屋には二脚の椅子と、磨き上げられた銀の鏡が置かれていた。鏡に映るのは美しい青年だ──その姿は見る者によって異なっている。輝く金髪の男神のごとき美丈夫、上品な黒髪の紳士、褐色の肌の荒々しい戦士。彼は見る者の理想の姿をしており、鏡によってしか見ることが叶わなかった。しかし何か仕掛けがあるのだと勘違いした者が鏡を盗むこと数知れずである。
スキピオには鏡の中の自分の姿が見えない。彼は己の顔はおろか出自も知らなかった。十五年ほど前、山岳の村で火喰い人ツィラスが彼を拾い、座長がスキピオと名付けてサーカスに迎えてくれたが、それ以前の記憶はない。
奥方たちが長居をしたがっても、彼は何かと理由をつけて別れを告げ、必ず恋人の舞台を見に行く。目に見えない彼が部屋を抜け出すのはわけのないことだった。
宴もたけなわ、だいぶ葡萄酒の回った観客の前で、楽師の並ぶ舞台に立つのは座長サルヴァトーレの娘セレネッラだ。白い衣装に身を包み、ぼんやりと宙を眺めている。
チェトラを抱えた楽士が旋律を奏で始めると、彼女は絹糸のように繊細な声で歌い始めた。
私の人生で あなたが演じるのは?
英雄 盗人 道化 刑吏
それとも もしや そのすべて?
彼女はカナリアのように教えられた歌を歌うことしかできなかった。あとはまったくの無口で、誰の言葉も解さずに空虚に視線を彷徨わせるだけだ。サルヴァトーレが悪魔に彼女の言葉を売ったのだ、という噂があるが真相は分からない。
化粧で誤魔化しているがその容姿は平凡だ。しかしそのリラ色の瞳は溺れるほど美しい、少なくともスキピオはそう思っていた。
セレネッラにはスキピオが見えていた。それが白痴のためか、愛のおかげは分からなかったが。二人きりになり、彼が山をも打ち砕くほど優しい言葉をかけると、彼女は柔らかく微笑みながら彼の手を握り肩に頭をもたせかけるのだった。
目で捕えることのできないスキピオは、影と反射にさえ注意すれば誰にも気づかれずに地下を抜け出せたし、きっとこの街からも逃れられただろう──すでに呪われた彼の体を、魔術はすり抜けていく。
だが彼はセレネッラと離れることに耐えられず、虜囚の身に甘んじていた。
***
夜が明けて客がいなくなると、《ラ・トラジェディア》はやっと一息つける。
彼らは体を休めるために舞台裏の狭い部屋を幾つか与えられていたが、どれも壁はひび割れてカビ臭く空気が悪かったし、光は壊れかけのランプやちびた蝋燭しかなく、おまけに地下を徘徊する骨喰いなど小さな怪物が紛れこむこともしばしばだ。
スキピオは火喰い人のツィラスと同室だった。彼は大男で、その白い肌は刈り上げた頭まで刺青で覆いつくされている。彼の赤い目はスキピオを見ることはできなかったが、闇を捕える力によって幼い彼の影を見つけ、以来なにかと世話を焼いてくれた。
スキピオがセレネッラと別れて部屋に戻ると、ツィラスはすぐ彼に気づいた。
「待っていたよ、私の小さな影」
「どうかしたの?」
「お前に客が来ている」
どこぞの奥方かと思ったが、部屋で唯一の椅子に座る客人は体格からして男のようだ。その顔は青い目を除いて象牙色に塗られた悲劇の仮面の下に隠されている。
男はツィラスが部屋を出て行くのを確認してから、スキピオがいるあたりに視線を彷徨わせた。
「本当に姿が見えないのだな」
「俺を見たければ、その鏡をご覧ください」
男は部屋の隅に置かれた薄汚れた鏡に目を向け、小さく息を呑んだ。一体どんな姿をしているのだろうか……男はしばらく、身じろぎもせずスキピオを眺めていた。
居心地の悪くなった青年は、無礼を承知で自分からこう問いかけた。
「あなたは誰です?」
「私はオレステ・イルルーニ」男はやっと目を逸らした。「名前くらい聞いたことがあるだろう」
イルルーニといえば大陸中にその名を轟かせる大魔術師である。
「もちろん……でも、本当に?」
男は左手の大ぶりな金の指輪に触れ、何か呟いた──すると彼の輪郭がぼやけ、やがてツィラスの姿になった。
「この程度の幻影では、信じるのは難しいか?」
「いや……」スキピオは度肝を抜かれながら答えた。「ともかく、あなたが魔術師なのは確かなようですね。俺に何の用でしょう?」
「姿のない君に頼みがある」男は元の姿に戻った。「バッラストロの屋敷に忍びこんでほしい」
その言葉のあまりの大胆さに、スキピオは失笑した。
「忍びこんでどうしろと?」
「かの屋敷の地下に柩が隠されている。その中を確認して、私に報告してくれ」
「中身を盗むのではなく?」
なんとも奇妙な依頼だ。
イルルーニは言った。
「バッラストロ家の専属魔術師、マリアルダを知っているか?」
「もちろん」
マリアルダ・ストルネッロこそ、《ラ・トラジェディア》を地下に繋ぎ止めた魔術師である。エメラルド色の目に黒髪の美女の姿をしているが、その齢は数世紀とも言われている。
「あの魔女は私の商売の邪魔でね。柩には彼女の秘密が隠されている。それを暴いて彼女が失脚すれば、君も仲間も自由の身だ……悪い話ではないだろう?」
「でも、柩の中を見たら──呪われるとか?」青年は食い下がった。
「だが、呪いが君を蝕むことはない」
「俺が目に見えないから?」
「そういうことだ」
あまりに荒唐無稽な話だ。だが、もし自由になれるのならば……スキピオは考えた。
「でも──そもそも、どうやってバッラストロの屋敷に入れっていうんですか?」
「レートラの地下には、作られた時代も目的もさまざまな広場や抜け道が無数にある。この劇場のように」
男は胸元から丸めた羊皮紙を取り出した。スキピオがそれを受け取って広げると、芸術品のように美しく精巧な、レートラの地下地図が描かれていた。





