1-04 私はイサドラ。名前はエミリー
古い洋館の一室で目覚めた少女は、記憶を失っていた。
どこか薄気味悪い屋敷を歩いていると、少女を知っているらしい少年と出会う。
「大丈夫。僕が教えてあげるからね。君の名前はイサドラだ。そして僕はハウエル」
ハウエルに教えてもらいながら、イサドラと呼ばれた少女は共に屋敷を歩く。
危険だというこの屋敷からともに脱出し、安全で素敵な場所へ行くために。
失った記憶を、取り戻すために。
薄暗い部屋の床で倒れていた少女は、目覚めてすぐに首を傾げた。
自分の置かれた状況はおろか、この場所のことも、自分の名前さえも、何も思い出せないからだ。
窓の外は暗く、辺りは静かで薄気味悪い。
けれど彼女は怖がらない。
もしかしたら恐怖心も一緒に忘れてしまったのかもしれなかった。
「状況を確認しないと」
少女は冷静にそう呟くと、ゆっくりと立ち上がる。
身体を軽く動かしてみたが、怪我や痛めた場所もなさそうだった。
少女はぐるりと部屋を見回した。
室内の明かりは窓の外から差し込む月明かりだけ。
今宵は満月だからか、足元までよく見える。
「ずいぶん古い建物みたい。きっと本当は素敵な部屋だったのでしょうね」
白で統一されたアンティーク家具。
どれもこれも高級感が漂っているが、分厚い埃が被っており、ところどころ壊れている。
きっとかつては真っ白で美しかったのだろう、割れた窓にかかった破れたレースのカーテンも、カビで薄汚れて心許なく揺れていた。
少女が一歩踏み出すと、ギィと嫌な音が鳴った。
急に床が抜け落ちてもおかしくはない。気を付けて歩かないと足をとられて怪我をしそうだ。
「部屋を出てみましょう。他に誰かがいるかも」
少女は慎重に歩を進め、部屋のドアを開ける——と、背後でガタガタと大きな音がした。
まるで、少女が出ていくのを引きとめるかのように。
少女は振り向いたがすぐに前を向き、何事もなかったかのように部屋の外へ出た。
クローゼットが鳴くことなど、よくあることだ。
廊下は広く、長かった。
窓からは月明かりも射し込まず、先ほどの部屋よりさらに暗い。所々にある火の点いた燭台だけが頼りだ。
どこかから隙間風が吹いているのか、ロウソクの火が揺れる度に少女の影も揺らめく。
まるで影にも意思があるかのように見えた。
「ロウソクはまだ長い……誰かがいるのね」
少女はそう分析し、ゆっくりと廊下を進む。
遠くからでは見えなかったが、近付いていみると廊下の壁に絵画が飾られているのがわかった。
花瓶に飾られた花の絵、籠に入った果物の絵、どこかの草原や丘が描かれた風景画に、人物画。
少女はそれらを眺めながら歩を進め、一枚の絵画の前で足を止める。
「イサドラ……?」
「え?」
遠くから聞こえた声の方向に顔を向け、少女は目を凝らす。
手にランプを持った人物がぼんやり見える。その人影はこちらに歩み寄っているようで、やがてその顔がはっきりと見える距離にまで近付いた。
少年だ。十五、六歳ほどだろうか。
表情には喜色が見て取れる。
「やっぱりイサドラだ! いつここへ来たの!?」
パァッと明るい笑顔で告げた少年は少女に駆け寄ると勢いのままハグをしてきた。少女は戸惑いながらも思考する。
(私を知っているみたい)
身体が離れ、改めて少年を見る。
少女と目線の高さはあまり変わらず、少したれ目の優しい瞳は綺麗な緑色。
「ごめんなさい。私、何も覚えていないの」
「えっ、どういうこと……?」
「貴方のことも、自分の名前もわからないわ。イサドラというのは、私のこと?」
少年は一瞬だけショックを受けたような顔を浮かべたが、すぐに頭を振って笑みを浮かべた。
「……大丈夫。僕が教えてあげるからね」
「ありがとう。助かるわ」
「まず、君の名前はイサドラだ。そして僕はハウエル。君とは遠い親戚なんだよ」
「ハウエル……私の、親戚?」
「そう、ほら見て。この絵はイサドラだよ」
少年、ハウエルはそう言うと、先ほど見ていた絵画を指し示す。
そこには微笑みを浮かべる大人しそうな金髪の少女が描かれていた。
「これが私だったのね……」
少女、イサドラは自分の顔を指でなぞり、髪に触れ、首を傾げながら絵を眺めた。
これが自分だと言われても実感がわかない。記憶はまだ戻りそうになかった。
絵の中の少女の少したれ目な緑の目を見て、イサドラはハウエルの顔に視線を向ける。
「なんだか私とハウエル、少し似ているわ」
「でしょ? 僕らは特に似ているんだ。血の繋がりは薄いはずなのにね。不思議の答えはこっちにあるよ」
ハウエルはイサドラの手を取ると、少し先に進んで立ち止まった。
そこにはまた人物画が飾られており、椅子に座った美しい貴婦人が描かれている。
額縁が他のものより豪華で、絵も大きい。ひと目で特別な絵だということがわかった。
そして彼女もまた、イサドラと同じ柔らかな金髪と優しそうな緑の瞳を持っていた。
「このご婦人も、私たちに似てる……?」
「僕の祖父の祖母の、そのまた祖母の……ま、ご先祖様だね。僕らは彼女の血が濃いのかも」
「とても綺麗な人ね」
「うん。イサドラも大人になったらもっと美人になるよ」
ふわりと微笑んだハウエルこそ、将来もっと美しくなるだろうとイサドラは思った。
「ということは……ここは私たちの、親戚のお屋敷?」
「うん。もうずいぶん前に立ち退いたけれどね」
「それはどうして?」
もう長くここが使われていないことはわかるが、それにしては疑問が残る。
少し見て回っただけでも、家具や絵画などの調度品だけでなく、食器類やドレス、本などあらゆるものがそのまま残されているのが目についたからだ。
これではまるで、ある日突然、逃げるように屋敷を——
「思い出せないならそのほうがいい。僕も忘れたいもの」
イサドラの思考は、ハウエルのその言葉で途切れた。
これまでの優しげな雰囲気とは違った、有無を言わせぬハッキリとした物言いは、それ以上の質問を拒絶しているように感じた。
「……このお屋敷は危険だ。イサドラ、僕と一緒に安全な場所へ逃げよう」
「ここは危険なの? どうして? 安全な場所ってどこ?」
ハウエルはイサドラからの質問に微笑みを返すと、先ほどから繋いでいた手をさらに強く握る。
「とても安全で、素敵なところだよ」
「でも……」
「怖がらなくていいんだ。僕が君を守るから」
ハウエルは両手でイサドラの手を握りしめると、その手を祈るように額へ近付ける。
顔が近い。ハウエルの長いまつ毛が頬に影を落としていた。
「君のためなら、僕はなんだって出来るんだから」
「ハウエル……?」
知りたいことは何もわからなかったが、妙な説得力がある。
戸惑いながらもイサドラが首を縦に振ると、ハウエルは嬉しそうに笑って再び優しく手を引いた。
「こっちだよ」
誘導されるがままに、イサドラは屋敷の廊下を進んだ。
階段を下り、途中で背の高い古時計の前を通る。
振り子は動いておらず、時計の針も止まったままだ。
それなのにイサドラたちが通り過ぎた瞬間、時計がボーンと音を鳴らした。
「この先は床板がないから、遠回りして食堂を通っていくよ」
食堂の長テーブルには食器が並べられたままだ。
埃のかぶった空の皿と、綺麗に並んだカトラリー。
それなのにイサドラたちが通り過ぎた時には、美味しそうなスープや肉料理の香りが漂った。
(変なお屋敷ね。これが危険なのかしら)
イサドラは深く考えずに、ただハウエルの手に導かれて歩を進める。
食堂を出て、少し歩いた時だった。
「エイミー!」
「……え?」
奥の角から一人の少年が飛び出してくるのが見えた。
少年は息を切らしながら一目散にこちらへと駆け寄ってくる。
イサドラの目の前までやってきた少年は、勢いよく彼女の両肩をつかんだ。
「こんなところにいたのか! ずっと探してたんだぞ!」
「え? え?」
「ほら、こんな化け物屋敷、さっさと出ようぜ! ……なんだよ、変な顔して」
「あ、あの。貴方は、誰……?」
「は?」
つかまれた肩が痛い。だが不思議と不快感がないのは、彼が本気で心配していたのだと伝わるからだろう。
ただ、イサドラはわからない。
彼がなぜそんなにも慌てているのか。
なぜそんなにも心配そうなのか。
「イサドラから離れろっ!」
「うわっ!?」
気付けばイサドラはハウエルに抱き寄せられていた。
ふと見上げると、ハウエルが怒った顔でランプを掲げ、少年を睨みつけている。
「な、なんだお前? っていうか、今どこから……」
「お前こそ何者だ! イサドラ、大丈夫? 怖かったよね」
「イサドラ……?」
少年はぽかんとした様子で呟くと、じわじわと顔を青ざめさせた。
「な、何言ってんだよ。イサドラって誰だ? お前はエイミーだろ」
「エイミー……?」
「ちょ、マジかよ。まさかわからないのか?」
「私、何も覚えていないの。上の階の部屋で倒れていて、自分の名前も覚えていなくて……」
少年の困惑は、イサドラをさらに混乱させた。
「部屋を出たら、ハウエルと会ったの。色々と教えてくれたわ」
「なんだよ、それ……おい、お前! 適当なことをエイミーに教えるなよ!」
少年は一歩前に出ると、イサドラの手を引っ張る。
ハウエルに抱き寄せられたままだったイサドラは、体勢を崩しそうになった。
「いいか? お前はエイミーだ。俺と同じ村で生まれ育ったエイミーだ。赤ん坊の頃から一緒の俺が言うんだから間違いない!」
「え……?」
「嘘だよ、イサドラ! 真に受けたらダメだよ!」
「なっ!? そっちこそ! エイミー、そいつを信じるな! こっちにこい!」
少年とハウエルがイサドラを引っ張り合う。
イサドラは。エイミーは。
もうどちらの言うことを信じたらいいのかわからなくなってしまった。





