1-11 ふたつの岸のあいだ
二〇五二年――。
通貨危機と人口減少で没落した日本は、外国資本に「もてなし」を売る国になった。東京湾岸の保養区では、若い日本人男性が「文化案内人」として富裕な外国人に恋人めいた親密さを提供している。
北方連邦の監査官ミサキ・リンデ、四十一歳。不正調査のため来日した彼女の前に現れた案内人・水城怜司は二十四歳。好みの小説も香りも把握した完璧な青年——出会って七分で、演じているとわかった。
それでも彼女は、彼を帰さなかった。
彼は移住保証を欲しがり、彼女は騙されているふりを買う。互いを利用する二人は、保養区の裏に隠された資金洗浄へ近づいていく。
金も国籍も失った時、彼は誰を選ぶのか。
彼が私を愛していないことは、会って七分でわかった。
愛しているふりが、あまりに上手過ぎたからだ。
それでも私は、彼を帰さなかった。
◇◆◇
「海を渡った者は、ふたつの岸を故郷と呼ぶ。けれど、どちらの岸もその者をよそ者と呼ぶ」
羽田空港の北方連邦専用到着棟で、青年はそう言った。
手にしているのは私の名前を表示した端末だけだ。花もなければ、過剰な歓迎の身振りもない。濃紺のスーツは身体に馴染み、襟元には東京湾岸特別保養区の銀色の徽章が光っていた。
「遠野沙和子の『ふたつの岸』ですね」
私は立ち止まった。
「ご存じでしたか」
「大学で研究しました。知っている人は多くありません」
「母が好きだったんです」
嘘だろう。
遠野沙和子の小説は三十年前に絶版となり、北方連邦語版も出ていない。日本文学を専攻した者でも題名を知る程度だ。まして二十四歳の文化案内人が、空港で客を迎える言葉として暗唱する一節ではない。
私が十一年前に監査院の季刊誌へ寄稿した文章には、この一節が引用されている。
彼は私の論文を読んだ。
あるいは読まされた。
「水城怜司です。本日からリンデ様の文化案内を担当します」
彼は日本式に頭を下げ、私の姓を北方連邦の発音で正確に呼んだ。低く穏やかな声だった。周囲の喧騒に負けない音量でありながら、隣にいる私だけへ話しているように錯覚させる近さがある。
「ミサキで結構です」
そう答えると、怜司は一拍だけ待った。
「では、ミサキさん」
姓を捨てただけで、声に親密さが加わった。
訓練されている。
しかも、よく。
入国審査を抜けた時刻は十四時三分。彼が小説を引用したのが十四時五分。私の荷物の内、仕事用の黒いケースには触れず、私物の鞄だけを持つと申し出たのが十四時八分。十四時十分には、彼がまとった香りが白檀ではなく、雨に濡れた杉を模した北方連邦製の香水だと分かった。
母の遺品にも、同じ香りがあった。
偶然が三つ続けば、監査では意図を疑う。
七分で十分だった。
「コートをお預かりします」
怜司の指が襟へ伸びる。触れる前に止まり、私の許可を待った。
正しい境界管理。正しい視線。四十一歳の女の髪に混じる銀を見ないふりもしなければ、評価するようにも眺めない。
私はコートを脱いだ。
彼の指が肩口をかすめたのは、たぶん事故ではない。事故ではないとわかっているのに、薄いブラウスの下で皮膚だけが先に反応した。
情けない。
監査対象に心拍数まで記録されてどうする。
「長旅でお疲れでしょう。車内の温度は二十二度に設定しています。寒ければ、すぐに調整します」
「私の好みも資料に?」
「一般的な推奨温度です」
微笑は崩れなかった。
否定もしない。その曖昧さまで商品なのだ。
◇◆◇
専用車が空港の敷地を出ると、窓の外の東京はふたつに割れた。
左手には、部品を外されて赤錆の線だけになった旧モノレール。右手には、ミナト・ノルドへ続く外資専用道路。路面に埋め込まれた誘導灯が、昼間から青白く点っている。
高架下の薬局では、同じ薬にふたつの値札がついていた。
十二北方クレド。一万九千円。
薬効より先に、通貨が買える人間を選別している。
「日本は初めてですか」
「仕事では」
「では、旅行では?」
「母の葬儀で一度」
怜司の横顔から微笑が消えた。ほんの半秒だった。
「失礼しました」
謝罪は短く、慰めの言葉を足さない。それも私の好みだった。安い同情を嫌うと、過去の面談記録に何度書いただろうか。
彼の手元にどこまで渡っている?
私は車内端末を起動した。歓迎画面の下で監査用の暗号領域が無音で開く。
東京湾岸長期滞在者支援事業。北方連邦開発基金から今期だけで一億八千万クレド。文化交流、生活支援、医療連携。名目は美しい。数字の流れは美しくない。
案内人一人あたりの研修費が、北方連邦の若手外交官より高い。贈与管理会社への委託料は三年で四倍。さらに、用途の記載がない保証関連支出が毎月同額で計上されていた。
「車内でもお仕事ですか」
「数字は景色より正直なので」
「数字が嘘をつかないなら、嘘をつく人間を見つける仕事ですね」
「人間は数字ほど単純ではありません」
「残念です」
「なぜ?」
怜司は正面を向いたまま、窓に映る私へ視線を寄こした。
「単純な方が、喜ばせやすいので」
台詞としては露骨だった。だが、口説き文句と業務説明の中間に置かれると拒絶しにくい。拒絶すれば、自分だけが意味を深読みしたことになる。
よくできた罠だ。
そして私は、罠の構造がわかるものほど踏んでみたくなる悪癖を持っていた。
◆◇◆
ミナト・ノルドの検問所では、私の生体認証が済むまでに九秒かかった。
怜司の従業員証は三度読み取られた。
一度目は本人確認。二度目は勤務時間の開始。三度目は外国人滞在者と同伴していることの記録だった。
ゲート脇で、灰色の制服を着た日本人女性が警備機へ頭を下げていた。期限切れの仮証明では入区できないらしい。透明な仕切りの向こうでは、輸入食材を積んだ無人搬送車が止まりもせず通過していく。
人間よりチーズの方が、国境を越えやすい。
ゲートが閉じると、車内から街の匂いが消えた。
潮も、排気も、雨上がりのアスファルトもない。人工気候に濾過された空気は清潔で、季節の所在まで洗い流されている。
「区内では停電の心配はありません」
怜司が言った直後、窓の遠くで区外の集合住宅が一棟ずつ暗くなった。計画停電の時刻なのだろう。
「文化案内人の業務範囲をご説明します」
彼は端末に契約書を表示した。
「通訳、移動、買い物、食事、文化体験、安全確保。長期滞在中の生活上のご相談にも対応します。身体への接触は、安全上必要な場合か、お客様の明確な同意がある場合に限ります」
規約には、恋人役を禁じる条項も、認める条項もなかった。そこがこの商品のいちばん高価な部分なのだろう。
「恋愛感情は業務範囲に含まれますか」
初めて、彼のまばたきが遅れた。
「感情を契約書へ記載するのは難しいですね」
「記載できないものは売らない?」
「記載できないから、価値がある場合もあります」
声は穏やかなままだった。
この青年は問いをかわしているのではない。私が欲しがる答えの形を測っている。
「契約はいつでも解除できます」
怜司が続けた。
「本日中なら、違約金もかかりません」
逃げ道まで差し出す。自分から残ったと思わせるために。
解除すべきだった。
彼は私を調べている。私は監査官で、彼は監査対象企業に雇われた案内人だ。情報源として使うなら、なおさら距離を置くべきだ。
理由は十分にある。
それでも、解除ボタンへ指を置いた時、昨夜の食事が脳裏に浮かんだ。栄養値で選び、会議資料を読みながら一人で食べた、味の薄い豆の煮込み。母の死後、私の予定表には空白がなくなった。空白を埋めたのは仕事であって、人ではない。
「解除しません」
私は端末を閉じた。
「現地を知る案内人は監査に必要です」
「承知しました」
怜司は喜ばなかった。少なくとも、喜びを見せるほど下手ではなかった。
◆◇◆
滞在棟の部屋は母国の自宅より広かった。
冷蔵庫には輸入された牛乳と果物が揃い、窓の外では人工気候の遊歩道を中高年の滞在者たちが歩いている。その隣には、濃紺の制服を着た若い日本人の案内人がいた。誰もが近すぎず、遠すぎない距離を保っていた。
怜司は荷物を置き、明朝九時に迎えに来ると告げた。
「今夜、何か必要になったら呼んでください」
「業務として?」
「まずは」
微笑の角度がわずかに変わった。
私が望めば、その先があると思わせる角度に。
扉が閉じてから、室内端末が決済音を鳴らした。
画面は、私への請求と、それに連動して支出された公的補助を、ひとつの明細に並べていた。
文化案内料、三百二十クレド。
空港送迎費、四十クレド。
長期滞在者生活支援加算、百二十クレド。
公的補助の欄の最後に、見覚えのない項目が表示された。
――移住保証準備費、八百クレド。
案内料の倍以上。支払元は北方連邦開発基金。受取先は、案内事業者でも保養区運営会社でもなく、登録から三か月しか経っていない医療人材支援法人だった。
端末の表面が掌へ熱を返した。
私は監査領域へ明細を転送し、怜司との契約書を開き直した。保証準備費という語はどこにもない。
連絡先一覧の最上段に、彼の名前がある。
水城怜司。
呼び戻して問いただすべきか。泳がせるべきか。
迷っている間に、端末がもう一度震えた。
送信者不明。経路は区外の旧通信網を三度迂回している。
本文は一行だけだった。
――その男を信用しないでください。彼はあなたで四人目です。





