第30話 愚かな姫の哀艶のソナタ
~レオン~
空気が、凍り付いていく。
辺り一帯の気温が一気に下がる。
吐く息が白くなり足下にはいつの間にか霜が形成されていた。
彼女がレノラと呼んだ魔人は、この女に「死」を禁ずる”呪い”をかけた。
あれはただの言葉だ。何の魔力も呪力もない。
けれどこの女はこの先一生、この“呪い”に縛られていくのだと、俺は感じていた。
それでも、今はきっと関係ない。
何故なら、この女にはそれだけの力があるからだ。
“呪い”を守ったまま、おれはもちろん、『学者』も、僅かに生き残った仲間たちも、全員を一瞬で氷漬けにするだけの力が。
おれは不覚にも、それを望んでしまった。
これで死ねる。やっと死ねる。
散々仲間を死なせ、挙句、罪なき命までをこの手に掛けた。
その報いをやっと、”正当なる復讐者”の手によって受けられる。
しかもこの女は死なない。死なせたいとも思わない。
一段と気温が下がった。
地面に飛び散った紅と蒼の血までもが、凍結し始めた。
女は未だに俯いた姿勢のまま、顔も上げなければ、呪文の詠唱すらしていないが、それでも辺りは瞬く間に極寒の地と化していた。
震えが止まらない。
肺が、痛い。
全身から急速に体温が奪われていく。
おれはすでに感覚を失いかけている右手で、もう一度『黄金の魔剣』の柄を強く握りしめた。
魔の国の、最強の女王と戦って果てたのであれば、死んだ仲間たちも許してくれるだろうか。
——しかし、荒れ狂う冷気が静かにおれたちの身体を蝕み始めたその時だった。
「リコ……」
突然、氷解した。
まるで絶海の氷山が崩れ落ちるように。
氷の彫像が溶け出すように。
冷気が急速に弱まり、徐々に気温が戻っていく。
魔王の娘の脳裏に、リコのあの屈託のない笑顔が浮かんだであろうことが、おれにも分かった。
おれ達が死ねば、リコは死ぬ。
彼女が手を下さずとも、大人がいなければ人間の子どもは生きられない。
リコの両親がいても、それを守るおれ達がいなければ、あっという間に魔物か『大地の民』に殺される。
そして両親が死ねば、結局リコも死ぬ。すぐに死ぬ。
「子どもに罪はないわ……」
女がそう呟いた頃には、先ほどまでの冷気が嘘のように、もとの暖かな初夏の夜に戻っていた。
「……それに、国民が一人もいない国の女王なんて、滑稽だわ」
女はそう言いなおした。
相変わらず俯いたままだが、先ほどの呟きとは打って変わって、静かだが有無を言わせぬ強い響きが込められていた。
「——その不吉な魔剣を持って、私の前から消えなさい。そしてさっさと人間のくだらない争いを終わらせて。それができなければ、必ず私があなたを殺しに行くわ」
——また、死に損なってしまった。
おれは少なからず残念に思った。
「……分かった。約束しよう。おれが必ず、この戦を終わらせる」
けれど、おれはできる限り力強く頷いた。
「それから」
魔王の娘は静かな声で続けた。
「二度とくだらない争いが起らないようにして……」
……そんなことができるだろうか。
この戦を終わらせるだけでも至難。
ましてや、戦争のない世界を築いた者など未だかつていない。
それでも、おれはやるしかないのだと思った。
——そうだ。今分かった。
これこそが、勇者の末裔のおれに課された、生まれながらの宿命。
初めから、決められていたんだ。
だが、同時にこの誓いは、おれのせめてもの贖罪でもある。
これだけは、おれの意志。おれ自身の、おれだけの想いだ。
「おれの命はあんたに握られている。残りの生涯の全てを賭して善処すると誓おう。……言葉で足りぬなら、魔法の誓約を用意するが」
誓いを破った者に死をもたらす。
そう言う力をもった、魔導具がある。
太平の世なら禁忌のアイテムだが、今のような戦乱の世なら比較的簡単に入手できるだろう。
けれど、魔王の娘は首を振った。
「魔導具なんていらないわ。そんなものがなくても、あなたの命などいつでも奪いにいけるから」
そして女は初めて顔を上げて、おれを見た。
おれは思わずはっとした。
息を飲むほどに、美しい女だった。
その瞳が、おれを射抜く。
「私の言葉が、あなたへの”呪い”よ。民から、愛する者たちから呪われた——愚かな女王の呪い」
——そうして、魔王の娘はおれに”呪い”をかけた。
本当の呪いに、呪力など要らぬ。
ただの言葉がその心に、その魂に、深く深く楔を打って、決して離さないから。
そう。レノラという魔人が魔王の娘に掛けたあの”呪い”がそうであるように。
お読みいただきありがとうございました。
次がいよいよエピローグとなります。
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