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第26話:侵食

 壁に叩きつけられたミストは、ゆっくりと顔を上げた。


 視線の先で――


 バッシュの鎧が、黒く染まっていく。


 滲み出す魔力が、鎧を“侵食”していく。


 表面が泡立ち、歪み――


 ――そこに“顔”が浮かび上がった。


 笑っている。

 ――不快を催す悪魔の顔が。


 気持ち悪い――

 だが――飲み込む。


「この感じ……っ!」


 ケビンが息を呑む。


「市場に出た魔物と同じだ……!」


 人間を核に、魔物の力を被せた存在。


 あの時と、同じ――


「クク……その通りダ」


 低く、濁った声。


 もはやそれは、バッシュ本人のものではなかった。


「あの魔物にハ……俺の魔力も混ぜてやっタ……」


「……そういうこと」


 ミストは壁に手をつき、立ち上がる。


 全身が軋む。


 だが――倒れるわけにはいかない。


「この【イビル・メイル】デ――」


 黒い魔力が渦を巻く。


「お前達ヲ、皆殺しダァ!!」


 大剣が振り下ろされる。


「姐さん!」


 テオの叫び。


 だが、魔力は足りない。


(間に合わない――!)


「くっ――【試薬投与ケミカル・ウェポン】!」


 脚のベルトから試験管を抜き取る。


「【氷結】!」


 叩き割った瞬間、白い霜が爆ぜた。


「ナッ……!?」


 バッシュの身体が、鎧ごと氷に閉ざされる。


 動きが止まった。


 だが――


(残り、二本……)


 息を整える暇もなく、構え直す。


「こいつ……!」


 凍りついたはずの巨体が――軋む。


 ビシッ、と氷に亀裂が走った。


「うオオォォッ!!」


 粉砕。


 氷が弾け飛ぶ。


「効かねエ! この鎧の前ではナァ!!」


 大剣に黒い魔力が収束する。


「【イビルスラッシュ】……!」


「っ――!」


 横へ飛ぶ。


 直後、黒い斬撃が床を裂いた。


 石床が抉れ、深い亀裂が走る。


「次こそ終わりダ」


 迫る巨体。


 圧倒的な質量と殺意。


(……なら――)


 ミストは静かに息を吐いた。


 錬金グローブをはめた手の中指を、折る。


(“とっておき”を使うしかない――)


「僕達も戦います!」


 ケビンが前へ出る。


 魔法の虫眼鏡を構えた。


「【検視アナライズ】――!」


 視界が開ける。


 構造、流れ、歪み。


「――鎧の隙間です! そこが弱点!」


「だったら……!」


 もう一度、コモエディアから託されたナイフを左手で握る。


「【硬化剣ソリッド・ダガー】……!」


 錬金グローブが光る。


 刃が伸び、変質する。


 短剣は、剣へと姿を変えた。


「小手先ガァ……!」


 バッシュが踏み込む。


 だが――


「出し惜しみは無しよ」


 試験管を握り潰す。


「【試薬投与ケミカル・ウェポン】――【拳雷】……!」


 雷が走る。


 剣身を青白く包み込む。


(これで――終わらせる!)


「終わりダァ! 【イビルスラッシュ】!!」


「倒す――【纏雷・刺突】!!」


 激突――その瞬間。


「なっ……!?」


 彼の身体がよろめく。


「【脱兎】――姐さん!」


 テオが割り込んだ。


 体当たり。


「今です!」


 ケビンの声。


「【事跡チェイサー】! 急所はそこ!」


 視界に軌道が走る。


 線が、導く。


「――貫けぇぇぇっ!!」


 音が消えた。

 時間だけが、わずかに遅れる。


 そして――


 鎧の隙間へ、突き込んだ。


 雷が、弾ける。


「ガ――ッ……!?」


 衝撃が内部へと炸裂する。


 バッシュの身体が大きく仰け反る。


 剣を引き抜いた瞬間――


 血が、噴き出した。


「ぐ……ぁ……」


 膝が崩れる。


 巨体が、揺れる。


「俺は……こんな……ところで……」


 黒い魔力が、崩れていく。


 鎧の顔が、歪む。


「クソ――ガッ……」


 搾りだそうとした声は濁り、黒い魔力に飲み込まれた。


 そのまま前のめりに倒れた。


 重い音。


 それきり――動かない。


 鎧はひび割れ、崩れ――

 黒い霧となり、音もなく消えた。


「はぁ……っ、はぁ……っ……」


 ミストの肩が上下する。


 額から汗が滴る。


 アテルラナ以来の強敵だった。


「……死んだ……?」


 テオが呟く。


「……ええ」


 短く答える。


「仕方なかった」


 そう言いながら――


(……慣れたくない)


 胸の奥で、何かが軋んだ。


 特に人の命を奪うことに。


 慣れてはいけない。


「強かった……」


 錬金素材を大量に消費した。


 鋼鉄の拳も、魔術の試験管も残り1回ずつ――


「……行くわよ」


 振り返らない。


 前へ進むしかない。



 暗く湿った研究室。


 サイレンが鳴り響く。


「……やられたか」


 ドクトル・ヴィーアは、静かに呟いた。


 だがその目は――笑っている。


「実に興味深い」


 培養液に満たされた巨大な容器を見上げる。


「人間が魔へと至る過程……」


 視線がブレることなく、魔物へ注がれる。


 瞬間――耳元まで裂けた口が、吊り上がった。


「最早“人間”という枠に、価値などありません」


「……どういうことだね?」


 背後で、商会の会長が低く問う。


「魔物に匹敵するなら、人の身など不要です」


「違う。腕利きの用心棒と聞いていたが?」


「いやはや」


 肩をすくめる。


「出来の悪い奴らで申し訳ない」


 謝罪は軽い。


 だが、その手は止まらない。


「ですが――ご安心を」


 操作盤を叩く。


 ガコン、と音が鳴る。


 培養槽が開いた。


 青白い液体が溢れ出す。


「今こそ“完成体”をお見せしましょう」


 床へと落ちた二つの影。


 一つは――無数の蛇を生やした異形。


 もう一つは――両腕が鎌と化した怪物。


「ならば挽回しろ」


 会長は眼鏡のレンズを白く光らせる


 そして低い声で命令した。 


「侵入者を――排除せよ」


 その表情は冷酷だ。


「御意」


 魔物たちは、音もなく動き出した。



 地下通路。


「……あれは?」


 最初に気づいたのはテオだった。


 ズズ……と、這う音。


 暗闇の奥から、二つの影。


「魔物……?」


 ケビンが魔法の虫眼鏡を構える。


「【検視アナライズ】――」


 そして――


「……え?」


 言葉を失った。


「どうしたの?」


「……この魔力……」


 テオを見る。


 魔物を見る。


 交互に。


「まるで……同じ……」


「何言って――」


「やるしかない!」


 テオが駆け出す。


「待っ――!」


 止まらない。


「【乱風双牙】!!」


 刃が舞う。


 風が裂く。


 肉を斬り裂く。


「ウッ――テ……」


 声。


 ――人の声。


「……え?」


 テオの足が止まる。


 肉が、剥がれる。


 顔が、露出する。


 床に、崩れ落ちた――


「……お父さん……?」


 声を震わせ、絞り出した。


 もう一体。


 蛇の怪物が、ゆっくりと顔を晒す。


「お……お母さん……?」


 手から、短剣が落ちた。


 カラン――乾いた音が、やけに大きく響いた。


「そんな……」


 現実が、崩れる。


「テオの……両親……!?」


 ミストが息を呑む。


「最悪です……」


 ケビンが震える。


「魔力が完全に適合している……」


 もう戻れません。


 その一言が、胸の奥に重く沈んだ。


「お父さん……お母さん……」


 テオが歩み寄る。


 その瞬間。


「ウ――グオオッ!」


「危ないっ!!」


 ミストが飛び出す。


 突き飛ばす。


 鎌が振り下ろされる。


 床が裂ける。


「テオくん! ミストさん……!」


 ケビンの呼びかけに応じた。


「ええ……テオ!」


 呼びかける。


「戦わなきゃ――」


「無理だよ!!」


 叫び。


「助ける方法……あるよね!?」


 縋る声。


(……あるの?)


 ミストの拳が震える。


 敵だ。


 分かっている。


 でも――


(あたしが……この子の親を……?)


「それは――」


 言葉が出ない。


 その時。


 光が走った。


「避けて!!」


 ケビンの叫び。


 咄嗟に転がる。


 光線が床をなぞる。


 通った後が、岩のように硬直。


 当たれば――終わり。


「どうすれば……」


 テオは、もう戦えない。


 前には魔物。


 後ろにも戻れない。


 逃げ場はない。


 そして――


 “どちらかを捨てる”という選択だけが、残された。


(……やるしかないの?)


 ミストは、歯を食いしばる。


 震える拳を、無理やり握り潰す。

 ――どちらかを、選ばなければならない。

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