第13話:魔術師 リネア
数日後――あの戦いが嘘のように、街は静かだった。
あたし達は身支度を整え、ホテルをチェックアウトした。
「忘れ物、ないよね?」
荷物を軽く叩きながら振り返る。
「大丈夫だよ。買い物も完璧だし!」
ナキリが自信満々に胸を張る。
……その自信、どこから来るのよ。
一抹の不安を覚えつつも、あたしは肩をすくめた。
「それじゃ、船着き場に向かいましょうか」
あの騒動から数日。
街は何事もなかったかのように、いつもの喧騒を取り戻していた。
けれど、あたし達の旅は、まだ続いている。
港へ向かう足取りは軽い。
次の目的地はシンベリー。カイルさんの故郷だ。
「ちゃんと礼、言わないとね」
ぽつりと呟くと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
やがて辿り着いた港には、大型船が悠然と停泊していた。
「ミスト様とその御一行ですね? どうぞご乗船ください」
受付はすでに話が通っていたらしく、手続きは驚くほどスムーズに終わった。
船内へ足を踏み入れた瞬間――
軋む木の床の感触とともに、潮の匂いがふわりと鼻をくすぐる。
それに混じるのは、焼きたての肉や甘い菓子の香り。
「なになに……ビュッフェに演奏会まであるのか」
案内板を見上げ、トウマの目が輝いた。
「一週間の船旅だからね~」
「一緒に回りましょうね、トウマ♡」
ナキリが自然な動きで腕を絡める。
……ほんと、相変わらず。
その背中を眺めながら、あたしは小さく息を吐いた。
やがて、しばらくぶりの風が吹き、船体がわずかに震えた。
ゆっくりと港を離れていく。
遠ざかる街並み。
水平線の向こうに広がる、まだ見ぬ世界。
胸の奥が、じわりと熱を帯びた。
「……コモエディアも来ればよかったのに」
ぽつりと呟く。
あいつはマリッツァで別れた。
何か用事があるらしいけど――
悪魔の考えなんて、分かるはずもない。
それでも。
少しだけ、物足りなさを感じてしまうのは――きっと、気のせいじゃない。
――だが。
この時のあたし達は、まだ知らなかった。
魔王の領域へ近づくほど、世界そのものが牙を剥くということを。
「うぇぇ……船酔いヤバ……」
「トウマぁ、しっかりして」
出航して間もなく、案の定トウマはベッドに沈んでいた。
顔色は真っ青。完全にダウンしている。
「だから食べ過ぎるなって言ったのに……」
「くそっ……ビュッフェが……」
後悔するポイント、そこなのね。
ナキリが優しく背中をさする。
「ナキリ、看ててくれる? あたし、水とか薬探してくる」
「ええ、任せてちょうだい」
頷き合い、あたしは部屋を出た。
*
食堂に足を踏み入れた瞬間――
ざわめきと歓声が一気に押し寄せてきた。
「すげえ! 一発で治ったぞ!」
「次、お願いできますか!?」
視線の先――
人だかりの中心にいたのは、一人の少女だった。
とんがり帽子を深く被り、灰色の髪を揺らす小柄な体。
年は――どう見ても子供。
なのに。
周囲が無意識に距離を取っている。
「横になって。……体内魔力を調節する」
静かな声。だが逆らえない圧がある。
少女が手を取ると、淡い光が滲んだ。
「【調律】――ほら、直ったよ」
その瞬間。
ぐったりしていた男の顔色が、嘘みたいに戻る。
(……なに、あれ)
思わず息を呑んだ。
見ると、長い列ができている。
どうやら船酔いの治療をしているらしい。
「ねえ! あたしの連れもお願いできる?」
気づけば、声を上げていた。
少女はくるりと振り向き――
ほんのわずかに、笑った気がした。
だがすぐに次の患者へと向き直る。
……順番待ち、か。
しばらくして列が途切れた頃。
「お待たせ。……次は誰?」
ようやく声がかかった。
「あたしの仲間で、客室で休んでるの」
「ん……少し休憩したら行く」
短く答える。
「ありがとう。ところで名前、聞いてもいい?」
ほんの一瞬、少女は視線を逸らし――
「……リネア。しがない魔術師、よろしく」
「リネアちゃんね」
軽く手を振り、踵を返した――その瞬間。
ドンッ!!
床が跳ね上がった。
「きゃっ!?」
視界が揺れる。体が宙に浮き、背中に衝撃が走る。
息が詰まる。
「おっと……大丈夫?」
差し伸べられた手。
リネアちゃんだった。
「大丈夫。それより――」
言いかけて、言葉が止まる。
海が、盛り上がった。
いや、違う。
――“何か”が、海を押し上げている。
『皆様ご無事でしょうか!? 当船はただいまクラーケンと遭遇しました!』
魔術で拡声された声が響く。
直後、再び衝撃。
壁に叩きつけられ、肺の空気が一気に押し出される。
息ができない。視界が白く弾けた。
――いた。
巨大な影。
やがて影は濃くなり、海から突き出した。
うねる触腕はぬめりを帯び、光を鈍く反射していた。
窓越しでも分かるほど、腐った潮の匂いが風に乗って鼻を刺す。
「……なに、あれ……」
喉が渇く。声が震える。
「――あなた、一緒に来なさい」
隣で、リネアちゃんが立ち上がっていた。
迷いは、ない。
「助けてくれぇ!」
「死にたくねえ!」
船内は混乱の渦だった。
人波を押しのけて急ぐ。
そして甲板。
風が唸り、海が暴れている。
「来ましたか」
二人の魔術師がリネアちゃんに声をかけた。
「時間を稼いで。……あなたも」
見透かすような視線が、あたしを射抜く。
「分かった!」
何か策がある。
あたしは指示に従う。
「来るぞ! 合わせろ!」
空では鳥の翼が生えた魔術師が触腕を引きつける。
「【氷牙】!」
甲板にいる別の魔術師は、氷の刃で触手を切り裂いた。
「【剛皮】!」
続けてもう一人の魔術師が防壁を構築し、受け止める。
防ぎきれない。
次の瞬間には、もう目の前まで来ていた。
「あたしも――【魔風・連脚】!」
蹴り上げた風刃が、触腕を切り裂く。
だが。
切っても、切っても、止まらない。
「くっ……!?」
船に絡みつく触腕。
甲板が軋む。
このままじゃ――もたない。
「もう十分。終わらせる」
空気が、軋んだ。
その一言で、空気が張り詰めた。
重く、沈む。
呼吸すら圧し潰されるような圧力。
「――我が身を変えよ。【龍化】」
呪文が、途切れず紡がれきる。
小さな体が光に包まれる。
次の瞬間。
空を覆うほどの翼が、広がった。
「グオオオオオオッ!!」
現れたのは――龍。
巨大で、圧倒的で、理不尽な存在。
ただ“そこにいる”だけで、世界の格が変わる。
(……これが、リネアちゃん……?)
クラーケンが逃げる。
けれど――
(【並列演算】……【雷光】!)
無数の雷が、放たれる。
空間ごと裂くような閃光。
海面が爆ぜる。
触腕が痙攣し――沈んだ。
ふっと、音が消えた。
「……終わった……?」
耳鳴りがする。
立っているだけで、足が震える。
「いや、追い払っただけだ」
隣の魔術師が言った。
龍が降り立ち、光が収束する。
リネアちゃんに、戻る。
「……詠唱、稼いでくれてありがとう――」
ふらり、と体が揺れる。
「リネアちゃん!」
咄嗟に抱きとめる。
軽い。驚くほどに。
「大丈夫……ちょっと、疲れただけ……」
弱く笑い、腕の中で目を閉じた。
「助かった。感謝する」
振り向くと、毛皮のコートを纏った魔術師が立っていた。
低く通る声だった。場数を踏んだ人間の声だと、直感で分かる。
「俺はガルフだ。仲間内じゃ【氷狼のガルフ】と呼ばれている」
その背後に、二人の術師。
「我々は《獣翼術師》――グレイシャの魔獣ハンターだ」
「ミストです。冒険者よ」
短く名乗り返す。
「……部屋、連れていくね」
「頼む」
頷き合う。
荒れた海。
静まり返った甲板。
そして、新たな出会い。
「船旅くらい、のんびりさせてほしいんだけどな」
苦笑が漏れる。
けれど、遠くの海は、まだ不穏に揺れていた。
海は、まだ完全には静まっていなかった。
まだ、あの暗い海の底から見張られている。
そんな予感がした。




