第3話 聖女の化けの皮
王都結界に亀裂が入った――。
その報告は、わずか半日で王都中へ広がった。
市場では商人たちが顔を青ざめさせ、貴族街では馬車が慌ただしく行き交い、酒場では不安げな声が飛び交う。
「魔物が入ってきたらどうするんだ……」
「結界は絶対じゃなかったのか?」
「最近、郊外で魔獣を見たって話もあるぞ」
人は、“当たり前”が崩れた瞬間に恐怖する。
そして王宮では、その恐怖が怒号へ変わっていた。
「西部防衛線から救援要請です!」
「南区画の結界濃度が低下しています!」
「第五魔導塔、術式制御不能!」
「予算承認がまだ――」
「知らん! 後にしろ!」
もはや執務室は戦場だった。
机の上には書類が雪崩のように積み上がり、官僚たちは怒鳴り合い、魔導士たちは蒼白な顔で術式計算を続けている。
その中心で。
エドガーは完全に余裕を失っていた。
「だから! なぜ誰も対応できないんだ!!」
「殿下、各部署の連携系統が消滅しておりまして……!」
「意味が分からん!」
「これまで全体調整をされていたのがリディア様だったため――」
「またリディアか!!」
机を蹴り飛ばす。
ガシャン、と花瓶が砕け散った。
だが誰も止められない。
空気は最悪だった。
そんな中。
「で、殿下……」
おずおずとセシルが近づいてくる。
その手には手作りらしい包みがあった。
「お疲れだと思って、クッキーを焼いてきました……」
場違いだった。
あまりにも。
官僚たちの顔が引き攣る。
今この瞬間にも、防衛結界が崩れかけているのだ。
そんな状況で菓子作り。
だがエドガーは、癒やしを求めるようにセシルへ振り返った。
「ああ……セシル、お前だけだ。私の味方は」
「殿下ぁ……」
二人が寄り添った、その時だった。
「失礼いたします」
冷えた声が執務室へ落ちる。
入ってきたのは宰相グレゴリーだった。
白髪混じりの壮年男性は、普段なら決して感情を表に出さない。
だが今は違った。
明らかに怒っている。
「殿下。至急確認したいことがあります」
「……何だ」
「結界維持術式の更新許可証です」
「ああ? そんなもの知らん」
「知らん、では困るのです」
グレゴリーは机へ大量の書類を叩きつけた。
「王都結界は十日ごとに再調整が必要です。ですが、管理責任者欄が空白になっている」
「魔導士にやらせればいいだろう!」
「できません」
「なぜだ!」
「王家直属権限を持つ適合者しか触れられないからです」
その言葉に、エドガーは顔をしかめた。
「……適合者?」
「リディア様です」
またその名。
エドガーの苛立ちは限界だった。
「たかが侯爵令嬢だぞ!?」
「その“たかが侯爵令嬢”が、十年以上王国を支えていたのです」
空気が凍る。
グレゴリーは一切怯まなかった。
「殿下はご存じなかったようですが、リディア様は幼少期から王家術式への適性を認められておりました」
「そんな話、聞いたことがない!」
「当時の国王陛下が秘匿されていたからです」
エドガーは息を呑む。
初耳だった。
そんな重要な話、なぜ自分に伝えられていない。
いや。
伝えられていたのかもしれない。
ただ、自分が聞き流していただけで。
「……で、でも!」
焦ったように声を上げたのはセシルだった。
「結界なら、私の聖女の力でどうにかできませんか……?」
縋るような声音。
だがグレゴリーは静かに首を振る。
「聖女術式は治癒特化です。結界維持とは系統が違う」
「そ、そんな……」
「そもそも、貴女の奇跡は発動回数に限界があるでしょう」
セシルの顔色が変わった。
図星だった。
「……っ」
「昨日、東区画で治癒を行った際、気絶されたそうですね」
「そ、それは……!」
「聖女の力は万能ではない。違いますか?」
沈黙。
官僚たちの視線が、一斉にセシルへ向く。
今まで彼女は、“無限に奇跡を起こせる聖女”のように扱われてきた。
だが実際は違う。
重症者を数人治療すれば、数日は動けなくなる。
それを周囲が大げさに神格化していただけだった。
そして。
それを裏で支えていたのが、リディアだった。
治癒優先順位。
患者搬送。
予算調整。
医療物資管理。
セシルが“聖女らしく見える舞台”を整えていたのは、全てリディアなのである。
「…………」
エドガーの額を、冷や汗が伝った。
少しずつ。
少しずつ、理解し始めていた。
自分は、本当に何も知らなかったのではないか。
すると。
「し、失礼します!」
若い騎士が飛び込んできた。
「今度は何だ!」
「北門付近で魔獣出現です!」
その瞬間、室内の空気が変わる。
「結界の弱体化で侵入したものと思われます!」
「討伐隊は!?」
「すでに向かっていますが、市民に負傷者多数!」
「っ……!」
エドガーは息を呑む。
こんなこと、今まで一度もなかった。
王都は絶対安全だった。
それが当たり前だった。
なのに。
「殿下……」
セシルが不安そうに袖を掴く。
「怖いです……」
だが、その言葉に。
周囲の官僚たちは、初めて冷めた視線を向けた。
怖いのはお前だけじゃない。
皆、命が懸かっている。
なのに、この聖女は。
状況を変える術を何も持っていない。
その時。
宰相グレゴリーが、静かに口を開いた。
「……リディア様なら」
誰もが顔を上げる。
「あのお方なら、既に全て対処していたでしょうな」
その言葉は。
刃より鋭く、エドガーの胸へ突き刺さった。




