第2話 消えた“支え”
リディア・エヴァレットが王宮を去った翌朝。
王城は、かつてない混乱に包まれていた。
「なぜ北部視察の許可証がまだ降りていない!?」
「南方貿易の契約書類が未処理です!」
「第二魔導塔の維持予算が消えております!」
朝から怒号が飛び交い、廊下を駆け回る官僚たちの顔は青ざめていた。
机の上には未処理の書類が山積み。
印章待ちの案件は滞留。
各部署からの確認要請は止まらない。
それはまるで、“たった一本の柱”を抜いた瞬間に建物全体が軋み始めたかのようだった。
だが。
当の本人は、その異常を理解していない。
「……うるさいな、朝から」
王太子エドガーは、不機嫌そうに眉を寄せた。
昨夜は祝杯だった。
ようやく鬱陶しい婚約者を追い出し、愛するセシルと結ばれた記念の日。
本来なら、晴れやかな朝になるはずだったのに。
「殿下! 緊急です!」
執務室へ飛び込んできたのは、側近のレナードだった。
いつも冷静な男だが、今日は珍しく額に汗を浮かべている。
「何だ」
「各部署が大混乱しております! 承認待ち案件が処理できません!」
「そんなもの、お前たちでどうにかしろ」
「無理です!」
思わず、といったようにレナードが声を荒げた。
「これまでリディア様が管理されていた案件の引き継ぎが、一切存在しないのです!」
エドガーは眉をひそめた。
「……は?」
「予算配分、魔導結界維持、地方貴族との調整、外交日程管理、王都流通管理――全てです!」
「そんな馬鹿な話があるか!」
エドガーは机を叩いた。
「たかが侯爵令嬢一人抜けた程度で、王宮が止まるわけないだろう!」
「ですが実際に止まっているのです!」
レナードの声は切羽詰まっていた。
「昨夜から結界制御値が不安定化しています! さらに西部穀倉地帯への輸送許可も止まったままで――」
「だから! お前たちが対応しろと言っている!」
怒鳴った瞬間。
今度は別の官僚が転がり込むように執務室へ飛び込んできた。
「殿下、大変です!」
「今度は何だ!」
「北方伯が激怒しております! 本日の会談予定が消えていると!」
「消えている?」
「日程表そのものが存在しません!」
「はぁ!?」
意味が分からなかった。
会談日程が消える?
そんな馬鹿なことがあるか。
だが官僚は泣きそうな顔で続ける。
「これまで全て、リディア様が管理されていたようで……」
「またリディアか!」
エドガーは苛立ちを隠さず吐き捨てた。
朝から何度その名前を聞いただろう。
まるで皆が口を揃えて、“リディアがいなければ何もできない”と言っているようだった。
そんなはずがない。
あの女はただ、口うるさく指図していただけだ。
いつも偉そうに。
自分を導くような顔をして。
エドガーはそれが気に入らなかった。
王太子は自分なのに。
なのに周囲は皆、リディアの判断ばかりを頼りにしていた。
だから追い出した。
ようやく、自分が自由になれると思った。
それなのに。
なぜ今さら、全員が困り始めるのか。
「殿下……」
そこで、控えていたセシルが不安そうに袖を掴いた。
「皆さん、余裕がないみたいです……。私、何かお手伝いできませんか?」
その可憐な姿に、エドガーは少し気持ちを落ち着かせる。
「気にするな、セシル。お前は優しいな」
「でも……」
「大丈夫だ。どうせリディアが、嫌がらせのために仕事を放り出しただけだろう」
その言葉に、レナードが目を見開いた。
「殿下、それは違います!」
「あ?」
「リディア様は昨夜まで、通常通り全業務を処理されていました! むしろ限界以上に!」
「……ならなぜこんなことになる」
「それは……」
レナードは言い淀む。
言いたくなかった。
だが、もう誤魔化せない。
「……リディア様しか、全体を把握していなかったからです」
沈黙。
エドガーの顔が、引き攣る。
「馬鹿な」
「殿下がご覧になっていたのは、完成後の報告書だけです。調整、交渉、修正、根回し、その全てをリディア様が――」
「黙れ!」
怒声が響いた。
エドガーは苛立ちのまま立ち上がる。
「まるで私が無能みたいな言い方だな!」
「そのようなことは――」
「お前たちが勝手にリディアを持ち上げていただけだろう!」
その瞬間だった。
――ゴオォォン。
低く、重い音が王城全体を揺らした。
空気が震える。
窓ガラスがびりびりと鳴った。
「な、何だ!?」
官僚たちが顔を青ざめさせる。
次の瞬間。
王宮魔導士が血相を変えて飛び込んできた。
「殿下!!」
「今度は何だ!」
「王都結界に亀裂が発生しました!!」
空気が凍った。
「……は?」
「第三防壁術式が崩壊寸前です! 魔力循環が停止しています!」
「そんなこと、あり得るか!」
「現に起きております!!」
魔導士は半ば悲鳴のように叫んだ。
「術式認証が切断されているのです! 制御核が反応しない!」
エドガーは理解できなかった。
王都結界は、数百年続く王国の守り。
そう簡単に壊れるものではない。
なのに。
「原因は何だ!」
「それが……」
魔導士の顔から血の気が引いている。
「主制御権限者の消失反応が出ています」
「……主制御、権限者?」
「はい」
魔導士は震える声で告げた。
「登録名――リディア・エヴァレット」
その瞬間。
昨夜、彼女が最後に残した言葉が脳裏をよぎった。
『どうか、その選択を後悔なさいませんよう』
初めて。
本当に初めて。
エドガーの胸に、得体の知れない不安が生まれた。




