第1話 婚約破棄の夜
王宮大広間には、夜空を閉じ込めたような光が満ちていた。
巨大なシャンデリアから零れる黄金色の輝き。
磨き抜かれた白大理石。
幾重にも重なる楽団の旋律。
色鮮やかなドレスと宝石が揺れ、貴族たちの笑い声が波のように広がっていく。
春季夜会――王国でもっとも格式高い舞踏会。
本来ならば、未来の王妃として王太子の隣に立つ侯爵令嬢リディア・エヴァレットが、祝福を一身に受けるはずの夜だった。
だが。
「……見て。あれが王太子殿下のお気に入りらしいわ」
「平民の聖女でしょう?」
「婚約者がいるのに、堂々となさるのねぇ」
囁き声は、隠す気すらない。
リディアはグラスを静かに置いた。
視線の先では、王太子エドガーが一人の少女を伴って歩いている。
柔らかな栗色の髪。
守ってあげたくなるような潤んだ瞳。
白を基調とした清楚なドレス。
平民出身の聖女、セシル。
エドガーは彼女の腰を抱き寄せるようにして歩き、その顔には隠そうともしない優越感が浮かんでいた。
――とうとう、この日が来たのね。
リディアは静かに目を伏せる。
予兆はあった。
半年ほど前から、エドガーは政務を投げ出し始めた。
リディアが整えた書類には目も通さず、外交会談にも遅刻し、最近では聖女セシルを連れて茶会遊びに耽っているという噂まで耳に入っていた。
それでもリディアは支え続けた。
王太子妃になるためではない。
王国が崩れないようにするためだ。
王族が知らない書類仕事。
派閥調整。
貴族間の仲裁。
結界維持の魔導計算。
表に出ないそれら全てを、彼女は十六の頃から背負ってきた。
だが――。
「リディア・エヴァレット!」
突然、大広間に響き渡った声で、ざわめきが止まる。
楽団の演奏すら途切れた。
誰もが振り返る。
大階段の上。
王太子エドガーが、高らかに宣言した。
「私はここに、リディアとの婚約を破棄する!」
一瞬。
本当に一瞬だけ、空気が凍った。
そして次の瞬間、大広間は爆発したようなざわめきに包まれる。
「婚約破棄……!?」
「こんな正式な夜会で!?」
「まさか本当に……」
貴族たちの興奮した視線が、一斉にリディアへ突き刺さった。
だが彼女は微動だにしない。
ただ静かに、王太子を見上げていた。
エドガーはその落ち着いた態度が気に入らなかったのか、さらに声を荒げる。
「リディア! お前は冷酷で傲慢だ! 常に私を見下し、王妃教育を盾に周囲を支配していた!」
馬鹿らしい。
本気でそう思った。
見下していたのではない。
尻拭いをしていただけだ。
だがリディアは口を挟まない。
代わりに、エドガーの隣にいるセシルが、おずおずと前へ出た。
「や、やめてください、殿下……。リディア様も、きっと傷ついて……」
その声音は震えている。
けれど。
リディアは知っていた。
その伏し目がちな顔の奥に、勝者の愉悦が隠れていることを。
「セシルは優しい! 身分に囚われず、民を愛し、誰にでも手を差し伸べる!」
エドガーは酔ったように叫ぶ。
「それに比べてお前はどうだ、リディア! 民を数字でしか見ない冷血女め!」
――数字で見なければ、国は滅ぶのよ。
喉まで出かかった言葉を、リディアは飲み込んだ。
この場で言ったところで意味はない。
エドガーはもう、“現実”を見ていない。
「さらに調査の結果、お前が聖女セシルに嫌がらせをしていたことも判明している!」
その瞬間、周囲から非難のざわめきが起こる。
「まぁ……」
「やはり悪役令嬢だったのね」
「聖女様を虐げるなんて……」
リディアはゆっくりと視線を巡らせた。
貴族たち。
官僚たち。
王宮勤めの者たち。
その中には、これまで彼女が助けてきた者も大勢いる。
彼らは皆、今は他人事の顔でこちらを見ていた。
……そう。
結局、人は“勝っている側”につく。
ならば。
好きになさればいい。
「何か言うことはないのか!」
怒鳴るエドガーに、リディアは静かに一礼した。
その所作は完璧で、あまりにも美しい。
だからこそ、逆に場が静まる。
「承知いたしました、エドガー殿下」
「……っ」
エドガーの眉がひくりと動く。
泣き叫ぶと思っていたのだろう。
縋りつくと思っていたのだろう。
だがリディアは違った。
ただ淡々と、婚約者として最後の礼節を尽くす。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
ざわり、と空気が揺れた。
あまりにもあっさりしていたからだ。
セシルですら、一瞬だけ戸惑った顔を見せる。
リディアは続けた。
「ただ、一つだけ」
静かな声。
けれど不思議と、その場の誰もが息を呑む。
「どうか、その選択を後悔なさいませんよう」
その瞬間だった。
王宮全体が、微かに震えた。
――ビキッ。
どこか遠くで、硝子に亀裂が入るような音がした。
リディアだけが、それが何の音かを理解していた。
王都を覆う、古代魔導結界。
その制御式が乱れ始めている。
原因は単純。
術式維持者であるリディアの権限が、王家から切り離されたから。
だが、誰も気づかない。
エドガーすら、苛立ったように鼻を鳴らしただけだった。
「強がりを」
強がり。
そう思うなら、それでいい。
リディアは静かに踵を返した。
長い銀髪が揺れる。
もう、この場所に未練はない。
すると背後から、セシルの声が飛んだ。
「リディア様!」
リディアは立ち止まる。
「……殿下を、恨まないでくださいね?」
勝者の声音だった。
可憐な顔に隠された、優越。
それを聞いた瞬間。
リディアは初めて、ほんの少しだけ笑った。
「ご安心を」
振り返った彼女の微笑みは、美しかった。
あまりにも。
だからこそ、セシルの背筋が凍る。
「もう、興味がありませんので」
その言葉を最後に。
リディア・エヴァレットは、王宮を去った。
そして――。
その夜を境に。
王国は、静かに崩壊を始める。




