第五十一話
煙草に火を点ける。紫煙が燻り風に吹きさらされていく。やつに殴られた口の端がちくりと沁みて、ぺっと血の混じる唾を吐き捨てる。身体中がぎしぎしと痛む。思い切り殴りやがってあの野郎。こちとら喧嘩は慣れてねえんだぞ。これだけ殴られたのは、数年前所帯持ちに手を出して以来だ。ああ腐々する。
バルコニーでひとり酒を呷りながら君のことを考える。セデュイールに連れ去られた君のことを。
「なーにたそがれてるんですかあ。自分に酔ってますよね? これだから役者は…」
腕を後ろで組んでひょっこりと顔を出したのはロレンツォだ。やつもセデュイールに去られて忸怩たる思いがあるのか、俺に絡んで鬱憤を晴らそうって腹だろう。ぶつぶつと独り言のような繰り言を論う。
「まったく、あんなひとのどこがいいんだろう! マルセル様もセデュイール様も! ボクのほうがぜったい魅力あると思うんですけど! 色気だってあるしい、顔もカワイイしい、体つきだって…むしゃぶりつきたくなるような感じだと思いません? この腰の線!」
「あーはいはい、可愛い可愛い」
「適当に受け流さないでくださいよお! だいたいなんで何もせずに行かせちゃったんですかあ? あれだけ大騒ぎして、商売道具に傷までつけて! もっと粘らなきゃ駄目じゃないですかあ! 役立たず!」
「そうは言ってもなア…」
キーキー感情のままに喚きたてるロレンツォに苦笑し視線を逸らす。滑るように幾台もの車が夜の街を走っている。そのうちのどれかに、君はヤツとふたりでいるのだろうか。
セデュイールとの殴り合いのさなか、君の瞳がセデュイールしか追っていないことに気付いていた。これまでもずっとそうだったことに、俺は気づいていて、気づかないふりをしていた。悪あがきしていたんだ、君が欲しくて。
君の心に居座ったセデュイールを、俺が押しのけることはできないんだと君は言う。その意味を、思い知らされる。
それでもいいなんて食い下がるほど情けない男に俺が成り下がっても、君は首を縦に振らない。悲しげな瞳で俺の手を離して、「ごめんね」なんて言う。君のことを考えると今でも胸が苦しくなる。俺はこんな弱い男じゃなかったはずだ。逃げる相手はとっとと見限って、次の恋人を探せばいい。一夜限りの恋なんて何度もしてる。君だけ特別だなんて、そんなことはないはずだ。それなのに、君が心から離れない。
「あなたならルーシュお兄様をモノにできると思ったから同盟を結んだのになあ。がっかりですよーもう! こんなへたれだったなんて! みんなみんな、あの性悪に騙されて!」
「性悪? 自己紹介か?」
「ルーシュお兄様のことに決まってるじゃないですかあ! 知ってますう? あのひとセデュイール様のマネージャーにまでコナ掛けてるんですよお。どれだけ浮気性なんだろ。信じらんない!」
「そういうやつじゃないよ、あいつは…」
「ほら騙されてる! いいひとぶってるのも、かよわい感じ出してるのも、ぜーんぶお芝居ですよ! 『こいつには俺がついてなきゃダメなんだ…』って男の人に思わせるのが狙いなんです! みえみえですよ!」
「お前の言う通りの相手だったら、簡単に堕とせたろうになア…」
「もー! ここで諦めるんですかア!? もっともーっと引っ掻き回してくださいよお! あのひとだけ幸せになるなんて許せない、ボクは、ボクなんか、セデュイール様に嫌われちゃったのに、あのひとのせいでっ…」
ロレンツォの黒い瞳にみるみる涙が盛り上がり、バルコニーに蹲ってわんわん泣き出す。あんまり大きな声で泣くものだから、会場にいる面々から何事かという目で見られる。まるで俺が泣かせたみたいだ。勘弁してくれ、子守は御免だぞ…。
「ガキじゃねえんだから泣き喚くな鬱陶しい。あー、なんだ、煙草吸うか?」
「要りませんよお…あのひとがいなくなった途端、そうやって口が悪くなってっ…ボクにもっと、優しくしてくださいよお…あのひとばっかり、ずるいぃぃ…」
「まずはその性根を叩きなおさねえと、無理だろうな」
街灯のオレンジの光が煌々と街を照らす。夜に包まれて、たしかに一瞬だけ俺の腕の中にいた君を想う。君の笑顔と、軽やかな声と、中性的なその身体つき、折れそうに細い腰、初めて触れた君の身体の線、口の中の味、甘い香りを想う。
…とうぶん次の恋はできなそうだと、俺は胸の底にある苦い思いを煙と一緒に吐き出した。
病院で先生にセデュともども診てもらって、大丈夫だってお墨付きをもらって、タクシーでホテルまで帰る。目と鼻の先だから歩いてもよかったんだけど、過保護なセデュは首を縦に振らなかった。
ホテルについて、ロビーでマチウやバロットと別れ、セデュとふたりで部屋まで行く。
僕の部屋の前に着くとセデュは僕の目を覗き込んで、キスされるのかな、なんて期待する僕を他所に、父さんみたいな言葉を並べる。
「暖かくして、ゆっくり眠るといい、疲れただろうから…明日の朝、起こしに来る。10時でいいか」
「ゆっくりすぎだろそれ。もちょっと早くてもいいよ…というか、」
僕は急になんだか恥ずかしくなってきて、もじもじとセデュの裾を摘まむ。なんて言おう、抱いて、とかは直接的すぎるし、もうちょっと一緒にいたい、とか? せっかく君が僕のところに来てくれたんだから、もうちょっと味わっていたい。こんなんじゃ全然足りないんだもの。…。
「今夜は、…傍にいてくれない、かな? きみが嫌じゃないなら…」
「…いいのか、部屋に入っても…」
「もうバレちゃったし。あんな大立ち回りしといて、今更だろ?」
「それは…すまなかった、もっと冷静になるべきだった」
「いいよ。驚いたけど…もう二度とあんなふうにしてほしくないけど…すごく怖かったから…」
「…」
セデュは僕を優しく抱き寄せて、もういちど「すまなかった」と謝る。
僕は彼の背中に腕を回して、ぎゅうとしがみ付く。君の甘い香りに頭がクラクラしてくる。まだ部屋に入ってないのに、腰が抜けそう。やばい、久しぶりにセデュの愛情を全身に感じて、嬉しくて、されるがままになっちゃいそうだ。
「君が傷つくのが怖かった、後遺症が残ったらどうしようって、骨が折れたらどうしようって考えていたら、どんどん怖くなって…もう喧嘩はしないで、おねがいだから…」
譫言みたいに呟く僕にセデュは頷いて、きつく抱きしめる。チン、とエレベーターが鳴って降りてきた老夫婦にぎょっとしたような目を向けられ、僕は慌てて彼から身を捥ぎ離し、汗で滑る手で鍵を回す。慌てていてうまくできずもたつく僕の手にセデュの温かな手が重なり、がちゃりと鍵が開けられる。ガチャリと扉を開け、セデュの手を引いて中に飛び込み、バタンと閉める。もどかしいようなセデュの掌が僕の頬を撫でて上を向かせる。目を瞑れば君はキスをくれる。数週間ぶりの唇へのキスだ。頭がどんどんぼんやりしてくる。
君にしがみ付いて、入口の絨毯のところで、僕たちはキスをする。まだ足りない、もっともっとって頭の中で喚く声がする。唇を開くと彼の舌が躊躇いがちに触れてくる。僕はベロを伸ばしてそれに応えて、君の舌の味に酔う。
「ベッド、行こ、このままシよ…」
「ゴムがないからダメだ、最後までは…」
「ナマでいいのに…」
「絶対にダメだ」
「僕の荷物に、入ってたかも…ちょっと待ってて」
逸る気持ちを必死に抑えてクローゼットに飛びつき、トランクを引き摺りだして掻き回す。ぽいぽいと放られる僕の衣類やスコアやなんかを、いちいちセデュがかき集めてくれている。いつもの距離感だ。いつもの、僕とセデュだ。また嬉しさがこみあげてくる。もう二度とこんなふうには戻れないんじゃないかって思っていたから、猶更だ。
「あったよほら! じゃーん! 20回はできるよ!」
「…そんなにしたら身体がもたないだろう、お前は…」
「なんだいそれ、君はできそうな口ぶりじゃないか! …えマジ? できるの?」
「……」
耳朶を赤く染めて黙り込んでしまうセデュがかわいい。彼の体力なら本気でできそうにも感じてそれはちょっとした脅威だけど…。とにかく、これで今夜はセデュに抱いてもらえる! やったー! 明日は撮影もないし、多少羽目外してもオーケーだよね!
「脱いで、一緒にシャワー浴びよ? 借り物の服汚したら悪いし! あ、手伝ってあげようか? 君の服脱がせてみたいな! すごくエッチな感じがする! ねえいいでしょう?」
「…わかったから、少し落ち着きなさい…」
「落ち着いてなんてられないよー! 久しぶりのセックスだもん、目いっぱい楽しみたいんだよ!」
「お前が、前向きになってくれたのは、嬉しいが…」
もごもご言う彼に構わずシャツのボタンを外し始める僕にセデュは堪えきれないように笑って、僕の脇腹を小突く。僕は高い笑い声を挙げて身を捩りながら、借り物の衣服を脱ぎ捨てた。




