第四話
「セデュはさあ、どうやってセリフおぼえてるの?」
大理石のテーブルにぺったりほっぺたをくっつけて脱力した僕は傍らのセデュを見上げる。大理石は冷たくてきもちいい。沸騰した脳みそが冷やされてく感じがする。
「移動中などに一度最後まで読んで、内容を把握して…身体を動かしながらだと、入りやすいかな」
「セデュは優等生だもんなア…そういえば僕、成績落ちこぼれだったんだよなー暗記とかまじでむりー」
「読んで覚えるのが難しければ、書いて覚える役者もいるが…おまえは耳がいいから、録音した声を聞くと覚えやすいかもしれないな…」
一気にセリフと出番が増えた僕を気遣って、セデュは一緒に考えてくれる。
いつもの白シャツにラフなグレーのカーディガン姿のセデュは縁なしの眼鏡をかけて長い脚を組み顎に手をあて、真剣な瞳で脚本を睨んでる。眉間に皺まで寄ってる。僕がやるって言ったから、彼も本気でつきあってくれてるんだ。うう、嬉しい。と同時に考えの甘いボケナスな自分を殴りたくなってくる…。こんなことで、本当に役者なんてできるのだろうか。
「このはなしの僕の役、君のことがすきみたい。監督も、僕らのこと知っててこんなふうにしたのかな?」
「そうとは限らないだろう…あまり余計なことは考えない方がいい」
「でもさ、もし…現場入りしたときにヒソヒソされたらどうしよう、とか…まじで今更なんだけど…」
「堂々としていればいいさ。誰に迷惑をかけているわけでもないのだから」
「…きみって案外、自信満々だよね…」
「そういうわけでもないが…」
「ね、よみあわせ、してもいい?」
「…ああ」
脚本をパラパラ捲って、ミーチャとアリョーシャの場面まで飛ばして、僕の素人臭い棒読みと、セデュの淡々とした声が交互に聞こえる二人きりの客間は、張り詰めたように静かだ。ハウスメイドたちも、みんな気を遣って座を外してくれている。
…こんなふうに、ヒトの書いたセリフを読み上げるのはそれこそ、小学校の授業で音読して以来、かも。小学校を休みがちだった僕はあまりその経験もないんだけど。
学芸会だとかで芝居をしたこともない僕はただセリフを読むのに一杯一杯で、とても覚えるとかそういう段階じゃない。なんだか冷や汗が出てくる。もー、なんで承諾しちゃったんだ僕! ずるずると腰かけていたソファからずり落ちてだんだん液状になる僕をセデュの真摯な声が引き摺り戻す。
「――この世で俺が愛しているのは、お前ひとりなんだから」
「うわっ」
「…」
「…」
「…どうした」
「え、へへ、何でも…もう1回言って?」
「俺が愛しているのは、お前ひとりだ」
「ひゃああ…」
「…」
「も一回、おかわりお願いシマース…」
「…遊んでいるな…」
セデュは全然真面目にできない僕に付き合ってくれて、その日は寝るまで台本と睨めっこしてた。
…久しぶりにセックスしない、ド健全な夜を迎えられたのだから、僕の決意もまったくの無駄じゃなかった、のかもしれない。
衣装合わせをしてくれたのはお姉さん言葉で喋るすらりとした男の人だった。片側だけのボブカットで後は刈り上げてる独特の髪型で、髪色は真緑だ。僕の腕の長さだとか、ウエストだとかを図っては「んまーッ」「あらあら」とか言ってる。
衣装合わせはパリ6区、リュクサンブール公演のすぐ近くの、デザイナーさんの事務所で行われた。まあまあ近所なので、移動の手間もかからない。セラノの運転で事務所の前で下ろしてもらって、僕は3階にある事務所に向かった。ちなみにセデュは、一足早く衣装合わせを済ませてしまったらしい。
デザイナーさんの事務所はお針子さんがたくさんいて、絶賛製作中って感じだ。サテンやシルクの布地を大きく広げた部屋に、女の子たちが群がってる。刺繍や真珠の縫い付けなんかも全部手作業らしく、わいわいと口と手両方動かしながら罵り合ったり褒め合ったりのアンサンブルを奏でている。なかなか壮観だ。
作業場はちらりと見ただけでもう少し狭い部屋に通され、巻き尺を構えたデザイナーさんと秘書っぽい女の人が僕を迎えた。
それで今は下着姿になって、あちこち図られているってわけだ。ぎゅうとウエストを締め付けられたときは「ぐえ」って変な声が出ちゃった。
「ちょっとちょっとリーヴェちゃん、あなた内臓入ってるの? ちょっと細すぎない? 心配になるわー。ねえパトリシア見てよ、この驚異のウエスト! 男の子でこれよ!? 信じられる!?」
「ムッシュ・リーヴェはモデルさんのようなスタイルですね、とムッシュ・オービットは申しております」
「ちゃんと普段食べてる? 野菜とか果物だけじゃだめよ、この仕事するなら、スタミナがつくものちゃんと食べないと!」
「ムッシュ・オービットはムッシュ・リーヴェの食生活を気にされています。ちなみに今朝の朝ごはんは何でしたか? 差支えのない範囲でお教えください」
「だからって食べ過ぎて衣装が入らなくなっても困るんだけどね! 今回は体にフィットしたドレスとかも着てもらう予定だから!」
「ムッシュ・オービットはムッシュ・リーヴェの体形を気にされています。どうぞスタイルの維持をお願いします」
衣装合わせの部屋にはデザイン画がいくつも壁に貼られている。今回の映画の衣装デザインだろう。あそこに貼ってあるのはもしかして、セデュの衣装かな。19世紀ロシア風の、キュッとウエストの締まったグレーのテールコートに、ぴったりしたパンタロンにブーツ。しどけない白シャツにベスト姿の絵もある。きっとセデュはどれもよく似合うんだろうなア。手の付けられない乱暴者で、破天荒で、めちゃめちゃにモテるドミートリーの役だから、だらしないセデュの演技も観られそうで、わくわくする。
「うおっ」
「ちょっとパトリシア見てよこの脚の細さ! 太腿が太くないんだけど!? これでこの子、モデルじゃないなんて考えられる!? 今までこの業界にいなかったのが信じられないんだけど!!」
「ムッシュ・オービットはムッシュ・リーヴェのスタイルに驚嘆されております。ムッシュ・リーヴェのご職業を侮辱する意図はございませんので、悪しからず」
「わ、わかってるから…ちょっと力を緩めてほしい…」
「ああら。ごめんなさいねえリーヴェちゃん。ついつい白熱しちゃって…このスタイルなら、没にした案の方が似合うかもしれないわね。パトリシア! 前のクロッキー帳もってきて!」
「畏まりました」
「うーん、次々アイデアが湧いてくるわア。ちょーっと待っててねリーヴェちゃん、あなたのために、最高の衣装を用意してあげますからねえ…」
プロの仕事は信頼に足るものだと思うので、不安は何もない、んだけど。
底光りする黒い瞳を細めてにんまり笑うオービットさんに、僕はちょっと引きつつ、苦い笑いを返した。
ミッドナイトブルーのシルクとか、純白のモスリンなどなど、色んな布を充てられたり既に8割できかかっている衣装を着せられたりして、その日は日が沈むまで僕は帰らせてもらえなかったのだった。




