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≪第七部≫ウンディーネは深更に満ちる ーカラマーゾフ編ー  作者: 咲佐きさ


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第四十八話

「――君たちのおかげで、素晴らしい映像が撮れたと自負している。生涯最高の作品になった。何十年経っても色褪せない名作だ。実に素晴らしい、感謝するよ、」

 赤ら顔の監督が杯を掲げ、同席した面々もそれに倣う。

 僕はそれをすこし離れたテーブルから眺める。監督の右隣にはロレンツォ君がいて、左隣はセデュだ。目を伏せ楚々とした面差しで形式的にグラスを持ちあげる。でもセデュはお酒が苦手だから、きっと飲むふりだけだ。つい先日まで手の付けられない乱暴者のミーチャを演じていたおなじ人とは思えないくらい、物静かで理知的な雰囲気だ。じっと見つめる僕の視線に気づいたのか、ついと彼の目がこちらを向く予感がして僕は目を逸らす。僕は隣に座したマルセルに話しかける。

「監督、もう酔っぱらってない?」

「昨晩から飲みっぱなしだったみたいだねえ。今日もいつまで起きていられるか…」

 苦笑交じりのマルセルの声を聞き流しながら僕はベージュ色のテーブルクロスに目を落とす。監督の挨拶が終わり、ぱちぱちと拍手が起こる。司会を務める役者さんが何か言って、奥で控えていたオケの演奏が始まる。シュトラウスの『トリッチ・トラッチ・ポルカ』だ。重厚な作品ばかり撮る権威ある監督はクラシックがお好きらしい。

 同じテーブルの役者さんたちは和やかに歓談している。たまに僕にも水を向けられ、適当に相槌を打つ。ウエイターが蜜を求める蝶のようにテーブルからテーブルへと軽やかに行き来し、空いたグラスに酒を注ぐ。広間の壁際にはばかでかいデコレーションケーキとか、一口サイズのパイとか、ローストビーフにサラダに果物、ポテトにカツレツなどなどが並べられている。バイキング形式の軽食パーティーというやつだ。撮影が無事終了した記念の会で、役者もスタッフさんもみんな参加している。

 男ばかりとは聞いていたけど、一堂に会するとなかなかに迫力がある。バロットみたいにでかいムキムキのスタッフさんもちらほらいる。そんななかでは小柄で華奢なロレンツォ君の、溌剌な少女めいた愛らしさが際立っている。それとセデュの凛とした清潔感のある美貌が、やっぱり目を惹く。監督の両側で、とびきり上等な花が二輪咲いているって感じだ。

「踊らないかい?」

 自棄みたいにグラスを重ねる僕にマルセルが声をかける。曲はいつの間にか『美しき青きドナウ』に代わっている。そういえばここはウィーンだった。あたりを見回すと、男同士手を取り合って揺れている姿がちらほらある。

 ハリウッドのパーティーとはまた全然雰囲気が違って、まるで男ばかりのデビュタントてな感じだ。奇妙で、おかしい悪夢みたい。

 手を引かれるままに立ちあがる。マルセルの手が僕の腰に添えられ、音楽に合わせて適当に身体を揺らす。

「この間の話、なんだけど」

 マルセルの声が僕の耳元でささやく。どこか緊張したような、硬い声だ。珍しい。

「うん」

「もう俺に、チャンスは…ないのかな」

「チャンス?」

「考え直してもらうことは、できないかなってこと」

 音楽が盛り上がって、くるくる回るメイクさんが野太い声できゃあきゃあ歓声を上げている。上を見ると金箔で縁取られたギリシャ神話の神様を描いた天井画があって、シャンデリアがちかちか瞬いていて、ひどく眩しい。僕は少しだけ考えて、それから首を横に振る。

「前にも言った通りだよ。ぼくのなかにはセデュがいるから、ほかのひとは愛せない」

「それでもいいって言ってもダメかい? 君が誰を愛していてもかまわないって言っても…」

「きみはもうちょっと自分を大事にすべきだと思うな」

「…君には言われたくないな」

 苦々し気にマルセルは言って、僕をじっと見つめる。僕の心の底を顕微鏡で見つめるみたいに凝視する。

「君はそれで、セデュイールのところに戻るの。やつにいいようにされるために…」

「…戻れは、しないかな。セデュが望まないだろうから…」

「じゃあどうするの。ひとりぼっちで生きていくってこと?」

「…まあ、そうなるね」

「わからないな。君がやつのためにそこまでする必要があるかい? 愛してくれない相手のために身も心も捧げるってこと? 君は恋に恋してるだけなんじゃない? やつの本性を直視しようともしないでさ…」

「セデュのことを、何もかも理解してるなんて言わないよ。僕たちはちがう人間だから、そんなのは不可能だ」

「君から聞いた断片的な情報だけでも、やつの異常性はよくわかった。そんなやつのために君が自分を犠牲にするのは、俺には納得できないな」

「犠牲じゃないよ。僕がしたくてすることだから」

「どうしても、ダメ、なの?」

「…うん。君の親切は本当にありがたかったと思ってる。君がいなけりゃ、僕とっくに逃げ出してたかもしれない。ありがとう。お礼、なにもできていないから、何か僕にできることがあったら言って…」

「じゃあキスさせてよ。ここで」

「え? …」

 聞き返す間に、マルセルの顔が近づく。ぐいと抱き寄せられて、唇が塞がれる。呆然とするうちに腰に回された手が下に伸びて、尻のあたりをまさぐり始める。開いたままの口の中に舌が入れられ、口腔を嘗め回して、僕の舌を絡めとるように動いて、じゅるじゅるぺちゃぺちゃ、唾液を啜る音がする。まわりで踊っていた男の人たちが口笛を吹いて囃し立て、「いいぞ」とか「もっとやれ」とか、下卑た声がかかる。僕は必死にもがいて彼の腕から抜け出そうとするけど、物凄い力で拘束されてそれは叶わない。マルセルが怖い、こんなの初めてだ、まるで見世物じゃないか、嫌だ、セデュに見られたらどうしよう、怖い、みんな笑ってる、僕のこの様を哂ってる、嫌だ、離して、こんなこと許してない、嫌だ、嫌だ、嫌だ!

 どんどんとマルセルの胸を叩いて、なんとかかんとか唇を捥ぎ離して、涙目で彼を見上げて、抗議しようとしたその瞬間。

 肉を打つ鈍い音がして、マルセルが吹っ飛んだ。

 どよめきのなか、テーブルに倒れ込んだマルセルがグラスや酒瓶を倒して、それらが次々、床に落ちて割れ、ずるずると身体が床に沈む。

 僕は茫然としたまま、マルセルを吹っ飛ばした張本人が、マルセルにそのまま掴みかかるのを見た。


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