第四十六話
「彼女はどこにいる? 何をしてる? どんな様子だ、嬉しそうか? 笑ってるのか?」
急きこんだようなセデュの声が、廊下の方から、かすかに聞こえる。旅籠屋の一室にはキャストが集まり、思い思いの姿勢で歓声を上げ、楽器をかき鳴らし、騒ぎ立てている。ギターを抱えたちょび髭の男の人、酒瓶を抱えた若い将校さん、グルーシェニカを抱き寄せる、彼女の初恋相手、それからウエイトレスに扮した、男の子たち。肘掛け椅子に掛けた僕はセデュの登場を待ち侘びる。彼がこの部屋に入ってきたら、まず立ち上がって叫んで、それから、それから…。
がちゃりと扉が開いて、セデュが、ミーチャが姿を見せる。乱れたシャツと汚れた上衣にズボン、両手には血の跡がこびりつき、無造作な前髪が額を隠している。
「ああ!」
僕は彼を見て驚愕に目を見開いて立ちあがる。セデュの口が動いて何か台詞を言っている。「怖がらないでください」とか、「朝まで同じ部屋で、おつきあいさせていただけませんか」とか言っている。青褪めた、思いつめた表情で、引き攣った唇から、震えるような声が漏れる。
「私の最後の夜です、飲みましょう、素晴らしい酒を! お許しください、私は音楽が欲しいんです、大騒ぎがしたいんですよ、何もかも、前の通りに…無用な蛆虫は、しばらく地面を這いまわってから、消えてなくなります…最後の夜に、私の喜びの夜を供養させてください。もし、私の女王様がお許しになるなら…」
譫言めいた君の言葉を僕は笑い飛ばして、君の腕を引き寄せ、近くに座らせる。
「女王? なんのこと? ミーチャ、あんた何を言ってるの? 驚かさないで…ほんとにもう、あんたってひとは…」
君が僕の近くにいる。吐息も触れるくらい近くで、僕を見つめている。溶けそうな飴色の瞳が揺れている。ミーチャはグルーシェニカに恋をしているんだ、だからだ。だから…。
「あんたが来てくれて本当にうれしいわ。退屈でしかたなかったんですもの。もしあんたが出ていくなら、あたしも出ていく! ねえ、飲みましょう!」
わあっと歓声が上がって、ギターがかき鳴らされる。ウエイトレスや、壁際にいた将校服のおじさんが手を取って踊りだす。シャンパンの栓が抜かれ、泡立ったそれが瓶の口からあふれ出して旅籠屋の主人の手を塗らす。
ぐるりとカメラが回って、酔い痴れ熱狂する僕らを映し出す。
――カット!
キャストさんたちはぴたりと止まり、監督がこまごまと指示を出す。ミーチャはポーランドの将校さん――グルーシェニカの初恋相手――と別室に引き上げ、そこで別のシーンを演じる。将校さんに金を渡して、グルーシェニカから手を引かせようとするシーンだ。一度は金を受け取ろうとした将校さんは、グルーシェニカからならもっと金を巻き上げられるはずと踏んでミーチャの要求を跳ねつけ、グルーシェニカの前でミーチャの所業をあげつらう。
僕はそれに腹を立てて、ミーチャを責めて、ポーランド人の将校さんも責めて…
「私は君を妻に迎えようと思っていた。だから君に会いに来たんだ、5年ぶりに。でも君に会って分かった。君はわがままで恥知らずな女になってしまった」
僕を詰るポーランドの将校さんを、僕は鼻で哂う。
「ああ、私はバカだった、5年も苦しんできたのに、あんたはまるで別の人。でもあたしは、あんたのために苦しんできたんじゃない、ぜんぶ、憎しみのためだったのよ。とっとと、もといたところに失せるがいい、あんたなんかすぐに追っ払えるんだから!」
ヒステリーを起こして次第に甲高くなっていく僕の声に、男の子たちの合唱が交わる。僕らの愁嘆場をよそに、ドレスを着た男の子たちは宿の主人と踊りだす。ガタガタと床板が音を立て、きゃあきゃあと断続的な嬌声が上がる。
ポーランドの将校さんは、僕を苦々し気に睨みつけて一言吐き捨てる。
「売春婦のくせに!」
その次の瞬間、あかあかと燃える火を灯されたようになったセデュが将校さんを殴りつける。吹っ飛んだ将校さんが床にバタンと倒れ込み、その足にぶつかったテーブルから酒瓶が落ちてガシャンと割れる。音楽がぴたりと止まり、踊り子たちが息を詰めて見つめるなか、セデュは将校さんの襟首掴んで引き摺って、部屋の外へと放り出す。
白けた空気を振り払うようにミーチャは札束を撒いてどんちゃん騒ぎを所望する。再び陽気な音楽が流れだし、僕は感極まったように彼に抱きつく。
「立派よ、ミーチャ、飲みましょう、飲んですっかり酔っぱらって、この前とおんなじ気分になりましょう…」
ソファに座り込んだ僕は僕の手をきつく掴んでくる君の拳に頬擦りして、君を上目遣いに覗き込む。どういう気持ちでここに乗り込んできたのか、本当にあいつに僕を譲る気だったのか君に尋ねると、
「君の幸せを駄目にしたくなかったんだ」
なんて言う。
いつでも僕のことを一番に考えてくれるミーチャがいとおしくて、僕は微笑む。
下男殺しの罪に責め苛まれ、自殺すら考えていたミーチャは、再び手の中に戻ってきた僕に戸惑い、戦いている。幸福になることは許されないと思っているんだ、自分の犯した恥辱のために。そんなことは知らない僕はただ君を見つめる。やっと気づいたんだ、本当にほしかったものが、目の前にあることを。
「ミーチャ、わたし、あのひとのことがほんとうに好きだった。5年間ずうっと…私はまだ17歳だったの、バカな小娘だったのよ、ああ、恥ずかしい、一生の恥だわ、わたしこの5年間を、死ぬまで呪ってやる!」
ミーチャは、セデュは何も言わない。ただ潤んだ瞳で僕を見ている。ほんの一瞬も取り零したくないみたいに。
「ミーチャ、ミーチャ、わたしってほんとうにバカだわ、あんた以外に人を愛するなんて、どうして考えられたのかしら? 許してくれる? ミーチャ、わたしを許してくれる? それとも許せない? ね、愛してる? わたしを愛してくれる?」
君は何も言えないみたいに僕の目を見て、僕をきつく抱き寄せて、顔中にキスの雨を降らせる。やわらかい唇とその温度が、懐かしくて、涙が滲んでくる。
「キスして、もっとつよく、愛すると言ったらどこまでも愛するの。今からあんたの奴隷になるわ、一生あんたの奴隷になる。それがうれしいの! キスして、わたしを打って、苦しめて、思い通りにして…ねえ、どうして飲まないの、わたしすっかり酔っちゃってるのよ…」
「酔ってるよ、君に酔っている…すべて忘れよう、この一晩だけでもいい、たとえ1時間でも、一瞬でも…」
「飲んで、酔って、踊りましょう、思いっきり。わたし燥ぎまわりたいの。獣とおんなじなのよ」
グラスを呷って僕は立ち上がる。君の手を取って踊りにつれ出す。指を絡めて、君の腕の中でくるりと回る。陽気なギターの爪弾きにあわせて、男の子たちが飛び跳ねる。ぐるぐる音が渦巻いて、目が回る。人いきれと、熱狂と、君が傍にいてくれる喜びとで、ボクの身体は燃えている。内側からめらめらと炙られて苦しい。息が止まりそうだ。
酔っぱらったグルーシェニカに乞われ、ミーチャは彼女を連れ出す。別室の、ベッドに僕を横たわらせたセデュは再び、狂おしいくらいのキスのシャワーを浴びせる。僕は喘ぎながら君を拒絶する。言葉だけで。君を突き飛ばすこともできないままで。
「さわらないで、許してね、あの人たちがそばにいるところじゃいや…ここは汚らわしくて…」
「わかった、もうしない、君が大事だもの」
君はすぐにそうやって引いてしまう。僕が嫌がるそぶりを見せると、いつもそう。もっと強引にしてくれてもいいのに、そんなふうにされたって、僕はきっと君を許してしまうのに。…役を離れた君が、そんなふうに僕に触れてくれることは、もうないのだろうけど。
「わかってるわ、あんたは獣みたいだけど、ほんとうに潔い人だってこと…」
胸が苦しい。ずっと苦しい。涙で前がよく見えない。君の掌が、僕の手をずっと包み込んでいるのだけ感じる。
「正直に生きていきましょう、正しい人間になるの。…私を連れて行って、ここはいや、どこか遠くに、遠くに…」
「ああ、そうしよう、連れて行こう、どこか遠くに…」
「わたしはあんたに忠実な女になる。あんたの奴隷になって、あんたのために働くの。いっしょにあのお嬢さんのところへ行って、頭を下げて謝りましょう。そして出発するの。許してもらえなくても…あんたは私を愛してね、あの人を愛さないでね、もう愛さないでね。愛したりしたら、あの人を絞め殺しちゃうから」
「君を愛している、愛しているのは君だけだ、シベリアに行っても愛する…」
「どうしてシベリアなんて? でもいい、あんたがそうしたいなら、シベリアでも構わない、一緒に働きましょう、シベリアは雪ね、雪野原を橇で滑っていくの…ねえ聞こえる? どこかで鈴が鳴っている…」
君が好きだ。僕は、どうしたって君に恋しているから、ほかのものなんてなにもいらないんだ。なんにも、ほんとうに、いらないんだよ。
ねえセデュ、聞こえる? 破裂しそうな僕の心臓の音が。君を求めて震える声を、感じてくれる? 濡れた僕の頬を、優しく撫でる君の長い指がすき。いつでも柔らかく微笑んでくれる君の笑顔がすき。溶けてるみたいな飴色の瞳が、いつでも僕を照らしてくれるお月様みたいな瞳が、大好きだよ。
セデュ、…ぼくの、たいせつなひと。
指を絡ませたまま、引き寄せられ、きみは僕の指にキスをする。シャンシャンシャンと遠くで鳴っていた鈴の音が止まる。夢の時間はおしまい。僕はまた現実に戻って、きみから引き離されるんだ。




