第四十五話
現場では既に撮影が始まっていた。セデュイールのアクションシーンの撮影だ。カテリーナへの借金返済と、グルーシェニカの身請け金を作り出すための金策に駆けずり回る道中、行方をくらませたグルーシェニカは父親の元にいるのではないかと疑い、屋敷に忍び込み、下男ともみ合って怪我を負わせるシーンだ。下男を殺したと思い込んだミーチャは自暴自棄になり、グルーシェニカを求めて奔走する。…。
下男役の役者と何度も打ち合わせして、撮影が開始する。君はカメラの後ろの暗闇で、それをじっと見ている。掌は祈るような形に組み合わされ、息をのんで見つめる。
やつの傷がまた開いて血を流しでもしまいか、新たな傷を作るのではないかと心配しているのだろう。闇の中からライトに照らされた場面を凝視し、カットが掛かるたびほっと息を吐く君を見ていられなくて、俺はその視線を遮るように立つ。君の戸惑うような目が上がり、やっと俺を見る。
「君はまだセデュイールに未練があるみたいだね。やつはもう戻ってこないって、理解したと思っていたけど」
「…」
「助けられて情が湧いた? あいつは君のこと、俺の恋人だって知っていたね、それに関しては特に思うこともなさそうだった。奴が欲しいのは君の身体だけなんだから当然か」
「セデュはもうぼくを抱かないよ」
「え?」
「他に好きな人ができたのかもしれない。知らないけど」
「…わかっているなら、どうして君は…」
リーヴェは迷いのない目でまっすぐに俺を見る。これまで揺れていたはずの君の心が、何かに遮られてしまっているのを感じる。俺の手が届かないところまで、遠くにいってしまったのを。
「それでもいいんだ、ぼくはセデュが好きだ。ぼくの心の中にはセデュがいて、ずっと昔からそうだから、他のひとは入れられないんだ」
「…それって、…」
「君の気持ちには応えられない、ごめんね」
「ま、待ってくれ、今はまだ…」
淡々と告げる君の顔が見られなくて俺は君を抱き寄せる。その薄い肩に額を乗せて。唸る。頭が混乱している。何か黒々としたものが胸の中で暴れている。君を離したくない。やつに君を渡したくない。やつのところに戻れば君は傷つくだけだ、自由意思を失った奴隷みたいに扱われるだけだ、そんなのは許せない、断じて許せない――
君の手は俺を抱き返すことはなく、だらりと垂れさがったままだった。
「嘘を吐くな、お前の動転ぶりを見ただけでわかるんだ、彼女はどこだ!」
「ドミートリー様、何も知らないんです、神に誓って…」
カメラの向こう側にはグルーシェニカがいる。俺を一心に見つめている。俺は彼女に見せつけるように叫ぶ。心の底からお前を求めていると、他の男のもとに去ってしまったお前に叫ぶ。お前のパトロンにも、親父にも、お前を棄てた将校なんぞにも、お前を渡さない。お前は俺のものだ、俺だけの…。
やがてお前の姿は見えなくなる。人影に覆うように隠されて消える。
下男が何か叫んでいる。耳障りだ。俺は腕を振り払う。お前は男に抱き寄せられている。愛を囁かれているのかもしれない。しがみ付く下男を俺は殴りつけ、捥ぎ離す。下男は落ちていく。俺の罪を思い知らせるように血に塗れ、ぐたりと力なく倒れる。俺はその上に屈みこみ、溢れ出す血に手を染めながら抱き起す。意識はない。俺が殺した、こいつは俺が殺したんだ。…。
カットの声が掛かる。カメラの向こうにもうお前の姿はない。ぎらぎらと照り付けるライトの下で俺は血に染まった手を見つめる。鮮やかな赤色だ。拳をつくると水の中にいるように、ぬるりと滑る。枷を嵌められたようにひやりと首筋が冷える。神が見ている、俺のこの凶行を、錯乱の末の罪過を。汚れた掌をズボンで拭いながら、俺は立ち上がる。
彼女に会いたい。たとえお前が、二度と俺のもとに戻ってこないとしても。
お前が、別の人間を愛しているとしても。ただ会いたいのだ。それだけだ。それだけでいい。
――俺はお前を祝福できるだろうか。
「あれは理屈抜きのことなんだ、あの二人の権利なんだ、彼女がこの5年間、忘れようにも忘れられなかった初恋じゃないか。あいつがこの5年間、愛してきたのはあの男だけだったんだ、脇にどけ、道を開けてやれ、今の俺に何ができる、それにあの将校がいなくたって、今となってはもう、すべてがおしまいだったんだ」
馬車は駆ける。グルーシェニカを求めて、彼女が昔の初恋の相手と、ともにいるはずの旅籠を目指して。お前はいまどうしている? 昔の恋人と寝ているのだろうか。そうしたら俺は、どうしたらいい…。
「神よ、どうか、私の裏切りを受け入れてください。裁きにかけず、お許しください。私は卑劣な男ですが、あなたを愛しているのです。たとえ地獄に贈られても。地獄からあなたを愛します。永遠に…私は私の、心の女王を愛しています。私はあの人の前にひれ伏し、こう言うつもりです。私を避けて通り過ぎて行った貴方は正しかった、貴方の生贄をどうか許してほしい、忘れてほしい、これっきり不安を抱かないでいいと…」
「モークロエが見えましたぜ、旦那!」
揺れる馬車の上で御者が叫ぶ。暗闇の中に寝静まった家並みが見える。ぽつりぽつりと、僅かな灯りが瞬いている。
「起きてますぜ旦那、みんなこちらでお愉しみだ!」
煌々とした灯りが闇を照らす旅籠屋の前で馬車は停まり、待ちかねたように俺はそこから飛び降りる。…。




