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≪第七部≫ウンディーネは深更に満ちる ーカラマーゾフ編ー  作者: 咲佐きさ


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第四十四話

 入院から4日が経過し、朝から夕方の面会時間まで途切れることなく訪れる見舞い客にいちいち丁寧に応対していたセデュイールは5日目の昼、遂に限界を迎えたらしい。

 シーツがはためいている屋上で、俺の隣で、ぼんやり空を見ている。怪我の経過は順調で、縫うほどの傷でもなければ手術だのなんだのという事態にもならずに済んだ。不幸中の幸いってヤツだ。

 短くなった煙草を踏み躙り、5本目に火をつける。セデュイールはそよぐ風に目を細めて流れていく煙を見つめる。上品な家庭に飼われてるお行儀のいい犬みてえな風情だ。ちなみに、本来なら入院患者に屋上は解放されていない。ここの看護師連中がたまたまセデュイールのファンだったとかで、特別な許可を得てここに避難してきたってわけだ。さっきまでここでうろちょろしてた掃除係の姉ちゃんも、やつににこりと微笑みかけられただけで火傷したみてえに飛び上がって逃げ去っていった。まあ、なんというか…生きづらそうだなアと、他人事ながら思う。行く先々でワーキャー言われて、憧憬だの恋慕だの肉欲だのを向けられて、マトモでいつづけるのはさぞかし大変なことだろう。

 本当に愛されたい人間からはそっぽ向かれてるってのに。

 ルーシュミネさんはまだ来ない。来る気がねえのかもしれん。まああのひとを庇って怪我を負ったのはセデュイールが勝手にやったことで、それを恩に着せる気もあいつはねえんだろうから、俺がどうこう言うことでもねえが。

 …。

「そろそろ戻るぞ、風が冷えてきた」

「…ああ」

 1時間か、2時間か、どのくらいの時間屋上にいたのか定かじゃねえが、包帯を巻いたままでもしゃんと背筋を伸ばして歩くやつの後ろをついていく。やつの顔を見てぽっと頬を染めた入院患者が、つづいて俺の姿を目にとめておっかなびっくり飛び退くのも、もう慣れたもんだ。

 病室にはそうして、特に引き止められることもなくスムーズにたどり着いた。

 やつの脱いだカーディガンを受け取り、ハンガーにかけてやる。セデュイールはそのままベッドに掛けようと振り向いて、そうして、そいつを見つけた。


 がばりとそいつを掴み上げたセデュイールはまるで宝箱でも見つけたみてえに屈みこむ。見開かれた目は珍しくもぎらぎらと輝き、貪るようにその紙片を見つめ、それから、恋人にするように恭しく腕に抱きこむ。

「どうしたどうした、何があった」

「…バロット、新譜だ、ルーの…ああ、神様…」

「へえ? ルーシュミネさんが来てたってことか?」

 やつが抱きしめたまま離さねえ新譜とやらをもぎ取り中身を見る。…楽譜が読めねえ俺にはサッパリだが、オタマジャクシが五線譜の上に大勢踊っている、売り物としても通用するようなご立派な譜面だ。ただ、サインの類はどこにもなく、一枚目の片隅に「ありがとう、ごめん」とだけ書かれている。

 …これだけでルーシュミネさんの書いたもんだって確信してるらしいやつにちょっとびびる。まあサインを書き忘れるのはあの人らしいっちゃらしいけど…。

「ルーシュミネさんの書いたもんだってなんでわかるんだ?」

「わかるだろう、それは…ルーの手稿特有の癖がある…なにより、これだけ素晴らしい曲を創造できるのはあいつ以外にいない…」

「…お前って、ルーシュミネさん本人とあの人の音楽と、どっちの方が好きなんだろうな」

「? 音楽はルーの一部だろう。切り離せるものじゃない」

「そーゆーことじゃなくてだな…」

 俺の手から再び譜面を奪い取ったセデュイールは愛おし気にその手稿に指を這わせ、感極まったように口づけを落とす。神の面前に跪いてキスするみたいな、神聖なものにふれるような、敬虔な表情で。

 ルーシュミネさんの奏でる音楽は好きだが、狂信者みてえなセデュイールを眺めて俺は完全に引いていた。

 やっぱおかしいなこいつ、ルーシュミネさんは逃げて正解だったかもしれん…。



 セデュイールの怪我からぴったり1週間後、撮影は再開した。今度は場所を移してウィーン郊外の平地での撮影になる。夜のシーンの撮影だから、集合時間も遅い。俺の出番はもう終わったのでお役御免だが、リーヴェはまだセデュイールとのラブシーンが残っている。二人きりにしておくとまたセデュイールのやつが毒牙を伸ばして来ないとも限らないので、撮影場所に向かう君の車に俺は同乗する。間に小男のマネージャーを挟んで、向こう側に座った君は少し驚いた表情をしていたが、俺を降ろすことはしない。

 1週間つれない素振りだった君に、何をしていたのか尋ねると、作曲に集中していたと言う。新しい仕事かと問うと、まったくただの趣味だと言う。

「セデュにプレゼントしようと思って、作っていたんだ、ずっと…」

 俺の方を見もせずに、君は言う。飛び退っていく車窓の風景ばかり眺めているので、俺には君の横顔しか見えない。闇を照らす街灯の光が君の頬に反射してちかちかと瞬く。

「見舞いに行ってきたのかい。あいつの様子はどうだった」

「会えなかったから…怪我はそんなに深いものじゃなかったらしいよ」

 淡々と君は言う。今までの均衡が崩れて、セデュイールの方に君の気持ちが傾いているのを感じ、俺はもどかしい思いが募る。ふたりが会って、言葉を交わしたわけじゃあなさそうなのだけが救いだ。やつと君を二人きりにしたら、あいつは君の心を操って無理矢理にでも関係を修復しようと企てかねない。やつにいいようにされる君のことを考えると苛立ちがこみあげてくる。俺はその苛立ちを載せたままの言葉を君に投げる。

「君が罪悪感を持つ必要はないと思うな、君を庇って怪我したのだってあいつが勝手にやったことだろう。別に君がそうしてくれって頼んだわけじゃあないのにさ」

 俺の声に怯えたように、隣の小男が身体を縮こまらせる。鬱陶しいやつだ。俺とリーヴェの仲を裂くように間に居座りやがって。マネージャーだかなんだか知らないが、リーヴェの部屋に我が物顔に出入りしているのも気に食わん。この1週間、俺は君の部屋に入れてもらえなかったっていうのに。

「それでも、僕のせいでセデュが怪我したことは事実だろ。知らん顔なんてできないよ」

「君はずいぶん慈悲深いんだなあ、君をさんざん甚振ってきたやつに対して…」

「いたぶられたことなんかないよ」

「君はそう思いたいんだろうけどね…」

「君はどうしてそんなにセデュに冷たいの」

「…」

 本気でわからないとでもいうように君は何気なく尋ねる。これまで君から話を聞いてきて、恋敵というだけじゃない、やつの異常性を知って、だからこそ怒りを募らせる俺のことを、君はまだ理解していないらしい。俺に興味がないからなのか、それとも、やつのことを、誰からも愛されて当然の聖人だとでも思ってるのか。

 いずれにしろ俺にとっては面白くない。俺はむっと口を噤んで車窓に目を遣る。月夜に照らされたドナウ河が見え、車の中には沈黙が落ちる。それから現場に着くまで、誰も一言も発さなかった。




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