第四十三話
「撮影は1週間ストップだそうです。いい機会ですから、ゆっくり身体を休めて、養生してください」
黒革のスケジュール帳を開いたマチウが淡々と告げる。セデュが病院に運ばれた翌日、朝ごはん前の時間にホテルの僕の部屋を訪ね、きょろきょろあたりを見回してからほっとした様子で椅子に掛け、僕のスケジュールを教えてくれる。マチウは、昨日のうちにセデュの見舞いも済ませたらしい。
「どう、だった? 怪我の具合は…」
「そう深い傷でもなかったようで、1週間ほどで現場復帰できるとのことでしたよ。すぐにでも退院したそうでしたが、大事を取って2.3日は入院されるとのことで。ご本人はしごく、お元気そうでした」
「そ、っか…うん…」
「…ムッシュ・リーヴェは、お見舞いにはいかれないので?」
「…うーん…」
「あなたにご不調がないかなど、ムッシュ・レヴォネはひどく心配しておられましたが」
「……」
ゴミ箱に放り込むのもなんなので、水を入れ替えた花瓶に差し替えた赤いバラの花を眺める。何週間か前にマルセルがくれた白バラはもう枯れてしまって、ハウスキーパーさんに処分してもらった。艶やかな花弁から甘い香りがして、セデュの腕の中にいるようだとおもう。
「おひとりで顔を出しづらいようでしたら、私も同行しますが」
「え、いいよ、悪いよ…」
「ムッシュ・ヴィオレは今日はどちらに?」
「さあ…知らない。今朝はまだ会ってないから…」
「そうですか。私はてっきり…」
「なに?」
「…いいえ、なんでも。また何かございましたらお呼び出し下さい」
マチウはぱたんとスケジュール帳を閉じて立ち上がる。僕はぼんやり彼を見上げて、ふと思いついて尋ねる。
「せっかくの休暇たから、…没収したもの、返してくれたりしない、かな…? 部屋に一人でいても暇でさあ…」
「…まあ、いいでしょう。だからといって、くれぐれも、徹夜などはしないでくださいね」
しぶしぶといった様子のマチウから五線譜を回収した僕は早速ペンを取り上げ、バラの花を時折見上げながら譜面を起こす。すらすらと手は止まらない。しばらくご無沙汰だったからだろうか。水を得た魚ってたぶんこんな感じだ。やっぱりお芝居よりもこっちのほうが楽しいな、何もかも忘れて夢中になれる。
夢中になりすぎて、時間が経つのに気づかないのだけが難点、だけど。
「ごはんの時間になったら声かけて! 朝昼晩、お願いできる?」
「構いませんが、集中しすぎて身体を壊すのだけはどうか勘弁してくださいよ…」
「わかったわかった、ありがとね!」
顔も上げずに軽く請け負い、僕は左手で拍子をとりながら右手で音符を書き込んでいく。できあがったら、こいつはセデュにあげよう。お見舞いのリベンジをするなら、花束よりももっとあいつが喜ぶものを渡したいから。
僕の人間性に呆れ果てていても、僕の音楽だけは、あいつは愛し続けていてくれるだろうから。
病室で寄り添いあうセデュとロレンツォ君の姿を意図的に振り払って、考えないようにして、僕は作曲に熱中した。
曲が完成するまでに何度かマルセルが声をかけてくれたけど、彼を部屋に通すことは、もうしなかった。
食事はマチウに調達してもらったりレストランに引き摺って行ってもらったりして、5日後、新しい曲が完成した。チェロがメインのカルテットの曲だ。セデュをイメージした曲でもある。調子に乗って第三楽章まで作ってしまったけど、セデュは喜んでくれるはず、たぶん。僕はそいつを握りしめてセデュの病室にまた向かう。
余計なことを考えるからいけないんだ、セデュが誰と一緒にいたっていいじゃないか、そんなの彼の勝手だ。僕があいつを独り占めできる時間はとうに終わってしまって、新しい時間が始まっているんだ。現実を見なよ、ってマルセルがよく言っていたっけ。大丈夫、受け入れられる、セデュが僕の音楽を愛してくれるなら、それで十分。
全然振り向いてもらえないより、ずっといいじゃないか。高望みしすぎるといけないんだ、身の程ってものを知れよ。よしよし、この間より感情も安定してる。ヒステリー起こしたりしない、泣き出しもしない、ただこいつを渡して、お礼を言って、それで、帰ってくればいいだけだ。簡単じゃないか。
3階の角部屋、セデュの病室、扉は締まっている。僕は深く深呼吸して、もう1回深呼吸して、震える手でノックする。いやだな、また緊張してる。セデュが誰といたっていい、僕は傷つかない。大丈夫、大丈夫…。
ノックの返事はない。無機質な白い廊下に沈黙があるだけだ。ナースステーションも遠く、通りがかる看護師さんや入院患者の姿もない。
廊下の窓ガラスからは鮮やかな晴天が見える。この間とはまるで違う。いい兆候かもしれない。僕は思い切って扉に手を掛ける。レールが鳴る微かな音がして、扉が開いていく。…。
病室に踏み入れた僕が目にしたのは、ものすごい量の花束だ。可愛らしいカーネーションにライラック、アザレアにポピー、もう花屋かってくらい、種々雑多に入り乱れ、華やかさを競っている。あと果物の籠とか、ケーキとか、いろんなものが溢れ勝っている。一人だけの病室とはとても思えない量だけど、これだけ多くの人がお見舞いに来たってことなのか。これが人徳ってやつ? いやちょっと迷惑に感じるくらいのプレゼントの山だけど…。花束を持ってこなくてよかった。先客の華やかさに完全に埋もれちゃうところだった。どうやら口説き目的のプレゼントもあるみたいで、足に着ける指輪とか、銀のネックレスとかまである。お見舞いの手土産には相応しくなさすぎるだろ…。
病室にセデュの姿はなかった。ロレンツォ君の姿も。
僕はどこかほっとして、椅子に掛ける。どこかに出かけているのだろうか、入院中は運動不足になりがちだから、お散歩とか? ロレンツォ君に付き添われて中庭を散策するセデュの姿が浮かぶ。仲睦まじいふたりを祝福するように小鳥が啼き…地には花が開き…天には光が満ち溢れ…。…。
たぶん30分以上は待っていたと思うけど、一向にセデュは帰ってこない。
なんだか空しくなってきた。
僕は楽譜をベッドシーツの上に載せて立ち上がる。ベッドサイドに置いてあるペンを取り上げてスコアの端に短い伝言だけ残して、僕は病室を出る。
中庭にちょっと寄ってみて、セデュの姿がなかったらそのままホテルに戻ろう。もしセデュとロレンツォ君がいたら、いたら…何て声を掛けよう。「何しに来たんですか?」とか「よくのうのうと顔が出せますねえ」とかロレンツォ君に嫌味言われそうだ。でも今日の僕は大丈夫だ。覚悟していれば、なんてことない。やりすごせる。いつもみたいにへらへら笑って、挨拶して、お礼を言って、帰ればいいだけ。簡単だ。
けれど中庭にも、セデュの姿はなかった。僕ってとことん、神様に嫌われているみたいだ。




