第四十一話
あっと思ったときには僕は腕を掴まれ、強引に、引き寄せられていた。
ガチャンと物凄い音がして、割れたライトが粉々に砕け散る。
僕はそれを肩越しに見る。身軽な足音が一目散に、どこかに駆けていく。あの子がライトを倒したんだろうか、僕を殺したくて? 今回のいやがらせはちょっと、シャレにならないな。一歩間違ってたら、僕ほんとに、死んでたかも…。
僕はぎゅうと甘い香りに抱かれていて、わけがわからなくて、ただダージリンティーみたいな彼の香水を嗅いで、心地よくて、…。
わあわあとスタッフさんが駆け寄る。照明さんが平謝りに謝る声、大道具さんの怒鳴り声、マチウの涙声も聞こえる。
どくどくと心臓が早鐘を打つ音が、耳に届く。死にかけた僕の鼓動か、それとも僕を抱いた君の心臓の音? 暖かい腕のなかで顔を上げる。君の溶けそうな瞳が近くにあって、僕は呼吸が止まる。
「怪我はないか、ルー」
思わず震えて踏みしめた足元がじゃりじゃり鳴る。ガラスの破片が落ちているんだ。ライトが割れたせいで、飛び散った破片だ。僕にケガはない、ひとつも。セデュが僕を庇ってくれたからだ。君が身じろぐと、ぱりんと君の腕に乗ったガラスが落ちて割れる。背中とか、後頭部とかに破片を受けたせいだろう、衣装の襟元に、血が滲んでいる。
僕のせいで、また、君が傷ついた。早く手当てしなくちゃ、病院に、ぼくのことなんかどうでもいいから、はやく――
「大丈夫かリーヴェ!」
マルセルが駆け寄り、セデュの腕の中で縮こまる僕を引きはがす。
「俺のリーヴェを助けてくれてどうもありがとう。救護班はあっちだぜ」
「…恋人なら、ルーから目を離すな」
憎々し気に吐き捨てるセデュの声が遠くで聞こえる。恋人、恋人って誰だっけ? ああマルセルのことか。君はそんな風に思っていたのか、僕とマルセルのことを…。
「お前に言われたくないね、リーヴェをさんざん嬲ってきたお前なんかに」
「なんのことだ」
「リーヴェから聞いてるぜ、お前の、夜のご乱行の仔細をさ。俺のリーヴェを支配して奴隷みたいに扱って、いい気になってたんだろう、反吐が出る」
「…ルーはお前の所有物じゃない」
「まだお前のモノだって言いたいのか!? いい加減にしろよ」
「違う、ルーは誰のものでもない。…強いて言うなら、神のものだ」
「何を言ってるのかさっぱりわからねえ。お前頭がおかしいよ、重症だな」
「ムッシュ・レヴォネ、こちらです、状態を診ますから、こちらに…」
がやがやと声が反響してる。呆然とする僕はそれを判別できない。ぐわんぐわんと耳鳴りがしている。怒ったような声、嘆き悲しむような声、慌てたような声、声、声…。セデュはくるりと踵を返して、救護班とともに去っていく。僕のドレスの裾に飛び散っていたガラスが落ちてまたぱりんと割れる。震える僕の肩をマルセルが掴む。マルセルの咽かえるような煙草のにおいに包まれて、セデュの香りが消えて行ってしまうことに、僕はまだ慣れない。どこも傷ついてないのに、どこかがひどく痛む。
セデュの傷がすぐに癒えるように、なるべく痛い思いをせずにすむように、僕は震える手を合わせる。セデュがぶじであればいい、そのためならなんでもするから…。
「行こうリーヴェ、君にもケガがないか確かめないと…」
マルセルに促されて僕は歩き出す。目の前がかすんでよく見えない。ぼろりと大粒の涙がまた、僕の目から零れ落ちた。
ドレスにくっついたガラスを全部落としてもらって、怪我のない僕は午後から撮影に入り、セデュは病院に連れられて行った。それで、明日からの撮影は少しお休みらしい。セデュの傷が癒えるまでだ。残ってるのはほとんど、彼と僕とのシーンだから。
マチウにスケジュールを告げられ打ち合わせをすませた僕は駆け足で現場から出る。空は暗雲が立ち込めて今にも降り出しそうだ。僕はタクシーを捕まえて一路、ウィーンにある病院を目指す。病院の名前はマチウから聞いている。病院の前で下ろされてすぐそばの花屋さんで、お見舞いの花を包んでもらう。赤いバラの花が4本入った花束だ。あとはカスミ草とか、名前の知らない小花もある。お見舞いにバラなんて、不釣り合いかもしれないけど、セデュにはこの花が一番よく似合うって思うから。甘い香りがして、美しくって、…。
ありがとうも、ごめんなさいも、僕はセデュに言えてない。だから会いに行くんだ。こんなのただの、自己満足だけど。怪我の具合も知りたいし、ちゃんと顔を見て、話したいから。
なんで僕を庇ったりしたんだって、聞いたら、答えてくれるかな。
誰にでも優しいあいつは、誰が相手でもおんなじふうにしたのかな。共演者が怪我でもしたら撮影が滞るわけだし。それで自分が怪我してたら、本末転倒だけど。
勘違いしちゃいけないって気持ちと、あいつが心配だって気持ちと、とにかく早く会いたいって逸る気持ちでめちゃくちゃになりながら、僕は病室を目指す。看護師さんが教えてくれた部屋は3階の、角の部屋だ。中庭が見下ろせる個室の――
僕はぴたりと足を止める。
薄く開かれた扉から、わんわん子供みたいに泣く声が聞こえる。
ベッドに身を起こしたセデュに縋りついてロレンツォ君が泣いている。セデュは扉に背を向けていて、頭に包帯が巻かれているのが見える。顔は見えない。でも、起き上がれるくらいには元気、みたい。
しばらくそこに立ち尽くして、ぼんやりして、僕はくるりと踵を返す。
僕はまた逃げる。どうしてもそこに踏み入ることはできなかった。自分を客観視すると、セデュに怪我させた張本人がお見舞いなんて、どの面下げてって思うし。ふたりはなんだか距離が近くて親密で、僕の立ち入るスキはないって感じだったし。花束だけでも置いて行こうかと思ったけど、思う間に僕は病院から出ていた。
ざあざあといつの間にか雨が降り出していた。傘を持たない僕はぼんやり軒先で天からいくつも降り注ぐ雨の筋を眺める。一向にやみそうにないそれになんだかバカバカしくなって、驟雨の中を駆けだす。病院からホテルまでは目と鼻の先だ。これくらいの距離なら僕だって迷わず着ける。誰かに先導してもらわなくたって平気だ。
僕はもっと強くならなくちゃいけないな、ほんとに。いつも誰かに守られてるばかりじゃなくて。誰かに縋って生きるだけじゃあなくて。
セデュが応えてくれないって、泣き喚くだけの、子供じゃなくなりたい。そうしなけりゃいけないんだ。まずはそれからだ。
びしょびしょになってホテルにたどり着くと、フロントマンがタオルを持ってきてくれる。大判のバスタオルだ。
ありがたくそれを借りて滴る雫を拭いながら部屋に戻る。ばさりとずぶ濡れの花束をテーブルに放ると、滴る雫で水たまりができる。
僕はベッドに倒れ込んで目を閉じる。セデュにはもう気安く触れられないんだって、自分に言い聞かせる。勘違いしちゃダメだ、セデュは僕に執着なんかしてないし、僕のことはマルセルの恋人だって思ってる。僕がマルセルの恋人になっても、セデュはへーきなんだろ。怒りもしないし僕を奪い返しにも来ないんだろ。わかってたけど。…僕はセデュに怒って欲しかったのか? そのためにマルセルのこと利用したのか? なんて傍迷惑なやつ。生きる価値のないゴミ虫め。まわりのひとの好意に寄りかかって食い荒らして、のうのうと生きてるクズ野郎め。ああ鬱々する。僕は自分が嫌いだ。大嫌いだ。殺したいほど憎まれるのだって当然だ。僕だって自分を殺したい。
セデュに会いたい。
シーツに顔を押し付けて蹲る。どうしたって手に入らないものに焦がれて、身体の内側から燃やされていくみたい。消し炭になるまで炙られたい。何も残らなくなるくらいに。ベッドのシミになって消えたい。…できないけど。僕は生きなきゃいけないんだから。セデュが生きてる限りは、生き続けていたいんだって、気づいたから。
控えめなノックの音がして、マルセルが訪ねてきてくれたけど、荷物を渡して、帰ってもらう。気遣わしげな掌で僕の頬を撫でるマルセルと二言三言言葉を交わして、お礼を言って、扉を閉める。
もうちょっと気持ちが落ち着いたら、彼にはきちんとお断りしよう。浴室のノズルを捻りお湯を出す。とにかく風呂に入って身体を温めよう。また風邪でもひいたらシャレにならない。ひとりで生きていけるくらい、僕は強くなりたいんだ。




