第四十話
「あのひとからが届いたの、わたしの将校さんから…わたしに会いたいって、ああ、息が止まりそう…」
「ミーチャはどうするんです、兄さんはそれを知ってるんですか?」
「知るもんですか。知ったらすぐに私を殺すでしょう。でもそんなの、何も怖くない。ドミートリーさんのことはもう口にしないで、今そんなこと考えたくないの…」
「…上の空だね。感情が台詞に乗ってない。監督もそれじゃあオーケーは出せないだろうなア」
「…」
俺は君の部屋にいる。このところ君の部屋に入り浸って、荷物も持ち込んで、自分の部屋にはほとんど帰っていない。
ベッドで寝るのはまだ君が許してくれないから、ソファで寝ている。帰ろうとしない俺を君はなんとなく許して、受け入れている。正式な返答はまだもらえていないが、このままなあなあで許されて関係をもつところまでいければ、後はどうとでもなる。俺はそいつを狙っている。まだ君に手出しはできていないが、いずれ必ず。
これは牽制の意味もある、君が俺の物なんだって知らしめて、万が一にもセデュイールのやつがちょっかいかけに来ないように、君を守れるように傍についてるんだ。そして今は、明日の撮影のための本読みに付き合ってやっている。芝居がまったくの素人らしい君は、俺の適当な指導をありがたがって真剣に聞いている。素直で可愛い、昔のセデュイールみたいだな。…今の奴は可愛さの欠片もないカス野郎に成長しちまったが。
「五年も前に自分を棄てて結婚した男から不意に呼び出されたら、君だったらどうする? 突っぱねられるかい?」
「……。…むり、かな」
「有頂天になってお洒落して、でも実際にそのひとに遭ったら復讐してやるんだなんて言いながら泣き出す、彼女の気持ちは理解できる?」
「…うーん…」
「昔の恋人、つまり君にとってのセデュイールにあたるのがこの将校さんで、現在進行形で君を口説き落としたくて悪戦苦闘してるミーチャが俺だ。そう思って演じてみれば?」
「セデュはこんなサイテー男じゃないよ」
「捨てた相手に執着するなんて身体か金目当てでしかないだろう。男ってそういうもんさ。セデュイールだって…」
「しゅうちゃく…」
君はぽつんと呟いて首を横に振り、泣きそうな顔で笑って、「つづきやろ」と呟いた。
やつが君の身体に執着してることを、君は気づいているのだろうか。いないならいないで好都合、いるならいるで…やつの最低男ぶりを、君に知らせてやることができるな。どちらにしても俺には都合がいい。俺は君が一人二役で演じるはずの(体は別のキャストの身代わり、声だけ別撮りする予定らしい)アリョーシャの台詞を読み上げ、君の台詞を促す。
「グルーシェニカは高潔なあなたじゃなく、卑怯者の手に堕ちました! あなたのことは、たった一時間だけ愛したことがあったって、ミーチャに伝えてね。この一時間のことを、これから一生忘れないでって…」
「さっきよりよくなったよ。君は自分の経験を反映させるタイプの役者なんだね」
「役者じゃないよ…こんな大変な仕事、もうこれっきりだから…」
「勿体ない。また共演しようよ、別の作品でも…恋敵の役なんかもいいかもな」
「やらないってば。もう二度とごめんだ」
「オールアップしても、君の撮影を見に行くよ。しばらくはここに滞在する予定だから。こうやって君の手伝いもできるしね…」
俺の撮影は明日でオールアップだ。ロレンツォも。君とセデュイールは、モークロエのシーンを別場所でロケする必要から、もう少し先になるらしいが…。
俺はその現場にもついて行ってやるつもりだ。ロレンツォを誘ってやってもいいな、セデュイールの監視役にはアイツが最適だろう。アイツはセデュイールにお熱らしいし。もう寝たのかどうかは知らないが。…とっくに手を出してるかもな。君の身体を自由にできなくなった腹いせにでも。男ってそんなもんだ。
「みなさんお世話になりましたあ! 完成を楽しみにしてまーす! また呼んでくださいねー監督!」
スタッフから黄色いルピナスの花束を受け取ったロレンツォは花束に負けないような爽快な笑顔だ。
つづいて俺が挨拶し、ぱちぱちとスタッフや共演者の拍手を聞く。
グルーシェニカに扮した君と、ミーチャに扮したセデュイールとの間にはスタッフが何人かいる。俺は目の端でそいつを確かめ安堵して、君だけを見て微笑みかける。
どこか夢見るような、ぼんやりとした表情の君は俺に微笑み返す。眉を顰めたセデュイールが視線を逸らすのを、俺は心地よい思いで受け流す。…。
「ここに立っていてくださいね、次はグルーシェニカの屋敷のシーンです、ちょっとアリョーシャ役の子の準備に時間がかかってるので、様子を見てきます」
慌てたようなスタッフさんに声を掛けられて僕は頷く。台詞は大丈夫、昨日マルセルにつきあってもらって頭に入ってる。感情の方は…たぶん大丈夫。昔の男に未練を残しながら、自分を求めてくれる男に思わせぶりな態度をする。まるで今の僕みたいで笑えないな。マルセルはなんで僕なんかがいいんだろ…。
現場はいつもライトがちかちかしていて目が眩む。撮影中は、何も見えないことがほとんどだ。見つめる方向だけ監督に指示されて、そっちを見ながら台詞を言うだけ。こんなの役者じゃないって思うから、もうオファーも来ないだろう。ロレンツォ君に腐されても当然だよな。僕だって間違えてばかりの演奏家にはなんだコイツもっと練習して来いよって思うもん。
修道院の一室にセットを組み、19世紀ソビエト…当時はロシアか、そいつを再現した現場はひどく熱い。ライトの熱とか、スタッフさんの熱気とか、そういうもので溢れてる。グルーシェニカの部屋は粗末な調度品ばかりで、富豪の囲われ者にしては貧相だってアリョーシャがビックリするんだ。装飾のない椅子、シンプルなテーブル、暖炉の上には持ち手だけついた燭台があって、時計はなくて、サモワールだけが片隅にある。
サモワールはこのために造ったのかな、精巧で、ほんものみたい。すごいなあ…。
なるべく余計なことは考えないようにって思うと、ひたすら頭がぼんやりしてくる。脳みそのあるはずの空洞に空気がいっぱい詰まった風船にでもなったみたい。それにしても熱い、ドレスがきつくて苦しい、汗が出てきそう。メイクが崩れたら、またスタッフさんに迷惑かけるな…。
ぼんやりとした視界に、誰かの影が映る。こちらに近づいてくる。ピンと伸びた背筋が美しい、すらりとした足運びも、品のある貴公子って感じだ。どこかの高貴なひとが、お忍びで、撮影現場に紛れ込んできたみたいな――
その次の瞬間、ぐらりと照明が揺れるのに、僕は気が付かなかった。
三脚が傾いてごつい出っ張りのあるライトがこちらに崩れてくるのを、直前まで、僕は気づかなかった。




