第三十九話
「俺は行くんだ、誰かが行かなくちゃならないんだ。俺は親父を殺していない、でも行かなけりゃ。引き受けるよ、そういう人間はたくさんいる、俺たちは地底で、鎖に繋がれ自由もない。けど、大きな悲しみの中で再び蘇り喜びを手にするのは、そういう時なんだ。人間はその喜びなしじゃ生きていられないし、神様も存在できない。喜びを与えるのは神様だし、それが神様の特権だろう、…ああ、人間よ、祈りの中で溶けてしまえ!」
譫言のようにセデュは並べ立てる。激しく憔悴した様子で、救いを求めるように彼方を見つめる。
監獄に繋がれたミーチャをアリョーシャが訪ねる場面だ。ここは面会室を模したセットの中で、僕は僧服とウィッグを身に着けて兄の隣に座っている。ミーチャの目は僕を見ない。悪夢の中にいるように、彷徨い、惑い、躊躇い、時折狂ったように笑う。
「グルーシェニカはどうしてる、あいつのことを考えると、苦しくて苦しくてたまらなくなるんだ、俺はあいつに何かしてやりたい、敬虔な気持ちを抱いてるんだよ…」
「…あの人が話してくれました。あの人、兄さんのことですごく悔しがっていましたよ」
「わかってる、俺は始末の悪い性分だからな。つまりは嫉妬だよ、あいつは俺の愛し方が足りないってずっと思い込んでる。それで俺を苦しめるんだ。前はどうだったろう。俺が苦しんでいたのはあいつの、むしゃぶりつきたくなるような身体にたいしてだけだったのに、今はもうあいつの魂を受け入れ、あいつを通して人間になったんだ。俺たちは結婚させてもらえるかな? そうでなくても嫉妬で死にそうなんだ。毎日そんな風な夢を見てるんだよ。流刑地でも結婚できるんだろうか、あいつなしじゃあ俺は生きてはいけない…」
熱烈な感情の吐露だ。深い悲しみの中で、出口の見えない絶望の淵で、ミーチャは藻掻いている。僕は涙の滲む目でおにいちゃんの姿を見つめる。一瞬たりとも逃さないように息を詰めて、君の呼吸に上下する胸や、絶望に昏く塗りつぶされたような瞳や、所在なく振り上げられ、顔を覆う掌を見る。
いますぐグルーシェニカになって、君を抱きしめてあげたい。そんなふうに思う。
できないけど。僕はいまはアリョーシャだから。
役から離れた君が、ほんとのところ、僕をどんなふうに思ってるのか、僕にはまだわからないから。
今のミーチャは、グルーシェニカのことで頭が一杯って感じで、アリョーシャじゃない方の僕はそれに満足する。カテリーナに対する対抗意識というか、ロレンツォ君に対する対抗意識というか…そういうものが、僕の中にしっかりと根を張っている。いつの間に僕はこんなに嫉妬深くなったんだろう。相手が男の子だからかな。女の人が相手だともう対抗は端から無理だって諦めがつくけど、男の子だったら、べつに僕だっていいじゃないかって思うからかな。セデュとロレンツォ君の間がどの程度すすんでるのか、僕は全く知らないわけだけど。
もうふたりはキスしたのかな。どうかなあ。
――キスはまあいい、女優さんともたくさんしてるし、僕だってマルセルとしたし、今更目くじら立てたりしない。
セックスはどうかな。したのかな。ロレンツォ君は積極的で、ぐいぐいいくタイプみたいだから、セデュが嫌がらなければとっくに成立してても、おかしくないよな。
ベッドで抱き合ってる二人の姿を思うとムカムカしてくる。暴れ出したい。そこらじゅうの物を放り投げて引き裂いてヒステリー起こして泣き喚きたい。しないけど!
「お前は俺の凡てだ、お前は俺の天使だよ、アリョーシャ…さあ、早く俺を抱いて、キスしてくれ。明日の十字架のために、十字を切ってくれよ」
弟を口説くな、このたらしの色男! 全然そんな目で見てないくせにさあ! こっちの身にもなってみろ、僕は君に焦がれて夜ごと枕を泣き濡らしているんだぞ!
僕が途中から仏頂面をしだしたせいでそのシーンはNGになった。
なので僕は再びセデュの口説き文句を聞いて、抱きしめられキスされることができた。役得というやつだ。
カメラの後ろのロレンツォ君が人殺しみたいな目で見てきたけど、僕は開き直る。オフのときは君が独り占めしてるんだから、いいじゃないかって気分だ。チクショウめ。やっぱり僕に役者は向いてない。NG出してごめんなさい…。
君はもう何十分も、絵画の前から動かない。撮影終わりのオフの時間、君を誘い出した美術史美術館でのことだ。君が見ているのは『バベルの塔』、精緻な筆遣いで描かれた有名な絵だ。こいつについての蘊蓄はあまり持っていないので、俺は黙って君の横顔を見てる。貪欲に何かを取り込むみたいに君は熱中している。音楽以外の、君の好きなものをまたひとつ知ることができて俺は満足だ。
「君も俺と同じで、美しいものが好きなのかい?」
「絵は好きだよ。彫刻も…新しいイメージが湧いて、作曲にも役立つから」
「前に来たことはなかったの? ウィーンは初めてじゃないんだろう?」
「前回は演奏会のためだったからね。時間もなくて…父さんも一緒だったし」
「そう。デートでも来たことないのは意外だったな。あいつこういうアカデミックなの、好きそうだろう? あ、パリにはルーブルがあるか」
「セデュも忙しいから…ルーブルは、昔、一人でいた時には曲想を求めて、一日中うろうろしたこともあったけど、最近は全然…このところ、一日中家に籠って、してばっかりだったから…」
「なにを?」
「…」
君はふと不自然に口ごもり、視線を彷徨わせる。その頬がみるみる赤く染まっていくのを見て、俺には思い当たることがあって。淀んだものが、腹の底に沈殿していくのを感じる。
それじゃあ何か。君はほとんど軟禁状態で、やつの、セデュイールの性処理をしていたってわけか。
あいつはあの汚い事なんか何も知らないようなお綺麗な顔で、君を虐げていたんだな。事実が明らかになるたびに愕然とするが、この世界は何が起こってもおかしくない魔境だ。特に芸能界なんて、信じられないような性豪がうじゃうじゃいる。犠牲者の数なんて数えきれないくらいだ。…君がその一人だってことを考えると、叫び出したい気分だが。
「逃げたいとは思わなかったのかい。そんな境遇で…」
「え? どうして?」
「軟禁状態ってことだろ、つまりは…」
「ちがうちがう、僕が勝手に外が怖かったってだけ。毎日してたのだって、僕がむりやり…まあその話はいいや」
毎日、毎日ときたか。俺は何も言えず天を仰ぐ。とんでもないな。まるで奴隷だ。やつは君に罪悪感を植え付けて、逃げられないようにして、自分に縛り付けていたんだな…。
「異常だね、君は早く逃げた方がいい」
「…異常、だよね、やっぱり…」
君は夢遊病者みたいな、ふらふらした足取りで俺の前を歩く。頼りないその肩を引き寄せて抱きしめてあげたいが、君を怯えさせるのも本意ではないので俺は我慢する。
二人きりになったら、多少の接触も許されるかもしれないが…。
「騙してるみたいでいやだから、君にも話しておくね。僕は頭のおかしい異常者で、変態で、自殺未遂を何回もしてる。僕の親父も自殺だった。遺伝するって言うだろ、そういうのって…」
壁に掛けられた無数の絵に視線をやりながら君は囁く。俺は君の後を追いながら、その真意がどこにあるのかを探る。
「それだけ君が追い詰められてたってことだろう、やつと一緒にいて…無理もないよ」
「ちがう、このことにセデュは関係ない。僕自身の問題なんだ」
「そう思うように仕向けられたんじゃないの? 俺なら君を追い詰めたりしないよ。君を守る。やつみたいに、君を放っておいたりしない」
「君にそんな負担はかけたくないな。第一不公平だ、返せるアテのない借金みたい」
「そんなふうに思わなくていいよ、一緒にいるって、負担も分け合うってことだろう…」
「僕は料理も洗濯も掃除もできないし、片付けるのも苦手だし、ズボラで怠惰で落ち着きがなくて、下品で、意地汚くて、イジワルで、頭も悪いし、身体を動かすことも苦手で…できないことが多すぎて、君をイライラさせると思う」
「家事は家政婦がいるから大丈夫。君はそのままでいてくれればいい。そのままの君が好きなんだから。他に俺に告白したいことはない? この際、何でも言っていいよ」
「あとは、えーっと、経験人数10や20じゃきかないとか、未成年で飲酒してヤクでラリッて乱交パーティーに参加して、ギャンブルで借金作りまくったとか…今は借金はないけど、貯金もないとか…」
「俺は14でゼン監督の愛人やってたんだぜ。お互い様だよ。金のことは俺が稼いでるから問題ないし。他には?」
「…自分で決断できないからって、君に選択を押し付けようとしてる、卑怯者ってこととか」
「…」
振り返らない君の腕を掴む。長い前髪の間の怯えたような眼が俺を見て、また伏せられる。
俺に決断を委ねてくれるってことは、君は迷っているんだな。俺をきっぱり振ることができないくらい、気持ちが俺に傾きつつあるってことだ。
四六時中、可能な限り一緒にいて、君を見守ってきた甲斐があった。俺はゴクリと嬉しさを飲み込むようにして、君に聞く。
「キスしてもいいかな? 君の勇気ある告白にたいする感謝として…」
「そういうのは、撮影が終わるまで、待って…」
恥じらうように君は言って俺の手をぱっと離して、駆けていく。蝶のように身軽な君を俺は追う。その華奢な身体を、この腕に抱きしめるために。




