第三十八話
「結局、ミーチャはカテリーナとグルーシェニカ、どっちが好きなのかなア?」
君は仏頂面でソファに横になったまま台本を睨みつける。
撮影も終盤に差し掛かり、俺のオールアップの日も近い。
俺は撮影が終わると君の部屋に入り浸り、マーケットで仕入れた食事を共に摂ったり、君をレストランに誘い出したりしている。君からの返事はもらえていない。セデュイールのことを諦めきれず、まだ悩んでいるのだろう。
「それはグルーシェニカじゃないか? カテリーナは昔の女というだけで…」
「でもさ、原作のミーチャのラストシーンなんてさ、完全にカテリーナに気持ちがいっちゃってるだろう? グルーシェニカは空気じゃないかよーもー」
「ミーチャは無実の罪で服役することになるだろう? まるでキリストみたいに。『許す・許される』ってことが終盤の核になっているから、カテリーナがクローズアップされたってことじゃないのかな? まあ確かに、カテリーナに向けるミーチャの愛が信仰じみてるのは感じるけど…」
「それだよそれ! 結局グルーシェニカのことは肉欲で恋してただけで、カテリーナこそが真ヒロインってことじゃないの!? もう、ミーチャのバカ!」
「まあ男ってそういうものだよ。その時々で真剣に相手に向き合ってるつもりなんだ。傍目にはどう見えても…」
「そういうもん? わっかんないなア」
「セデュイールだってそうだろう。奥さんがいながら君に手を出してたわけだから」
わざとやつの話題を振ると、君はぴたりと黙り込む。眉を顰めて、唇を噛み締めて、言葉を探している。
「…セデュはちがうよ。ぜんぜんちがう」
「そうかな? 俺にはそう見えないけど」
「奥さんがいるときには、…そういうことは、なかったし。キスくらいなら、したけど…」
「キスしてる時点でもう浮気じゃないの?」
「浮気…かな、…うん、奥さんは嫌だったろうなアとは、思うけど…」
「今はやつはハリウッド女優に夢中なわけだろ? 男遊びも女遊びも並行してるってことだ。いやあ、初めて会ったときは随分と初々しかったけど、芸能界の悪習に染まっちまったんだろうなあ、セデュイールも…」
「…遊んでるわけじゃない、セデュはそんなことしない…」
「君はそう思いたいのだろうけどね。男に良いように弄ばれてる子は、みんなそう言うよ」
「…もてあそばれてない」
「ん?」
「ぼくはちがう、ちゃんと愛されてたもん…」
「…5歳のときから慕ってくれてる子に手を出すなんて、俺は信じられないけどね。倫理観ってものが欠如してるとしか思えない」
俺の過去のアレコレはとりあえず棚に上げて、君にそう突きつける。君とやつとの関係が、どこか異常だとは思っていたから。案の定君は反論できずに黙り込む。子供みたいに純真な君にやつは付け込んだんだろう。身体の関係を持って自分に縛り付けて、依存させて、自分の思うがままに扱ってきたのだろう。それって、行きずりの相手と関係をもつよりずっと、反吐が出るような所業じゃないか。
倒れた君を抱き上げて楽屋まで運ぶやつの姿は、スタッフみんなが目撃してる。君には意図して伝えなかったが。やつはまだ未練があるんだ、君の身体を思い切れないんでいるんだ。なんて女々しい、醜悪な欲望だろう。
「忘れてしまえよ、あんな人でなしのことは。結局は肉欲だよ、神聖なところなんてひとつもない」
「…ちがう、セデュはぼくのこと、ちゃんと考えてくれてた。大切にしてくれてた…」
「君を放り出して遊び歩いているのに? 君のところに、やつが最後に訪ねてきたのはいつだった? もう随分前のことになると思うけど」
君の退路を断つように俺は追い詰める。君が俺を、俺だけを見つめてくれるように俺は願う。こんなふうな気持ちこそが、神聖なものなんじゃないかって思う。あいつより遥かに、俺の方が、君には相応しいんだ。
「…ごめん、君を傷つけたいわけじゃなかった。言い過ぎたよ。俺は君の過去も全部受け止める、それを伝えたかったんだ」
「…」
俯く君に畳みかける。君の心は揺れているだろうか。セデュイールを思い切る決心を、つけてくれるだろうか。君のひどく頼りない肩は薄くつめたく、凍り付いているように見える。ひとりぼっちで凍えているように見える。俺はそんな君を温めてあげたいのだ。安堵して柔らかな笑顔を見せる君を、抱きしめてあげたいのだ。
「…キスして、みるかい、ためしに…」
「…どうして」
「試してみたら、何か変わるかもしれないと思って…セデュイールとは違うんだって、わかるだろう、君も…」
「…」
君はやっと顔を上げ澄んだ瞳で俺を見る。泣き腫らした後のような、ひどく疲れたような眼だ。それなのに清い水のように澄んでいて、長い時を見てきたひとのように達観しているようにも見える。
「キスは嫌?」
「…べつに大丈夫。君とはもう一度してるし…」
「そうだった。でもあれはカウントできないな。人命救助だから」
「…変わるかな? ぼくの気持ちも…」
「わからない。試してみなけりゃ…」
君は物思わし気な瞳を伏せて、金の睫毛が淡い碧を覆う。紅を塗っていない薄い色の唇が無防備に俺の前に差し出される。
俺はゆっくりと君に近づいて、その唇に触れる。薄い唇は冷え切っていて、見た目の印象よりはるかに柔らかい。甘い香りが漂うのはおそらく君の体臭だ。花のような、お菓子のような。甘い甘いケーキのような。
ドクドクと鼓動が早鐘を打っている。身体中の熱が顔面に集中しているみたいに熱くなってくる。舌を入れることもできずに俺はゆっくり唇を離す。目の前に君の睫毛がある。金色の、稲穂のような、精緻で綺麗な…。
「どうだった?」
「…」
至近距離で尋ねると君の瞳が開き、ぱちぱちと蝶の羽搏きのように瞬く。
「セデュとはちがうね、やっぱり」
苦笑するような声がそう呟く。君の真意がわからず覗き込む俺に、君は目線を上げる。
「タバコのにおいがする」
「嫌だった?」
「…懐かしかったよ、僕も昔は吸ってたから」
「君は香水は付けないのかい?」
「香水?」
「今度一緒に、買いに行かないか。君の体臭もいい匂いだけど…俺の選んだ香水を、君が纏ってくれたらいいなと思って…」
「…考えておく」
「なんなら、身体の相性をたしかめてみてもいいよ。大事だろ、付き合う前に確かめるのも」
「そいつはやめとく」
「…理由を聞いてもいい?」
「ちゃんと気持ちができてないのにするのはさ、結局相手を道具に使うってことだろ。そんなのマスターベーションと一緒だよ」
「案外しっかりしてるんだなあ、奔放そうに見えるのに。連日の撮影で溜まってたりはしない?」
「作曲が僕のマスターベーションだから大丈夫」
「…君はときどき凄いことを言うね」
「別に書きながらシコってるとかじゃないからな!? それ代わりってだけで…」
「そのノリでアブノーマルなプレイも随分と経験してそうだな、セデュイールと…」
「してないしてない! セデュはいつも紳士だから! そういうのも昔は、女の子とはしたことあるけど、今は全然…」
君はピタリと動きを止めてがくりと脱力し、「やめよっかこの話」と投げ出すように呟いた。
俺もそれには賛成だ。




