第三十六話
ふわりふわり、浮遊感がある。捕まるもののない腕が揺れている。僕はぐったりとしたまま、身体が持ち上げられて、運ばれているのを感じる。
ダージリンティーみたいな甘い香りが近くにある。僕の好きな香りだ。
――僕が音楽室で力尽きると、いつもセデュはこうやって、僕を運んでくれていたっけ。作曲に熱中して、終わるとすぐ寝入ってしまう僕はしっちゅうこうして、ベッドまで連れて行ってくれるセデュに甘えていたんだ。
夢の中のようで、現実感がない。目を開けたら傍にいるのは、救急隊員さんだったりして。病院に運ばれている最中だったり? 微睡みながら僕はそんなことを考える。確認したいけど、身体が思うように動かなくて、目が開けられない。
キイと扉を開ける音がして、しばらく進み、僕はベッドにゆっくりと寝かされる。しっかりと僕を抱いていた腕は引き抜かれ、去って行ってしまう。
そう、思っていたんだけど。
乾いた掌が、僕の頬をなぞる。包み込むみたいに、あたたかな体温がそこから伝わる。
撫でるように幾度もそうして、触れていた指先は、やがて離れていく。どこかで誰かを呼ぶ声がして、そのひとは部屋を出ていく。
――
目が醒めると僕は楽屋に寝かされていた。衣装のまま。額に手を当てると幾分下がっている感じがある。とにかく着替えないと――
むくりと起き上がると、枕元にはマルセルがいた。じっと物思わし気な目で煙草をくわえ、なにやら考え込んでいたと思ったら、ぱっと笑顔になる。
「よかった、君が倒れたと聞いて――」
「ぼくを運んでくれたのは、君?」
「…」
尋ねると一瞬マルセルが黙り込む。僕の目の中を覗き込むようにして沈黙した後、ゆっくりと頷く。
「そうだよ。俺だ。君は気づかなかったろうけど」
「…ありがとう、駄目だな僕は。またみんなに迷惑かけて…」
「仕方ないことなんだから、気にしないでいい。もう平気かい? 歩ける? 手を貸そう」
マルセルは灰皿に煙草を擦りつけて消し、僕の手を取る。灰皿には煙草が山盛りになっている。それだけ長い時間、僕を見ていてくれたのだろうか。寄り添うとふわりと煙草のにおいと、香水の匂いが混ざり合う。マルセルの香水は、エキゾチックなムスク系だ。
セデュの匂いとは、ぜんぜん違う。
僕はやっぱり、夢を見ていたんだろう。未練たらしいったらない。嫌気が差すね、まったく。
ホテルに帰ってたっぷり眠って、翌日もまた撮影だ。今日こそ大丈夫。もう倒れたりしない。セデュとの接触はとうぶんないから、大丈夫なはず。うん。
付き添って現場入りしてくれたマルセルと別れて、衣装に着替え、パウダールームに入る。
メイクさんは、たっぷりと時間をかけてメイクしてくれる。今日は泣きの芝居があるから。化粧も厚塗りだ。
思いを確認し合ってすぐにミーチャが拘束され離れ離れにされ、父殺しの容疑で起訴された彼を恋うて、カテリーナに嫉妬して、グルーシェニカはアリョーシャの前で涙を零す。今日もアリョーシャ役は身代わりの男の子が演じている。僕はその前で、「やっぱりミーチャはあの女を愛してるのよ」とか「あのひとはわたしのせいで狂っていたの、卑怯なわたしが悪いの」とか「あの人は殺してない、絶対に」とか「あのひと私を棄てる気でいるのよ」とか並べ立てて、取り乱して、わんわん泣いた。セデュのことを考えれば勝手に涙が出てくるんだから、目薬も必要ない。爛れた生活を送っていた淫売が過去を悔いて、ほんとに恋した男のために泣くんだ、僕にはなんか、ぴったりじゃない? もう楽勝って感じだ。ただ、カットがかかっても、涙が止まらないのが難点だけど。
ここにセデュがいなくてよかった。彼がいたら、泣き止むことなんてできそうにないから。
マチウにタオルを渡されて、撮影終わりの僕はそこに顔を伏せる。しゃくりあげる僕の背をおそるおそる撫でて、マチウは
「よかったですよ、迫真の演技でした」
なんて、白々しい言葉を並べていた。
午後には修道院の食堂にセットを組んで、法廷シーンの撮影だ。引きたてられたミーチャは毅然としている。身に覚えのない罪で責め立てられていることに対する怒りを表明するように、裁判官を睨みつける。検事と弁護士の舌鋒が交錯し、場面は白熱する。僕はカメラのうしろでそれを見守る。
粗暴で、繊細で、直情的で、ひどく純真なミーチャは、女の人にはすごくもてるけど、男の人には徹底的に嫌われてる。裁判所に臨む人たちはみんな、ミーチャが殺したと思ってる。ミーチャの証言は拒絶され、否定され、嘲笑される。皆が皆、彼の敵だ。彼の無実を証言するのは、アリョーシャとイワンと、グルーシェニカくらいのもんだ。
「俺は殺してない!」
セデュの悲痛な声が響き渡る。イワン役のマルセルが入廷し、証言を述べる。ミーチャを庇うような証言に、しかしその場の空気は覆らない。カットが掛かり、僕が呼ばれる。グルーシェニカは顔を上げ、入廷する。しずしずと、貞淑な乙女のように進み出て、被告人席にいるセデュを見る。万感の思いを込めたような君の瞳に見つめられている。ライトがちかちか君の瞳に瞬いて、星みたいだ。僕の恋しい人。わたしのいい人。いとしいミーチャ。
「あの人は殺していません、絶対に! わたしはあの人を信じています。永遠に信じ続けます!」
こんなふうに君に言いたかった、君を信じ続けていたかった。セデュの、ミーチャの目が濡れている。何度も見てきた、君の瞳だ。大切なものを一心に見つめるときの君の瞳だ。演奏する僕を見つめるときの、ロスの浜辺で踊ったときの、どうしようもない僕を抱きしめるときの。
やっぱりよかったな、俳優なんて向いてないけど、引き受けてよかった。僕たちの姿は、この一瞬は、フィルムに残る。それこそ、永遠に。
カットが掛かって、僕は退場する。マチウが渡してくれる水を呷りながら僕は次のシーンの、ロレンツォ君の悲痛な絶叫を聞く。
「あの人でなしが犯人です、あの男が殺したのよ!」
わあわあと紛糾する裁判所にくるりと背を向けて、僕は楽屋に戻っていった。




