第三十五話
翌朝は7時に起きて、9時の入り。僕は午前中はアリョーシャで、午後はグルーシェニカを演じる。目まぐるしいけど仕方ない。体調不良で現場に穴を変えた僕が意見できることじゃない。
撮影クルーにも共演者にも一人ひとり頭を下げて謝る。みんな大人なので、たいていの人は笑って許してくれる。冷たい目で僕を睨んだのはロレンツォ君くらいだ。カテリーナに扮したロレンツォ君は冷徹な貴族の令嬢って感じで迫力がある。
「この期に及んで体調不良って、現場にどれだけ迷惑かけると思ってるんです? 信じらんない、役者舐めてますよね?」
いつもの舌っ足らずな口調じゃない、冷ややかな声で詰られて恐縮する。反論の余地もない。まったく。全面的に僕が悪い。申し訳ない。
頭を下げたままの僕に呆れたようにため息ついて、ロレンツォ君は行ってしまった。うん、下手に慰められるよりきちんと責められた方がすっきりするな、あの子は僕のことを気遣ってくれたのかもだ。反省して、今後は二度と繰り返さないようにしないと。
「体調はもう平気なのか」
セデュの前で頭を下げるといつもの彼の心配そうな声が降る。
「ん。もう大丈夫。迷惑かけて悪かった」
「そんなことはいい。よくあることだ」
「よくは、ないだろ。君はまたそうやって、僕を甘やかして…」
顔を上げるとミーチャに扮したセデュがいる。今日の撮影は、病室のシーンだ。父殺しの罪を着せられたミーチャの裁判が終わり、有罪を宣告されたあと、熱病に倒れた彼のもとにカテリーナが訪れるシーン。
裁判でミーチャを陥れたカテリーナの懴悔と、許し合う二人の愁嘆場のシーンだ。
僕はアリョーシャなので、そのふたりをただ見ていることしかできない。
今の僕とまったく同じだ。目の前にセデュがいても、泣いて縋りつくこともできない。
「…わたし、もう一度あなたに言いたかったの、あなたはわたしの神、わたしの喜びです。気が狂うほどあなたのことが好きだって、言いたかったのよ…」
カテリーナの、ロレンツォ君の声が現場に響く。よく通る声だ。ミュージカルもいけるかもしれない。
僕は傍観者として立ち尽くし、二人の芝居をただ眺める。
映画の撮影ってのは順番通りじゃなくて、このシーンも終幕近くの場面だったりする。
ロケの都合とか、セットの都合とか、役者のスケジュールの都合、あとは監督のモチベーションの都合? なんかで撮影順は決定するらしく、役者はその都度感情を盛り上げなくちゃいけないから大変だ。
ロレンツォ君は、ぼろぼろと涙を零しながらミーチャの手に口づけする。熱演だ。一方ミーチャは、セデュは、そんな彼女を愛おしそうに見つめている。
「あなたはいま別の人を愛してるし、わたしもそう。でも、やっぱりあなたのことを永久に愛し続けるし、あなたもそうなの。ね、私を愛してね、死ぬまでずっと愛してね!」
「愛し続けるよ、カーチャ」
セデュはそう言って、ぎゅっと彼女の手を握る。もう離れられないみたいに。
「5日前のあの晩、ぼくは君を愛していた…死ぬまで、そのままだ、永久に…」
セデュはカテリーナの手に口づけする。誓うように、神聖なものに触れるように。
全部演技だ、お芝居だってわかってるけど、胸がぎしぎし痛む。
セデュはもうあんなふうに、僕には触れてくれないから。
カテリーナは泣きながら退場し、ミーチャは、セデュは、初めて僕を見る。
「アリョーシャ、彼女の後を追ってくれ! このまま彼女を帰したら駄目だ!」
僕は頷いてロレンツォ君の後を追う。カメラに追いかけられながら、グルーシェニカへの愛を誓ったその口で、カテリーナへの未練を見せるミーチャに、セデュに、腹の底がぐらぐらしてくる。
カテリーナは父殺しの罪を着せられたミーチャに不利な証言をして陥れた。でもそれは、他の女に走ったミーチャへの憎しみと、真犯人への殺人教唆の罪に悩むイワンを救いたい思いとに引き裂かれた結果のことで。
一時グルーシェニカに幻惑されていただけで、ミーチャが信仰じみた愛を捧げているのは、本当はカテリーナなのかもしれなくて。
いずれにしろ、アリョーシャにとっては関係のないことだ。僕はずうっと片思いで、おにいちゃんがそういう意味で僕を見てくれることはない。
「わたしを許してください」
追いついた僕に、カテリーナはそう言った。艶やかなブルネットの巻き毛を震わせ、身も世もないくらいに泣き濡れて。
ボクは近づいて一言二言、台本通りの台詞を言って。
カメラに映らない次の瞬間、ロレンツォ君はぎろりと僕を睨みつけて、そしてくるりと踵を返した。
休憩時間にサンドウィッチを摘まみながら着替えて、メイクして、即現場入りして、午後はグルーシェニカとしてセデュに向き合う。
ミーチャが拘束される直前に互いに愛を確かめ合ったグルーシェニカは一転、献身的にミーチャに尽くす。カテリーナとの間のことで嫉妬して、涙を流しもする。
追いかける辛さがやっとわかったろう、グルーシェニカ。君がずっとミーチャにしていたことだぞ。…。
撮影ではグルーシェニカとカテリーナの衝突の場面はカットされ、原作にはない、ミーチャの看病をするシーンを演じる。
台詞もなくて、台本にはただ「グルーシェニカ、ドミートリーをベッドに座らせ、跪いて手にキスをする」と書かれている。
さっきカテリーナがしていたことの再演だ。どういう意図があるのかわからないけど、セデュに触れられるまたとない機会だ。こんなに私情が溢れまくってるとまたロレンツォ君に軽蔑されそうだけど。
現場入りした僕はセデュに肩を貸し、監督の号令を待つ。セデュの肌の匂いと、ダージリンティーみたいな香水の匂いが近くて、どきどきする。あたたかな体温に、ひとりでに涙が滲んでくる。目を擦るとメイクさんが飛んでくるから、上を向いて気を逸らす。ちかちかとライトが眩しい。目が眩みそうだ。
監督の号令がかかり、僕はセデュをベッドにゆっくりと下ろす。
そのまま彼の前に跪いて、何も言わずその手を取り、キスする。乾いた大きな掌だ、僕のだいすきなセデュの掌。鍵盤の上で繊細にも粗暴にも暴れまわる長い指、神経質に短く切り揃えられた爪、あたたかなその温度。
こんなふうに触れられるのは、お芝居だからだ。板の上を離れたら、僕は君に触れられない。ああ、ずっとここにいたいな。君に触れていたい。お芝居でもなんでもいいから――
セデュが僕の手を強く握り返す。ふと彼が屈みこむ気配がして、蟀谷にセデュの唇が触れる。
まるで時が止まったみたいに感じる。君の、見た目より柔らかい唇が触れて、そこから熱が広がっていく。頭がぼうっとする。というか台本にない、んだけど。なにこれ、アドリブってやつか? そんなのあり?
「――カット! Bene!」
どうやら一発オーケーだったらしい。台本通りじゃなくてもいいんだ。へえー勉強になるなア。へえー…。
僕はセデュの手を振り解いてふらふらと立ち上がる。なんだか頭がくらくらしてる。久しぶりにセデュに、キスされたせいかも。なんで彼がそんなことをしたのか、役が乗り移っちゃってるせいなのか、全然わからない。混乱する。僕の今日の撮影はこれでおわりだ。セデュはまだ撮影があるみたいで、駆け寄った監督と何か話してる。おぼつかない足取りで僕は現場を離れ、ふらふらとカメラの外に出て、片隅の、スタッフさん用のベンチに腰掛ける。
目の前が滲んで、ふわふわしてる。やばいな、また熱が上がってきたかも。マチウが僕に駆け寄り、僕の額に触れてすぐ、蒼白になる。あー一昨日とおんなじ顔だ。やっぱり発熱してる。治ったと思ったのにな…。
「ここにいてください、すぐに戻りますのでえ!」
バタバタとマチウがどこかに駆けだす。なんだろう、お医者さんでも呼んできてくれるのかな? ここにお医者さんっていたろうか。それともウィーンから呼び寄せたり? いやだな、大事になるのは…。
重力に逆らえなくなって、僕はぱたりと横に倒れる。目を開けていられなくなって閉じると、そのまま意識を失った。




