第三十四話
翌朝はすっきりとした目覚めだった。熱も下がっている。やっぱりただの知恵熱というか、普段働いてない脳みそを酷使しすぎたせいの不調だったのかもだ。これなら撮影にも参加できそう。またスケジュールを変えてもらうのは申し訳なさすぎるから、明日から、頑張ろう。
「よかったですね、明日朝にまた計ってみて、問題なければ現場にそう伝えましょう」
「うん、ありがとーマチウ。僕も謝罪して回らないとなー」
「こういうことは、よくある…とは言いませんが、まあなくもないことなので、大丈夫ですよ。きちんと謝罪すれば、禍根も残りません」
「お辞儀の角度とかあるの? 練習した方がいい?」
「そうですねえ…」
マチウにお辞儀の仕方を習っていたら、遠慮がちなノックの音がした。僕を寝室に残してマチウが応対に向かう。戻ってきた彼は、今度はマルセルを伴っていた。
「やあ、おはよう、リーヴェ。心配したよ、もう身体は大丈夫?」
「おはよーマルセル、お見舞いありがとう、…」
匂やかな花束を抱えたマルセルはそれを僕に差し出す。大輪の白いバラの花束だ。甘い香りが部屋を満たして、砂糖でできたお城の中にでもいるみたいだ。
「すぐそこの花屋で見かけてね、君に似合うだろうと思って…」
「ありがとう、わー綺麗だねえ。バラの花束、久しぶりにもらったなー」
「ひさしぶり?」
「うん。前はさ、セデュの奴がこーんなでっかい花束寄越してさ、驚いたよ。99本もあったんだぜ、もう抱えるのも一苦労で。びびるよなー」
「…」
マルセルは笑顔のまま黙り込み、マチウの慌てたような視線を受けて、僕は失言を悟る。ほんとに、ちょっとは頭を使えよ僕。喋る前に考えてみろよな…。
「…無神経だった、ごめん」
「いいよ。俺は別に、君に思い出を棄てさせたいわけじゃないから」
「わ、私は少し、席を外していますねえ…」
そそくさと言って、椅子に掛けていた上着を抱えてマチウが出ていく。バタンと扉が閉まって、僕はマルセルと二人きりになる。
マルセルはきょろきょろあたりを見回して、壁際に置いてある花瓶を見つけるとそれを取り上げて洗面所に向かい、水を満たして戻ってくる。僕から花束を受け取ると器用に包装を剥がして花瓶に活ける。マイセンらしい陶器の花瓶に白い花が映えて綺麗だ。
「いい匂いだね、とても…」
「バラの紅茶って飲んだことあるかい? この香りが口に広がって、なかなかいいよ」
「そうなんだ、飲んでみたいなア」
「今度持ってくるよ、…」
マルセルは口ごもり、耐えられないとでもいうみたいに、僕をじっと見る。
改めて見下ろすと、今の僕はシャツを羽織っただけで、下半身は下着姿だった。マチウの前だからって油断しきってた。マルセルの心境を思うと、なんだか妙に気恥ずかしい。僕は今更みたいにシャツのボタンを留めて、なるべくそいつを引っ張って、下半身を隠す。もぞもぞ格闘する僕から視線を逸らして、マルセルは咳払いした。
「一昨日の晩のことなんだけど」
「…うん」
「考えてくれた?」
「…うん、…」
僕は曖昧に頷く。まだ決断ができないからだ。セデュを思い切る決心が、まだできていないから。
「…」
「…」
沈黙のうちに見つめ合って、しばらくして、マルセルは力が抜けたようにため息を吐く。
「急がなくていいよ。ゆっくリ考えてくれていい。俺は待っているから」
「…」
マルセルは優しくて親切で、いい男だ。僕には勿体ないくらい。
それなのに僕は彼に即答できない。…まだ決められない。優柔不断で、宙ぶらりんのままで、ずっと何かを待っている。
何か、突発的な事故が起こって、僕が再起不能になるとか、二目と見られないくらいぐしゃぐしゃになって、誰にも見捨てられるとか。そういう、僕に相応しい出来事が、起こってくれないかなアなんて、だらしなく願ってる。
こんな気持ちのままで、マルセルに応えられるわけがない。
だったらきっぱり断ったらいいのに、それもできない。
セデュと別れて、ひとりぼっちで生きていく自信が持てないからだ。人肌の暖かさを、愛し愛される快感を知ってしまった僕に、孤独に耐える力があるかわからない。僕が弱くて卑怯で、意気地なしなせいだ。
スイスの療養所で、先生に言われた言葉が蘇る。僕の、僕だけの、自立した幸せ。セデュがいなくても、成立する幸せ。そんなもの、僕が感じることはできるのだろうか?
マルセルは椅子に掛けて、持ってきたナイフで、青りんごを剥いてくれる。マチウが買出しで入手してきた缶詰も開ける。ペースト状の、カレーみたいな、具がいっぱい入った煮込み料理の缶詰だ。果物の缶詰もある。彼に促され隣に掛けた僕は、スプーンでそいつを穿りだして、胃に収める。まる1日、碌に機能していなかった胃に次々と食料を放り込む。ぱくつく僕を見てマルセルが笑う。なんでもない日常の一コマだ。隣に君はいないけど、僕はそれでも腹が減るし何か食べずにいられない。
やがてマチウが戻ってくる。テーブルで談笑する僕らを見て足を止め複雑そうな表情で口を噤んで。
「おかえりーマチウ。君も食べるかい?」
「いいえ私は…」
「おや、どうしたんだいそれ、お見舞いの花?」
「これはまあ、ついさっきそこで、共演者の方からムッシュ・リーヴェにと…」
マルセルに問われたマチウは背に隠していた花束を前に持ち替え、ぐるりと振り返った僕はそれを見る。小さな花束だ。白いクレマチス。…スイスの療養所で、セデュが僕にくれた花だ。
僕はがたんと立ち上がり、マチウの横をすり抜けて扉を押し開け、廊下に走り出る。
がらんとした廊下に人気はない。
きょろきょろあたりを見回すけど、誰一人通らない。
…あたりまえだ。もうセデュは僕に関心なんかないんだから。
体調不良の同僚をただ、あいつの生来の優しさで、気遣ってくれただけだ。
いつまでも未練がましくしがみついて、一体何を期待してたんだろう。
ほんとにバカだ、バカすぎる。こんなこと何回繰り返すんだ。いったい何回――
「部屋に戻ろう、リーヴェ、君には休息が必要だ」
マルセルが気遣わし気に僕の手を引く。僕は茫然としたまま、彼に従った。
バタンと扉が背後で閉まる。…。




