第三十三話
ひと眠りして、目が醒めた時には僕はひとりだ。枕元には水と、青りんごとオレンジがそのまま置かれている。喉が渇いたのでひとまず水で喉を潤す。果物を剥くのは億劫なので青りんごにそのまま齧りつこうか、でもそれも億劫だなア、食欲もないし…。ぼうっとしているとマチウが部屋に戻ってきた。食料でも買出しに行ってきたのか、マーケットの紙袋を抱えている。僕の部屋の鍵はいつの間にか彼が管理していたらしい。
「起きたのですか。お加減はどうです?」
「…朝よりはよくなったかも。食欲はでないけど…」
「無理にでも食べないと回復しませんよ」
「わかってるんだけどさ、どうにも…」
汗をかいたせいか、なんだか身体がべたべたして気持ちが悪い。それを訴えるとマチウは
「濡れたタオルをもらってきます」
とそそくさと出て行った。ごろりとベッドに横たわる。マネージャーってこんな子守みたいなことまでさせられるんだ、タイヘンだなア…。まあさせてるのは僕なんだけど…。
しばらくして、ホカホカに温まったタオルをおそらくフロントで用意してもらったらしいマチウが戻ってきて、それを僕の目の前に差し出す。
「君が拭いてくれないの?」
「わわ私はマネージャーですので!? そこまでの業務は仕事の範疇に入らないと言いますか!?」
「そっかあ…それもそうだよな。ごめん」
…いつも僕が発熱すると、セデュがすっ飛んできて看病してくれてたから、すっかり麻痺していた。身体を拭くのも自分でやらないといけないんだよな、セデュはもういないんだから。僕はそれができない幼い子供じゃないんだし。
「現場のほうはどうだった? …みんな怒ってた?」
「明日からの日程をずらしてもらうということで、撮影に支障は出なそうでした。今日はあなたはオフだったので、幸いしましたね」
「そうかあ。…でもはやく治さなきゃだよね」
「ええ、そうしてください」
シャツを脱いで濡れタオルで身体を拭ううち、みるみるタオルは冷めていく。僕の体温の方が高いくらいだ。髪も洗いたいけど、ひとりでシャワーを浴びるのがなんとなく不安だから、我慢我慢。
「…ムッシュ・レヴォネとは、喧嘩でもされたのですか?」
買ってきた食料をテーブルに並べながら、マチウがぽつりと漏らす。
僕はぴたりと手を止め、何と答えようか迷って、
「…喧嘩じゃあないとおもう」
と、事実だけを述べる。
「ではなぜ…」
マチウの声が途切れる。部屋のチャイムが鳴らされたからだ。僕にここにいるよう言い置いて、マチウが応対に出る。訪ねてきたのはマルセルらしい。廊下でしばらく話したマチウが戻ってきた頃には僕は足の指を拭いていた。
「ムッシュ・ヴィオレでした。あなたを心配されてお見舞いに来られたそうです。体調がまだよろしくないと言って帰ってもらいましたが…よろしかったですか?」
「うん、ありがと」
使い終わったタオルをどこに置こうか逡巡する僕からタオルを受け取ったマチウが、僕の目を覗き込む。なんだか深刻そうな顔だ。
「あなたは、ムッシュ・ヴィオレとお付き合いされているので…?」
「…」
僕は少し考え、誤魔化すように首を傾げる。何と答えたらいいだろう。マルセルは僕のことが好きだと言った。一緒にいたいって言ってくれた。セデュへの思いで宙ぶらりんの僕を、そのままじゃダメだって叱って、ちゃんと前を向かせようとしてくれた。
ありがたいと思う。こんな僕には勿体ないくらいだって思う。
親切だし、優しいし、いい男だし、マルセルの欠点なんてひとつも思いつかない。
セデュに思いを残したまま向き合うのは、失礼だって思うくらいだ。
だから、付き合うのなら、ちゃあんとマルセルだけを見るようにしなくちゃいけない。セデュのことは忘れなきゃいけないんだ。どうしたって、できそうもないことだけど。
「いま、考え中。マルセルと付き合えるかどうか…」
「こんなことを聞いては失礼かもしれませんが…ムッシュ・レヴォネとのことは、どう…」
「とりあえず、事実だけを言うね。セデュは毎晩監督や共演者と飲み歩いていて僕のところには戻ってこない。以上」
「…はあ、それでよろしいので…?」
「よろしいって何が?」
「…話し合われなくて、よろしいのでしょうか…」
「話してもねえ。なんか、今のセデュとは、リズムが合わないって言うか、不協和音みたいで、しっくりこないって言うか…話したところで、どうしようもないこともあるし」
「そういうものですか…」
いまいち納得してない顔でマチウが言う。僕はまたベッドにもぐりこんで、顎までシーツを引っ被って、
「もうひと眠りするね、オヤスミ」
と一方的に話を打ち切った。
セデュと離れて、マルセルと暮らす僕のことを想像してみる。すぐにはセデュのことを忘れられなくても、何年か経てば、10年後とか20年後とかには、いい思い出だったなアって振り返ることができるかも。20代の前半から半ばくらいまで、僕は大好きな人にめちゃくちゃ愛されてたんだって、懐かしむことができるかも。きらきらした宝物みたいに胸の奥にしまって、時々取り出して眺めるだけの、そういう思い出になれるかも。
僕がそれまで、生きていられたらだけど。
マルセルに渡した拳銃は、べつに他意があったわけじゃない。
殺してほしいってメッセージなわけでもない。死にたくなってたのはほんとうだけど。
…死ぬなら、どうせなら、セデュに殺されたい。彼の腕の中で、絞殺されたい。そうしたら僕は幸せなまま逝けるかもしれない。…妄想だけど。そんな罪を、あいつに背負ってほしくはないから。
また頭の中がぐちゃぐちゃしてきた。僕は目を閉じて眠りの態勢に入る。マチウはそれ以上僕に問い詰めることはやめ、ひっそりと部屋を出て行った。




