第三十二話
ホテルの部屋に君を送る。ちょっと躊躇ってから君は俺を部屋に入れ、椅子に掛けさせてから姿を消す。
間もなく戻ってきた君は、その華奢な手に、不釣り合いなリボルバーを携えていた。
「…なんだいそれ。セデュイールを殺してこいとでも言うの?」
ごとりと目の前のテーブルに置かれたそれをまじまじ眺めて言うと、君は虚ろな笑いを返す。
「ちがうよ。僕が持っていたら…自殺用にしかならないから」
「…君はどこで手に入れたの。これ」
「ロレンツォ君からのプレゼントだよ。僕の初舞台のための」
「物騒だなア、とてもお祝いの品に贈るようなものじゃない」
「本物か模造品か知らないけどね。弾も入ってる。一発だけ」
「…悪趣味だね」
君は笑みの形に唇を歪めたままで、俺を見る。揺れている目に俺が映っている。確かに俺が、君の目の中にいる。
「捨ててくれてもいい、どう扱ってもいいよ。君にあげるから」
「…俺が君を殺したくなったらどうするの」
「いいよ、君の好きにして」
「…リーヴェ、君は…」
「君の言葉、…ちゃんと真剣に、考えるから、」
最後まで言えずに、君は踵を返す。ぱたんと寝室の扉が閉ざされ、残された俺はリボルバーを摘まみ上げる。ずっしりと重い。本物だとしたら、手に取るのは初めてだ。
これを俺に渡した君の心理はわからない。撃ち殺されたいと思っているのかどうかも。
俺はリボルバーをスーツの内ポケットに入れて席を立つ。君は俺と真剣に向き合ってくれると言った。今はそれで十分だ。
夜の街に出て、ぶらぶらと歩き回る。通り過ぎる風景に、君の姿がいくつも重なる。セデュイールを追いかけて、一瞬でもじっとしていられないような君、俺のことなど眼中にない君、きらきらした目をして、チャイコフスキーに聴き入っていた君、道端で立ち止まって、茫然と俺を見つめる君。
喉の渇きが癒えず、腹の底が熱く茹だってくる。気が付いたらドナウ河のほとりに出ていた。街灯がぽつりぽつりと黒い河面に映っている。人気はない。揺れる水面は深く濁り、水死体が沈んでいたとしても見分けられなそうだ。大河は広大な距離を進み、やがて大海に流れ込む。そして水死体は魚の餌になるってことだ。アーメン。
俺は内ポケットからリボルバーを取りだし、夜空に向けて発砲する。パン、と一音、破裂するような音が響いて振動が腕に伝わる。つづけてもう一発引鉄を引くが、カチリと乾いた音がするだけだ。弾は使い切ってしまった。
俺は役立たずのリボルバーをドナウ河に放り棄てる。ボチャンと濁った音がして、拳銃は河の底へと沈んでいった。
「おはようございます、ムッシュ・リ―ヴェ、本日はオフですが、明日は9時の入りですので、7時には起こしに参り…」
元気な朝の挨拶を並べていたマチウの言葉が途切れ、訝し気な顔で覗き込んでくる。
「ちょっと失礼、」
一言断ってから彼の掌が伸びてきて僕の額にあてられる。みるみる顔色を変えたマチウは、
「ちょっとここでお待ちください、どこにも行っては駄目ですよ!?」
と念を押して走り去った。
僕はぼんやり廊下に立ち尽くして彼を見送ってから、ひとまず部屋に戻る。
部屋の中は五線譜が散乱してる、惨憺たるありさまだ。昨夜は結局一睡もできなかった。セデュのこと、マルセルのこと、考えれば考えるほど袋小路に迷い込むようで、途中で嫌気が差した僕はマルセルのテーマソングなんかを譜面に起こしだして、興が乗ってきてロレンツォ君のテーマソングも書き起こしていたら日が昇っていた。ちなみにマルセルのテーマソングは金管楽器の五重奏、ロレンツォ君のはパーカッションがメインの派手な曲で、セデュのテーマソングはチェロがメインの厳かなカルテットかな、…。
考えるのが面倒になって現実逃避ばっかりしてる。マルセルとのこと、真剣に考えるなって言った矢先にこれだ。ほんとうにどうしようもない。
バタバタと引き換えしてきたマチウは両手に大荷物を抱えている。救急箱に、氷枕に、体温計?
体温計を僕の口に突っ込んで、表示される数字を見つめるマチウの顔が蒼白になっていく。
「…明日の撮影は中止です。あなたはしばらく養生するように」
「ええ、へいきだよーべつに。このくらいの熱ならコンクールに出てたよ僕!」
「ダメです。撮影クルーには私が連絡しますので、ベッドでお休みください」
「大丈夫なのに、心配性だなア。いきなり休んだら迷惑かけるだろ?」
「もし撮影中に倒れでもしたらどうするんですか! それこそ大迷惑ですよ! ひとまず2.3日は様子を見ましょう、早く横になって…」
僕をベッドに押していくマチウが散らばった五線譜に目を留め、ぐるりと信じられないものを見るような目で僕を見る。
「作曲してたんですか!?」
「…え、いやーちょっと、眠れないから気分転換に…」
「…五線譜は全部没収です。あなたは養生に注力してください!」
厳然と言い放ったマチウは五線譜を掻き集めている。メモ用紙でもなんでも、紙片があれば曲を書きつけることはできるんだけど、それは口に出さないでおく。体調管理を怠ったせいでみんなに迷惑をかけることが確定してしまったわけだし、撮影クルーに平謝りして回らなきゃならないだろうマチウにすまない思いもあるし。
「…ごめんね、自覚が足りなかった…」
「なってしまったものは仕方ありません。あなたは何も心配せず、ゆっくりお休みください。それで早く元気になってください」
五線譜を胸に抱えたマチウが言う。僕はのろのろシーツに滑り込みながら頷く。
頭がぼうっとして、じわじわ鍋の中で加熱されてるみたいだ。耳鳴りもひどい。横になると一層の不協和音が脳髄に鳴り響いて、僕は耳を塞いで目を閉じた。
睡魔はすぐに訪れる。…。




