第三十話
日が暮れるまで友達の距離で遊び歩いて、コンサート前にカフェで腹ごなしをする。君はコーヒーについてきた生クリームをほんの少しだけカップに混ぜ入れ、ザッハートルテと交互に口に運ぶ。ブラックコーヒーを飲む俺にちらりと視線を向け、「大人の男ってカンジだなア」と感心したように言うのが可笑しい。
「珍しい? 君の近くにいる大人はこうして飲まなかったのかい?」
「セデュはめちゃくちゃ砂糖入れるんだよ。5杯か6杯。もう砂糖の味しかしないだろってくらい。生クリームも大好きだし。あいつなら生クリーム全部入れた上に砂糖まで入れそうだな」
「考えただけで胸焼けするね」
「だろー? いつか絶対糖尿病になるぜあいつ…」
カップを掻き混ぜながらけらけら笑って、ふと表情を消した君は視線を上げる。
「今何時? まだ開場時間じゃない?」
「焦らなくてもいい。まだ時間はあるから…」
腕時計をしない君は俺の方に身を乗り出して文字盤を覗き込み、納得したように座りなおす。
「セデュのこと話したら、はやく劇場に行きたくなっちゃった。あいつも聴きたかったろうなア、ウィーンフィル。あいつも音楽狂いなんだぜ、ひょっとしたら僕以上の…」
「…あいつは君のファンだったのかな」
「そうそう。僕の最初のファン。昔っから僕の演奏が好きで、いつでも褒めてくれたんだ…」
「それは下心があったからじゃあない? あいつも男だ。君を最初から狙ってたとか」
「まさか。初めて会ったとき、僕は5歳だったんだぜ。シタゴコロも何もないよ」
「そうかい、そんなに昔から…」
君はセデュイールに囚われていたのか。なんとも気の遠くなるような話だ。そして一層、セデュイールの奴が許せなくなってくる。5歳の頃から自分を慕ってくれていた幼い子を、お前は手籠めにしたんだな。まるで愛玩動物のように自分に縛り付けて、それで自分は他の女と結婚して。…。
「そろそろ行こうか、準備はいい?」
皿の上のトルテをすべて腹に収め、満足した様子の君に手を差し伸べて立たせる。
セデュイールの話題を出した時には陰りを見せていた瞳は今はコンサートへの期待できらきらしている。ころころと、万華鏡のように表情を変える君が、俺は愛おしい。
白亜の宮殿もかくやと思われるほど壮麗なバロック式のブルク劇場を出た後、君は先ほど聞いた交響曲の一節を口ずさむ。
足取りは軽く、跳ねるようだ。こういうときの君はまるで、妖精か天使のようにも見える。人の手に汚されることのない、神聖な存在に見える。
「楽しんでくれたようで、よかった」
無粋と思いつつも声を掛けると君は満面の笑顔で振り返り、俺を下から覗き込むような上目遣いをする。
「楽しかった! サイコーだね、やっぱりナマのオケはいい! 音楽をシャワーみたいに浴びられて、鳥肌立ちっぱなしだったよ。ほら見て!」
君は腕まくりして細い腕を露にする。普段日に当てられていない部分の、血管が浮いて見えるほどの白さに動揺しつつ、俺は笑みの形を作って応じる。
「興奮してたねえ、客席でずっと…」
「そりゃあするよ! 第二楽章のオーボエ、よかったなあ。胸がギュッとなった。ラララ、ララ…」
「君は本当に、音楽が好きなんだね」
「僕の本業はコッチだからね! ああ、気持ちよかったなあ。新しい曲想が湧いてきたぞう! ふふ、タラララ…」
「チャイコフスキーはゲイだったらしいよ、知っていた?」
「え、そうなの?」
「そうそう。世間体のために結婚した奥さんを放り出して、放蕩三昧だったとか、奥さんの存在に苦しめられて、男に逃げたとか」
「ずいぶん身勝手な男だなア。でもじゃあ、彼のミューズは男の人だったのか」
「芸術家にはありがちだけどね。ちなみに君のミューズは誰なんだい? セデュイールかな?」
「…そういうことも、あるかもね」
「セデュイールが君を棄てても?」
「…」
君はぴたりと立ち止まり、視線を彷徨わせる。青褪めた顔が笑みの形に引き攣り、俺を見ない目はなくしたものを必死に探す少女のようだ。
「ロレンツォ君が言っていたよ。セデュイールは毎晩、監督やロレンツォ君と一緒に飲み歩いているんだそうだ。…酒を飲めないセデュイールが、何のためにそんなことをしてるのか、君もわかるよね?」
「…わからない」
「やつは君を抱いて男を知って、抵抗がなくなったんだろうなあ。実際監督に抱かれてるのか、ロレンツォ君を抱いてるのかは知らないけど。そのどっちもかもね」
「セデュはそんなことしない」
「でもあいつが参加してるのは監督のゲイ・コミュニティだぜ。そういう趣向の奴らばっかりの場所だよ。俺も昔参加したことがあるけど、もう酷いもんだった。飲み会なんて口実さ。実態は――」
「いいよ、聞きたくない」
「君はいつまでセデュイールに囚われているの。あいつは君のもとには戻ってこないよ。君は現実を見なくちゃいけない。逃げてばかりじゃ前に進めないじゃないか」
ぱちぱちと瞬いて、表情をなくしていく君は道端で立ち竦む。傍らを通り過ぎていく車のライトに照らし出された白皙は泣いているようにも見え、すぐに闇に沈む。
「俺は君が好きだよ、リーヴェ。本気で、君と一緒にいたいって思ってる」
「…そういう冗談は、」
「冗談じゃない。君にはセデュイールの代わりじゃなくて、俺を見てほしいんだ。俺を愛してほしいんだよ」
「…」
固まったままの君の手を取るとびくりと震える。濡れた瞳が持ち上がり、茫然と俺を見る。
「考えてくれ、俺とのことを、真剣に」
リーヴェは俺の手を振り解かなかった。ただ、何が起こったのかわからないみたいな風情で、されるがままになっていた。




