第二十九話
撮影クルーは動いているが、今日俺はオフの日だ。リーヴェもそうだ。図ったのか何なのか知らないが、ロレンツォやセデュイールのオフの日とはずれているので、リーヴェがあいつらに惑わされることもない。俺は朝市の紙袋を抱えて足取り軽く、君の部屋を訪れる。
チャイムを押して3分ほど待つとゆっくり扉が開かれて、寝ぼけ眼の君が顔を出す。ぴょんと立った寝癖が可愛らしい。
「おはようリーヴェ、今日はオフだろう。どこかに出かける用事はあるかい?」
「おはよう。なんにもないよ…今日は一日、ごろごろしよーかと思ってたとこ…」
あどけない顔で大口開けて欠伸する。君の寝間着はしどけないスウェットで、あまりの無防備さにムズムズしてくる。視線をさりげなく逸らしつつ、俺は君の面前にチケットを差し出す。
「せっかくウィーンに来たんだ、コンサートに行かないか。ウィーンフィルのチケットが幸運にも手に入って…」
マネージャーにごり押しして入手させたチケットをちらつかせると君は一転、瞳を輝かせて飛びついてくる。
「なになに!? え、チャイコフスキー? 交響曲第四番!? いいなあ、行きたい! 今晩なの!?」
「…ああ、そうだよ。ブルク劇場で、8時半開演だ」
「わー、楽しみだなあ! 久しぶりのウィーンフィルだ!」
「喜んでもらえてよかった。じゃあその前に、ちょっと俺とデートしないかい? せっかくウィーンにいるんだし…」
「いいよお、どこに行く? 大観覧車とかシェーンブルンとか?」
にこにこ笑って見上げる君は警戒心というものがまったく感じられない。俺は苦笑しながら頷いて、
「君の行きたいところに行こうよ」
と言ってやる。
朝市で入手したフルーツやチーズにぱくつきながら、君は星を散りばめたような瞳で語る。嘗てウィーンフィルと共演した際の、こまごまとした出来事を。コンマスがなかなかの曲者で苦労した話、ホルン奏者の完璧な演奏に感動した話、終演後のパーティーで呑みすぎて潰れた話。けらけら笑いながら話す君はまるでなんの憂いもないかのようで、俺はそれに安堵する。
昨夜のセデュイールとの、ラブシーンの撮影のことは、何も聞かないでおこう。君の瞳を徒に曇らせることもない。
腹ごなしにプラーターを散策した後で大観覧車に乗る。10人乗りの箱に乗り合わせたのは寄り添いあった老夫婦と、年若いカップルと、家族連れが一組。ゆっくりと上がっていく景色に幼い子供が歓声を上げ、君は仲睦まじい家族の様子を微笑んで見つめている。
ひどく穏やかな時間だ。撮影に忙殺されている日々が幻のように感じる。
君の肩を叩いて窓外を指さす。君は顔を上げてウィーン市街を一望し、どこか懐かしいような、追憶を辿るような顔をする。
透明で濁ったところのない君の姿が陽光にむき出しにされたようで、俺は目が離せない。
金の睫毛を瞬かせながら、君は景色に見惚れていた。
プラーターの屋台で買ったホットドッグをベンチで齧り、口の周りをべたべたに汚す君に笑う。幼い子供のように食べるのがへたくそだ。あまりファーストフードの類には縁のない家庭で育ったのかな? 幼い頃から音楽家として活動していたそうだから、徹底した栄養管理のもとにあったのかもしれない。
「君のご両親も喜ぶだろうね、音楽家としてだけじゃなく、銀幕でも光を放つ君を見たら…」
「僕に家族はいないから、喜ぶひとはいないかな。昔付き合った女の子が僕を観て、ろくでなしだったなあって思い出すことはあるかもだけど」
口の周りのケチャップを舌を伸ばして舐めとりながら君が言う。淡々とした声に感情は乗っていない。敢えてなのか、君が本心を閉じ込めているだけなのかはわからない。
「…ごめんね、悪いことを聞いてしまったな…」
「気にしないでいいよ。もう10年以上も経ってるし、どうしようもないことだから」
「君はたくさんの女の子と付き合ってきたのかな? 俺とどっちが多いだろう」
「数えてないから覚えてないけど。ワンナイトも含めたら大層な数になるよ」
「それだけの子たちを泣かせてきたってことか。悪い子だねえ」
「根無し草みたいだったから、昔の僕は…」
「まあ俺も同じようなものさ。お綺麗な方々には眉を顰められるような生き方だ。似てるねえ、俺たちは」
「…」
君はふと口を噤んで、茫洋とした目を上げる。誰かを思い出しているかのような横顔だ。羽搏いて手元から飛んでいった鳥を、追いかけるような目だ。
「君は本当に信じられる、自分だけのものを探していたんじゃない?」
「…そうだったのかな。どうだろう…」
「少なくとも俺はそうだったな。そして今はそれを見つけた」
「ふうん…」
「君のことだよ。わからない?」
「…ぼく?」
食べかけのホットドッグを下ろして、見開かれた目が俺を見る。やっと振り向いてくれた君に俺は気をよくして、ゆっくり頷く。君のエメラルド色の瞳にちかちか光が反射する。ぐるぐる回る観覧者の窓に反射した陽光が君の瞳に飛び込んだのだ。青褪めたように見えるほどの白皙は色を変えない。君が俺のために、頬を染めてくれることはない。
「あんまり好きじゃないな、その冗談」
ぽつりと不貞腐れたように零して君は、またがぶりとホットドッグに嚙みついた。




